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 人文書が「売れなくなった」「読まれなくなった」と、出版業界で言われてからずいぶんと歳月が経ちました。
 今では、かつてそのようなものが読まれていた時代の気配さえ、とっくに消滅してしまった感があります。
 しかし、それも、宜なるかなと思うのです。
 今回の記事では、そのあたりの事柄について少し書いてみたいと思います。
 また、ここで、哲学・思想と呼んでいるのは、厳密な意味での「哲学」、つまり、西洋思想を指しているわけではなく、日常用語として使われている場合の、哲学や思想、周辺の人文思想一般のことを指しています。

 ところで、私自身は、若い時分から、探求のために多くの書物を渉猟してきました。
 それも、巷に溢れる一般書のたぐいではなく、きちんとした歴史的な著者(天才)の本/古典/前衛を探索し、普通の人の何十倍は読んできました。
 すでに、当時は、本をきちんと読む人間は少なかったので、風変わりな状況だったと言えます。
 それは、本当に「核心的なこと」を知りたいというのが動機だったからです。

 また、なるべく、歴史的な著者の作品にあたり、一般書や通俗本のたぐいを回避するようにしたのは、思想や芸術関係のものについて、(学者を含め)別の誰かが解釈したものというのは、水で薄めたというよりは、その本質や核心が、別のものに変換され、〈天才の核心〉が喪われていることに気づいたからでした。
 別の誰かの書いた解釈本のたぐいは、決して山頂にたどりつかない脇道に似ていて、結局は、時間の無駄やまわり道になることも多いとわかったからです。
 その思想の文脈(コンテクスト)の大要を知るのに、そのような本はある程度役立ちますが、あくまでも補助機能しかなく、一番核心的な事柄には触れることができないと気づいたからでした。天才の本質は、超越的なものであり、それを凡庸な次元に、別のものに置き換えることは不可能だからです。
 喩えると、ファスト映画が、その映画の〈本質〉とは、なんの関係もないように、「体験の核/本質」としては、似て非なるものだからです。
(このことを書いておくのは、最近では、「実際の著者」の作品に触れていなくて、解説書のたぐいを読んで、噂話程度の浅い理解しかない人間が多くなってしまったからです。これも、おそらくネット社会の弊害と頽落なのでしょう)

 そのため、私が、若い人におすすめしているのは、なるべく純度の高い本物を、直接摂取するということです。
 最初から、二流三流のものをいくら摂取していても(現代社会で一流とされているものも、歴史的に見れば三流です)、真に純度の高い感覚、至高の感覚、本物の感覚が、身についていかないからです。
 至純のもの=山頂には、決してたどり着けないからです(また、山頂にたどり着くには、細く険しい山道を自分の足で登るしかないのです。誰かが代わりに登ってはくれないのです)。
 また、若い時代は、感覚を鍛えることこそ、何よりも大切なことであり、歳をとってからでは、感性が鈍磨して、鋭利な感覚はもう育っていかないからです。
 特に近年、ネットの普及以来、巷に溢れるものは、水で割ったというより、汚水で割ったかのように、低レベルのものばかりなので(YouTube等)、まがいもののニセ情報で、そもそも、最初から違う山を登っているという事態にもなっているからです。山頂にたどり着けないばかりか、腐敗した泥濘にたどり着くか、もくしは遭難必至という事態なのです。

 すでに一世紀以上前に、ニーチェは指摘していました。

 「すべての書かれたもののなかで、わたしが愛するのは、血で書かれたものだけだ。血をもって書け。そうすればあなたは血が精神だということを経験するだろう。
 他人の血を理解するのは容易にはできない。読書する暇つぶし屋を、わたしは憎む。
 読者がどんなものかを知れば、誰も読者のためにはもはや何もしなくなるだろう。もう一世紀もこんな読者がつづいていれば、――精神そのものが腐りだすだろう。
 誰でもが読むことを学びうるという事態は、長い目で見れば、書くことばかりか、考えることをも害する。
 かつては精神は神であった。やがてそれは人間となった。いまでは賤民にまでなりさがった」

ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』氷上英廣訳 岩波書店

 大昔は、書物にアクセスするにも大変な苦労が要りました。その後、印刷技術が発展して、誰もが、読む訓練も感覚もなく、安易にテキトーに読みうる事態になったのです。
 そして、そのような時代が一世紀以上続き、現代では、誰もが(デタラメを)書きうる時代になり、精神は腐り、賤民以下になってしまったというわけです。

 さて、以上は、前置きです。
 以下は、そのような、優れた著者の作品が前提とされた話です。

 さて、そのように、私自身は、多くの優れた作品を漁りつつ、何か〈決定的なもの〉を探し求めていたのですが、一方で、このように「本を読む」こと自体に、「本を読む」というスタイル自体に、どこか、根本的な問題(間違い)があるのではないかとも感じていたのでした。
 というのも、いくら並外れて優れた、天才的な本を読んでも、自分の「存在自体」に、なにか根本的な変容が起こるわけではなかったからです。

 たしかに、感性や思考は研ぎ澄まされていきました。深い感動もたくさんありました。
 しかし、いくら頭でわかっても、自分の「存在自体」「生自体」が、本当に変容するということでもなかったのです。
 それが、「生/意識/存在」自体の変容を起こすものでもなかったのです。
 言ってみれば、「ただ、そんな気になる」ということでしかないのです。
 (世間には、それで満足している人間が多いことにも気持ち悪さを感じました)
 私自身は、もっと「存在 Being 自体」が、本当に変容しなければ、然るべき〈真理〉にたどり着けないと感じていたのでした。

 ただそれは、著者たち自身の姿を見てもわかることでした。
 語っている内容が、本人たちを、なんら実存的変容に導いていないことは、明らかだったからです。
 ただ、「思想を語っている」だけだったからです。
 思考と存在が分裂しているのです。
 そのような思想には、何か本質的なレベルで欠陥があると感じられたのでした。

 当時、私が求めていたのは、もっと直接に、意識と存在につながり、「存在」それ自体を別様に変容させたり、拡大させたりする思想や哲学だったのです。
 そこに、強いジレンマを感じていたのでした。

 そのようなときに、思想的実践としての「体験的心理療法」に出遭ったのでした。

 当時は、故吉福伸逸さんが日本に残していった、トランスパーソナル心理学体験的心理療法関係の本などがまだ少しあり、それらの情報にアクセスすることが可能だったからでした。
 そして、そこには、「存在変容の理論とそれに接近する具体的技法へのヒント」があったのでした。
 そのため、それを試してみない手はなかったのです。

 そして、いざ、本当に実践してみると、それらは私のジレンマを一挙に解消し、私を、思想の「新しい地平」に連れ出したのでした。

 例えば、呼吸法を使うブリージング・セラピーの実践などでは、私は、強烈な変性意識状態(ASC)に入り、自分が「子宮の中の胎児」の頃にまで退行するという体験をしました。
 それは、「思い出す」のではなく、グロフ博士のいうように「再体験された」のでした。
 「意識」そのものが変容し、その意識状態は、「胎児」自身の意識だったのです。
 また、そのことで、深層意識や身体の奥底に凝縮して潜んでいたトラウマ的な感情が深部から解放されるという事態も起きたのでした。

 このように、「体験的心理療法」には、みな、具体的・実践的な方法論があり、実際に、「意識」や「存在」を一変させるような力を持っていたのでした。
 本を読むだけでは何も変容しなかった「意識」や「存在」が、実際に変容していくプロセスをまざまざと体験することができたのでした。
 新しい生の領域が、開けてきたのでした。
 そこに、私は、新しい思想や哲学を感じたのでした。

 そのような取り組みが、私自身をどのような地平や想像を絶する旅路に連れて行ったのかは、拙著『砂絵Ⅰ:現代的エクスタシィの技法(改訂版)』をご覧いただければと思います。
 ここでは、体験的心理療法を掘り進めた果てに開かれる意識/存在変容のとんでもない諸相が描かれています。
 これは、変性意識状態(ASC)や体験的心理療法などについて書かれていますが、実は、その真意は、生の哲学、ただ頭でアレコレ考えているだけでなく、「実際に存在変容を起こす実践技法とひとつになった生の哲学」がテーマだったのです。
 それは、私自身が感じていた、若い頃の「ジレンマ」への回答となっているのです。
『砂絵Ⅰ:現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容 (改訂版)』

 ところで、前段で挙げた、「本を読む」だけでは、存在は変容しないという問題は、実は、体験的心理療法の中では(普通の心理療法の中でも)、セラピー的な切り口から、むしろ、逆の側面で、問題視されていることでした。
 それは、「知性化」という問題です。
 そのことで、かえって、人は変われないのです。

 精神分析が指摘しているように、「知性化」は、人の防衛的なふるまいだからです。
 過度に「知性化」しているクライアントは、治りにくいのです。
 というのも、「知性化」自体が、自分の抑圧された感情(欲求)を感じないようにして、ごまかすための防衛機制になっていることが多いからです。
 ただ、この近現代の社会全体が、そのようなゴマカシと抑圧の社会なので、その異常さが隠蔽されて、普通のことされてしまっているのです。
 だから、現代社会は、このように生の充溢を欠いた、空虚な社会となってしまっているのです。

 また、私が、「存在の変容」について感じていたジレンマは、ゲシュタルト療法では、About-ism(について主義/理屈づけ)とIs-ism(である主義)の対比としても語られていました。
 About-ism(について主義/理屈づけ)とは、何か「について」間接的に、知性的に語る、防衛的な態度です。
 セラピーにおいて、自分の感情(欲求)について、間接的に、知的に語っているかぎり、真の癒しや統合は起こらないのです。感情(欲求)を、間接的に対象化している時点で、直接、感情(欲求)を感じられていないので、その情動的解放が起こらないからです。
 Is-ism(である主義)とは、直接的な態度です。その感情(欲求)そのものになっているとき、情動は解放され、癒しと統合が起こるのです。

 近代社会は、About-ism(について主義)の社会であり、何か「について」間接的におしゃべりしているだけの社会です。
 それも、人間たちが考えた「概念」について、おしゃべりしているだけの社会です。
 本当は何も信じられてないのに、信じているフリをしているだけの社会です。
 だから、存在から解離し、遊離した、空虚な社会となっているのです。

 さて、今回は、「哲学や思想の凋落」と題したわけですが、その意味合いは、以上のような理由なのです。
 そこでは、それなりに優れているものでさえ、私たちを本当の変容には導かないのです。
 人々が、それらに興味を失っていったとしても、ある意味、仕方がないとも思われるのです。

 以上、いろいろと見てきましたが、これは必ずしも、従来の思想や哲学が、すべて無駄であるというわけではありません。
 使い方の限界を見極めて、効果的に使える要素を使っていくことは、さまざまにできるからです。
 ただ、今、普通に信じられている近代主義的な姿勢がそのまま、つまり、「存在」から解離したAbout-ism(について主義)のままで続くなら、それは、分裂の温存であり、むしろ病を深めていくということなのです。
 私たちは、自己の存在に触れて、それらを深く変容できて、はじめて、豊かで意味のある生の次元に触れられることができるからです。
 また、近年、急速に発達しているテクノロジーに対しても、その姿勢が重要です。
 私たちの価値の中心が、何であるかをつかんでいなければ、技術進歩の奔流に流されるままに頽落していくだけでしょう。
 台頭してきたAI(人工知能)の問題なども、それらが従来のように、頭で考えただけの、「存在」から解離したAbout-ism(について主義)のままであつかわれるなら、それは、人類の滅亡にしか行きつかないでしょう。




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