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十四才・わたしの怪しく妖しい衝動

 これまでに経験したことも無い、からだの奥底から突き上げて来るような、どこかしら仄暗く、怪しく妖しい、その「衝動」を、わたしが初めて自覚したのは、十三才くらいのころだったろうか。。

 「それ」は、誰とも共有できないような、大変に「個的なもの」で、わたしが生来から抱えている「集団に対する嫌悪」と、どこかしら似ているようにも、感じられた。

 そのうえ「それ」は、意識するたびに、「どくん。」という音がして、からだのなかをぐるぐると駆け巡るような、そんな感覚を、わたしにもたらすのだった。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 五、六年生のころは、「世界名作文学」や「日本文学全集」などの「純文学」を、好んで読んでいたはずだったのに、中学二年生になったころのわたしは、いつの間にか、「ミステリー小説」ばかりを、読むようになっていた。

 「アガサ・クリスティ」、「横溝正史」、「江戸川乱歩」など、である。

 小学生の頃のように、読書に対して、まとまった時間が取れなくなっていたので、じっくりと考えながら読み進むような「純文学」には、なかなか手が出せなかったということも、「言い訳」としては、ある。

 でも、もちろん、それだけの理由では、無かった。

 あのころのわたしは、「血なまぐさいもの」が、なぜか、どうしようもなく、見たかったのだ。

 アガサ・クリスティが描く「欲望に踊らされた殺人」や、横溝正史が描く「おどろおどろしく、凄惨で、血みどろな事件」、さらには、江戸川乱歩が描く「妖艶で細工だらけの、非日常的な世界」。。

 そんなものが、わたしのこころを捉えて、離さなくなっていた。

 小学生のころは、「理科」の「カエルの解剖」の時間に、「カエルが、かわいそう」と言ったきり失神してしまい、気がついたら、保健室のベッドに寝かされていたような、気弱な子どもだったのに、それは、自分でも、理解するのが難しいくらいの、「変身ぶり」だった。

 「血みどろで怪しく妖しい世界」を、どうしようもなく欲する反面、そんな自分を、わたしは、当然ながら受け入れ難くて、内心では、怖れても、いた。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 あのころのわたしは、中学生のくせに、生意気にも、日曜日に、ひとりで、繁華街まで出向いては、「気になる映画」を観たりしていた。

 「往年の名画」はもちろんのこと、当時、主演の若い二人の、一糸まとわぬシーンで、世の中が騒然となった「ロミオとジュリエット」とか、血みどろシーンが満載の、フランコ・ネロ主演の「マカロニ・ウエスタン」なども、わたしは、不思議なことに、誰に咎められることもなく、平気で、観に行けていたのだ。

 校則は、全然厳しくなかったし、勉強さえ出来ていれば、まわりの大人たちは、わたしが、頭の中で、何を考えているかなんて、全く、気にしてはいなかった。だから、わたしは、ある意味、やりたい放題だったのだ。

 それでも、わたしは、「血を見たい怪しく妖しい衝動」が、自分のこころのなかで、どんどん大きな位置を占めてゆくことが、ほんとうは、怖かった。

 雲の流れや、吹く風の移り変わり、咲く花や、飛んでいる虫、それに、行き交う小鳥たちの季節ごとの違い、などを感じることで、心が満たされていたはずのわたしは、いつの間にか、どこかに消えてしまって、「物騒なものだけを見たい自分」が、こころの真ん中を占拠していることは、実に「恐怖」だった。

 人間が持つ「奥深い本能」は、簡単に「色分け」出来るような単純なものではなく、「善」と「悪」との境目も、本来は、すっきりと「線引き」出来るようなものでは無いのだ、ということを、おそらくわたしは、「映画」や「ミステリー小説」から、学び取ろうとしていたのだと思う。

 でも、そんなことは、中学二年生のわたしに、分かるはずもない。

 誰にも相談することも出来ずに、不安におののきながら、わたしの毎日は、ただただ、勉強に追いまくられて、過ぎていた。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 やがて、夏休みがやって来た。

 夏休み中も、勉強の合間を縫っては、雑多な「映画」を、「名画座」を巡って観まくっていたわたしは、しだいに、「映画の世界」に、憧れを抱くようになっていった。

 ーー「映画女優」には、どうやったらなれるのだろうか。。

とか、

 ーーメイクとか道具の仕事でもいいから、「映画の世界」に関わってみたいものだな。

などと、わたしは考え始めていた。

 ただ、今から五十年以上も前の、情報の全く無い、東北の地方都市で、勉強漬けの中学生が、そんなことを、ひとりで思っていたとしても、「夢のおはなし」でしか無くて、何事も起きないままに夏休みは終わり、また、宿題と勉強に追われる日々が、普通に、始まって行くだけ、だった。

 ーー退屈過ぎる。

 わたしは、あまり丈夫ではない「小柄で弱々しい少女」の外見とは裏腹に、まるで「血に飢えた狼のような心情」で、日々を、暮らしていた。。

 そんなある日のこと、それからの「生活の在りかた」を、大きく変えてくれる人との出会いが、わたしに、訪れた。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「祝子さんて、あなたなの?」

 夏休みが明けたばかりの昼休みに、わたしのクラスの教室の入口に、学校じゅうで知らない者はいないほど、「才媛」として名高い三年生の先輩が、突然に現れ、戸口に居た子を介して、わたしを呼びつけると、そう、話しかけてきた。

 ーーわたし、なんか、やらかしたのかな。。

 怖れおののきながらも、

 「はい。わたしです。」

 と、答えると、その先輩は、

 「あなたなのね。なんか、面白い子って。」

と、わたしの顔をまじまじと見つめながら、そう、言い放った。

 そんな問いかけに、なんと答えるべきか、考えあぐねていると、先輩は、わたしの答えを待つまでもなく、速攻で、用件を言い出した。

 「この学校ってさ、演劇部が無いでしょ? わたし、演劇部を作りたいのよ。先生方は、演劇部は、不良の温床になるからって、反対しているんだけどさ。ね、あなた、わたしに、協力してくれないかな。」

 ーー演劇部。。

 こころのなかで、そう、つぶやいてはみたけれど、先輩が、なぜ、このわたしに協力を求めて来たのか、あまりにも謎過ぎて、簡単には、返事が出来ず、わたしは、ただ、ぼんやりと、先輩の顔を、見つめるしか、なかった。

 「あなたさ、六年生のとき、ダンス部だったって聞いたのよ。 学芸会で踊ったって。上手だったそうじゃない?」

 ーーたしかに、踊った。

 「それにさ、あなた、いろんな小説を読んでる子だっていう、噂だしさ。ね、協力してくれるよね。他にも面白そうな子たち、何人かに、声をかけてるんだよ、わたし。」

 先輩は、もう、決まっているかのような言い方をしながら、わたしを見ていた。

 学校じゅうの子が知っている「才媛」に、どうしてか、自分のようなものが、「名指しで」誘われているのだと、ようやく、理解したわたしは、

 ーーこれは、何かのチャンスなのだ。断わる理由はひとつもない。

と、一瞬で、判断した。

とりあえず、にっこりして、先輩の顔をしっかりと見て、

 「はい。やります!」

と、わたしは、答えたのだ。

 「あー。良かった。ありがと。じゃ、ミーティングが決まったら、また、来るから。」

 先輩も、にっこりした。そうして、手を振りながら、帰って行った。

 ーーふう。

 先輩が、自分の学年のフロアに帰ってゆく後ろ姿を見送りながら、わたしは、また、からだの奥底から、「どくん。」という音が聞こえて、何かが、からだじゅうを駆け巡り始めたことを、感じていた。

 でも、それは、なんだか、いつもより、あんまり後ろ暗い感じはしなくて、血が騒ぐ感覚だけが、わたしのこころに残るように、思えた。

 わたしは、不思議に、ゾクッとして、妙に、ワクワクして来たのだった。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 先生方が、「不良の温床になるから」という理由で、反対している「演劇部」を、生徒の力だけで立ち上げるという、その「危険そうな課題」は、わたしの「在りかた」を、大げさに言えば、根底から、変えた。

 それまでのわたしは、なんでも、あてがわれたものを、逆らわずに受け入れて、その「枠」のなかで「最善」を尽くそうと頑張る、ただの「優等生」に過ぎなかった。

 ほんとうは、不本意でも、「抗えず」に、「従順な」ふりをして、「枠」のなかで「羊の姿」に甘んじていたわたしに、「知恵」を使って「工夫」をすれば、「権威」に「抗うこと」だって出来るのだ、ということを、その先輩は、身をもって教えてくれたのだ。

 先輩は、学校きっての「才媛」なので、先生方からの信頼も篤かった。その先輩が、ひと肌脱いで、ひとを集め、当てがわれた「枠」を越えるために「知恵」を絞る。

 ーーなんてかっこいいんだ。

 ーー先輩は女子だけれど「男前だ!」
と、わたしは感心した。

 先輩が選んだ、たしかに「個性」が勝っているような子たちばかりが集められた、その「任意の集団」は、先輩を中心に、それからクリスマスくらいまで、頑張って活動した。

 具体的な「顛末」は、「レトロな中学時代」のなかの「演劇部」に、書いたけれど、わたしたちの「活動」は、結果、成功し、先生がたに認められて、翌年から、「演劇部」は、正規の部活動に、昇格したのだった。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「演じること」は、わたしを変えていった。

 「個性的な演劇部の面々」は、クラスはみんな違っていたけれど、それぞれに、「自分を主張出来るひとたち」だったので、関わり合うことは、心地よかった。

 「演劇」は、「映画」と違って、「ひと」が何人か集まるだけで、「機材」などが無くても、ある程度は成立する。

 わたしは、もう、「映画女優」にはならなくてもいいや、と思うようになっていた。

 「からだ」を動かし、大きな「声」を出して「他者を演じ」、「他者を生きる」ことで、わたしのなかの「血みどろで怪しく妖しいものを欲する衝動」は、少しずつ分解されて、やがて小さな粒となり、シャボン玉のように空に昇って、そっと消えて行ったようにも、感じられたのだ。

 血みどろの「マカロニ・ウエスタン」は、もう、観なくても良くなっていった。

 わたしは、ほっとした。「演じること」に出会えて、ほんとうに良かったと思った。

 こころのなかに、新たに芽生えた「課題」が、わたしを夢中にさせていて、「例の不気味な衝動」のことは、もう、あんまり、気にならなくなっていたのだ。

 「セリフ」を覚え、からだの動かしかたや、身振り手振りを覚えることは、もちろん大切なのだけれど、ほんとうは、「セリフ」になってはいない「役のひと」の「おもい」や、「考え」や「感情」を、「全体的に」表現出来ていないといけないのだ、ということを、わたしは、「演じること」を通じて、学んだ。

 それに加えて、自分が「セリフを話しているとき」と同じくらい、「ひとのセリフを聞いているとき」や、「ただ立っているとき」にこそ、「役のひと」の「こころ」を、ちゃんと、表わせていなければならないのだということも、わたしは、知っていった。

 だから、

 ーー演じるためには、もっと「ひとのこころ」について、知らなくてはいけないんだ。
と、思ったのだ。

 大きな書店に行って、わたしは、「心理学」の本を探した。

 そうして、いろいろに、立ち読みをしてみたわたしは、そこで、生まれて初めて、「フロイト」とか、「無意識の世界」とかいうものを、知ったのだ。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 そんなころ、日本中を震撼させる事件が、起こった。

 一九七〇年 十一月二十五日に、それは、起きた。

 「三島由紀夫による、市ヶ谷駐屯地の立てこもりと割腹自殺」である。

 「三島由紀夫」は、超有名な作家だったし、彼の「初期」の作品は、結構読んでもいたから、それはもう、わたしは、大変なショックを、受けた。

 あんなにも、頭脳明晰で、理論派なはずの作家が、ある意味、「短絡的かつ情動的」としか思えない「事件」を起こし、かつ、「割腹自殺をして」、死んだのだ。

 死んでしまったのだ。。

 その事件は、わたしの理解を、優に超えていた。。

 学校は、一日じゅう、先生方も含めて、その話題でもちきりになったし、「泣いてしまう子」まで、居たほどだった。

 ーー少なくとも、もう、「三島由紀夫」の「新作」は、読めないのだな。

などと思いながら、わたしは帰宅し、二階にある自分の勉強部屋に、学生カバンを置くため、重い足取りで、階段を昇った。

 うす暗い部屋のドアを開け、ふと、机の上を見て、わたしは、腰を抜かすほどに、驚いた。

 そこには、「三島由紀夫」の「生首」が、目をカッと見開いたまま、「鎮座」して、いたのだ。。

 わたしは、図らずも、そこで、「三島由紀夫」そのひとと、「対面」することに、なった。

 さすがに、腰を抜かすほど驚いたのだけれど、そのふいの一撃が去ったあとは、不思議なことに、わたしは、もう、恐怖を感じなかったのだ。

 ただ、黙って、静かに、わたしは、「三島由紀夫」の「生首」を、見つめてしまっていた。

 「ひとには、成すべきことがある。ただ、理論だけでは、成し遂げることは出来ない。そこには、情動が、必要だ。エモーションが必要なんだよ、キミ。」

  「三島由紀夫」の「カッと見開いた目」から、そんな「メッセージ」が、伝わって来たように、わたしには、感じられた。

 「情動=エモーション」。。

 そんなメッセージを、わたしは、たしかに、受け取っていた。

 でも、それは、ほんの、一瞬の間の出来事だった。

 次の瞬間には、わたしは、急激に「恐怖」を感じ、階段を転げるように降りて、

「三島由紀夫の生首が、わたしの机の上に在ったよ!怖いよー。」

と、母親に向かって、叫んでいたのだった。

 母親は、呆れた顔でわたしを見て、取り合うこともなく、普通に

「そんなこと、あるわけないでしょ。さ、着替えて来なさい。ご飯だよ。」

と、言った。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 「三島由紀夫」を、あのような「行動」にまで突き動かしたものは、果たして「情動=エモーション」だったのだろうか。。 

 徹頭徹尾、理論武装をして、「事件」に及び、かつ、まるで「ものがたりを終わらせる」かのように、彼は、「自分の人生を閉じてしまった」のだけれど、それらを根底から突き動かしていたものは、結局「何」だったのか。。

  わたしは、「混乱」していた。

 事件の元になった小説とされた「憂国」を読んでみても、ちっとも分からなかった。

 あんなに「頭脳明晰な作家」が、なぜ、あんな、「自分だけの論理」のなかに埋もれたかのような「事件」を起こさなければならなかったのか。。

 十四才のわたしには、やはり、「理解」は出来なかった。どうにも、すべてが「ちぐはぐ」に思えて、仕方がなかったのだ。

 たとえ「妄想」だったとしても、あの日、「三島由紀夫」の「生首」が、わたしの机の上に現れ、わたしに伝えて来たことは、五十年以上経った今でも、はっきりと、思い出すことが出来る。

 不思議な出来事だった。。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

  年が明けてしばらくしたころ、わたしは、大好きな俳優の「フランコ・ネロ」が出演する「映画」を、また、ひとりで、観に行こうとしていた。

 「フランコ・ネロ」は、あの当時は、「マカロニ・ウエスタン」のスターだったのだけれど、そのとき、わたしが観ようとしていたのは、「哀しみのトリスターナ」という「前衛的な映画」だった。

「カトリーヌ・ドヌーヴ」が主演で、「フランコ・ネロ」は、その恋人役だった。

 西部劇の扮装でない「フランコ・ネロ」を、初めて観ることが出来るので、わたしは、かなり、楽しみだったことを、覚えている。

 映画館の電灯が落ち、「哀しみのトリスターナ」は、始まった。

 若く美しいカトリーヌ・ドヌーヴの役回りは、かなり不幸だった。

 「母親」が亡くなり、「孤児」となった「彼女」は、「母親」が「愛人」として関わっていた「老富豪」に引き取られるのだが、やがて、「母親」と同じように、「彼女」も、その「老富豪」の「愛人」にされてしまう。。

 「孤児」だから、養われざるを得ないのだけれど、「愛人」にされてしまった彼女は、ほんとうは、「老富豪」を心底憎んでいるのだ。

 それを、救おうとするのが、若い貧しい画家の「フランコ・ネロ」だ。

 いやらしい老富豪に、翻弄されるカトリーヌ・ドヌーヴ。。

 すると、突然、何の脈絡もなく、

 目をカッと見開いた「老人の生首」が、映画館の画面いっぱいに、クローズアップされた。

 「老人の生首」は、なぜか、教会の鐘の塔に、括り付けられていて、鐘と共に、前後に、大きく揺れる。。

 そのたびに、「鐘の音」は、大音響で、鳴り響く。

♪ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン。。

 「生首」は、手前に揺れると、画面からはみ出さんばかりに、こちらに向かって、迫って来るのだ。

 わたしは、怖ろしさのあまり、思わず、両手で、目を覆った。

 その「生首」は、ヒロインの「夢のなかの産物」だったのだけれど、その唐突さによって、インパクトは、まさに「最強」だった。。

 愛憎を併せ持つ「無意識の世界」が「彼女」に見せてしまう「夢」が、教会の鐘の塔に括り付けられた「生首」なのだ。

 大音響とともに「揺れる生首」は、ほんとうは「殺したいほどに憎んでいる」ことの「象徴」なのだった。

 ーーまた、「生首」だ。。

 わたしは、映画を観ながらも、「三島由紀夫」が亡くなった日に、見せつけられた「彼の生首」の「カッと見開いた目」のことを、思い出していた。

「哀しみのトリスターナ」は、「シュールレアリスム」を題材にした映画だった。

 「意識」なんか、あんまり、意味をなさない。「意識」は、「無意識」に翻弄されるものでしかないのだった。

 「シュールレアリスム」の「表現」にとっては、筋書きの整合性よりも、登場人物の、「無意識」や「エモーション」が、重視される。

 ーー不条理。。

 整合性がとれない「事柄」は、「無意識」に突き動かされた「不条理な出来事」という名を与えられるのだった。

 画家役のフランコ・ネロは、思ったとおり、涼しげな目元で、知的で、素敵だった。

 けれども、彼は、「普通のひと」の役回りで、決して「不条理なひと」ではなかったので、あまり、印象には残らなかったのが、残念だった。

 それでも、「フランコ・ネロ」が出演しなかったら、わたしは、「哀しみのトリスターナ」を観ることはなかったはずなので、わたしのその後は、違ったものになっていたかもしれない。

 それほどに、「哀しみのトリスターナ」が、わたしに及ぼした影響は、大きかったのだ。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

  十四才で、わたしが遭遇したことは、まさに、「盛りだくさん」だった。

 さまざまな偶然の出会いが、それぞれに、いろいろな影響を、十四才のわたしに、あたえてくれた、と思っている。

 中学三年生になるころには、わたしは、もう、「怪しく妖しい衝動」に、囚われて、翻弄されるようなこととは、「さよなら」をしていた。

 そうして、わたしが、今後、自分の「テーマ」として、関わって行こうと思うものは、「ひとの心理」なのだ、ということが、しだいに、固まり始めていた。

 そのために、いろいろなことを、いろいろな方向から、学んで行きたいものだ、と、わたしは、決心し始めていたのだ。

 「三島由紀夫」との「再会」は、大学に入学してから、大学の「演劇部」で迎えることになるのだけれど、わたしの十四才は、まさに、その、下地となった日々だった。

「三島由紀夫」は、わたしにとっては、今でも、「ひとの心理」の「不条理さ」を表すアイコンである。

 あの日の「あの事件」は、識者たちが、いかに論じようとも、やはり、「解決しようのないもの」なのではないかと、わたしは、今も、思っている。

 

 

 

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