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【自己紹介】15-3 休みのススメ 休職前後の身体の変化(休職後編ii)

タイトル画像は引き続き生成AIですが「昼、海辺、女性1人、バカンス」で作成しました。悪くないけど、足と手どうなってるんでしょうか。この赤い平たい物体は何……?なんか不思議な感じに仕上がりました。


休職後1~2か月

あの不調もこの不調も、仕事のせいだった

休職後2か月ほどは、とにかく「自分のためのこと」をせっせとやりました。捻挫で動けなくても「おうちでカーブス」(オンラインでどこでもワークアウトできるサービス)を活用して左足以外の筋肉が衰えないようにしたり、スキンケア情報をネットで調べてよさそうなものを試すなどしました。このときはまだ1・2か月で復職するつもりだったので、少しでも日々の生活が楽に回せるようなライフハックを集めることもしていました。
このおかげで2~3週間ほどで肌の調子は爆上がりしました。頑固な万年吹き出物に悩んでいたのですが、すっかり良くなりました。
仕事のストレスがなければわたしの肌はこんなに素直だったのか!

また、仕事に行かなくてよくなったら、ぐうすか眠れるようになりました。「明日かぐや姫課長(63歳・男性・定年後再雇用)に何を言われるかわからない」「仕事がいつ終わるか見込みが立たない」ということにおびえなくて済むようになったためです。
また、くらたの仕事は災害時の緊急要員や理不尽クレーム対応でもあったので、それらの対応から外れたことも大きいです。
災害時要員に組まれたからと言って何か特別な訓練があるわけではない。家から歩ける距離でもない。正直困っていた。
また、いつか書けたら書きますがくらたは性犯罪サバイバーであるため、理不尽クレーム、特に男性からのそれの対応は、本当に恐怖でした。もちろんサービスに瑕疵があった場合の謝罪は得意ではないけれど仕事です、できなくはない。でも、理不尽クレームは別です。あるとき、特定の人から名指しで毎日2〜3時間の電話がくるようになってしまいました。もう夜なのに「今から行く」と言われたりして、怖い、辛い日々でした。帰り道、何もないのに振り返ったりして。こういうときほんとうに「殺されるかもしれない」という恐怖に襲われます。
また、WAISを受検した今となっては、処理速度は高いのに聴覚情報が苦手な脳の特性もあり、長時間意味の取れない話を聞き続けるのもかなりの負荷だったと思います。
そのときは、同僚のおじさんに頼み込んで代わりに出てもらったらその後かかって来なくなりました。
この助けてくれたおじさん職員は、かぐや姫と入れ違いで出て行ってしまいました。

……うん、今思ったけど、くらたはこの仕事に向いていない要素しかないですね。なんでこんな部署に5年以上も止まっているのだろうか。

ともあれ、こうした脅威にさらされなくなったら、しょっちゅう調子を崩していたおなかも全く壊さなくなりました。いったんおなかを壊すと2~3週間調子を崩したままのことがよくあったので、これは本当に助かりました。
体調で変わらなかったことと言えば、片頭痛でしょうか。これは幼少期からの付き合いなので仕方ないのかもしれません。
中野信子さんも片頭痛持ちだそうで、親近感がわきました。でも「片頭痛持ちは賢いと言われるが、そういうデータは見たことがない」そうです。くらたもそういうことが書いてある片頭痛の人向けの本を読んだことがある。そうでも言わないとやってられない誰かが言い始めたのでしょうか。確かに、痛いし寝れないし吐くし水も飲めないし、いいことは一つもない。
ともあれ、子どものころは「片頭痛はよく起こすけれどおなかは強い子」だったのですが、今はその状態に戻った感じです。

耳は、1か月ほどで、だいぶ回復しました。ただ、ストレスはもちろん、気圧や生理の影響を強く受けるため、いまだに波があります。
メニエール病は内耳のむくみで起こるそうなので、聞こえづらさが続いている最近は、利尿作用があると聞くキュウリをボリボリ食べています。

高熱を2回も出した

体調が回復する途中で、高熱を2回も出しました。1か月目になったころと2か月目になったころです。どちらも38度以上出ました。こんなに熱を出したのは10年ぶりで、何年も緊張状態を続けていたのを急に休んだから、数年来の疲れやら毒素やらが出たのかもしれません。
このとき、まだ発熱外来が厳しくて病院にかかれませんでした。でも、仕事がないのでその点は気が楽でしたし、正しく休職しているなという実感もありました。

こんなときに、人生初・人間ドック

休職して1か月後、1回目の高熱が治った後に人生初の人間ドック・胃カメラを受けました。
医療従事者のみなさんは杖に驚いていました。「そんな状態で来たの?健康診断してる場合じゃなくない?」って感じ。確かに。
でも半年ほど前から予約していて、鼻から胃カメラできる枠は週に数枠しかなかったし、生理ともぶつからない日程となると再調整が面倒くさい。休職者は健康診断の対象外でしたが受けるなとも言われなかったので……。
そして人生初の胃カメラは鼻からでも十分つらかった!背中を撫でてくれる看護師さんの手が心強かったです。
先生が「すごくきれいな胃だから安心して!」って言ってくださいました。気の遣い方が独特です。でも、ありがたかった。

「泣けるようになった」

少し歩けるようになったら、映画や演劇を観に行くようになりました。特に演劇は休職前にチケットを取ってしまったものが多くあったため、行かないともったいない。「マッチポンプじゃないか」とまで言っていた映画、演劇を楽しめるようになっていました。

このころのメモには「泣けるようになった」とありました。
休職直前は何をしていても仕事のことが頭にあったので、映画や演劇に入り込めず泣いたりしなくなっていたのですが、休職以降、映画や演劇などに心行くまで入り込んで、ときには感動して泣けるようになりました。

これもいつか書きたいですが、くらたは幼少期から大人になっても、よく笑いよく泣きよく怒ります。昼寝はしないわ、喜怒哀楽が激しいわ、相当育てにくい子どもだったと、保育士をしていた母によく言われました。

Lilyさんの上記のnote.を拝読して知ったのですが、こうした特徴は過度激動(OE)と呼ばれ、ギフテッドやADHDにみられるそうです。
それだけ「泣き笑い=感情を動かすこと」に関してめちゃくちゃチョロいくらたが、「泣けない=心が動かない」というのは異常事態だったのだと、今になって思います。

次回に続く

うむむ、思ったより書くことがいっぱいあった。
今回も長々とお目汚し申し訳ありません。
でも、わたしにとってここに書くことはとても大事な喪の儀式のような気がしていて……。

希望の喪失、面目の喪失、お金の喪失、自身の喪失……。あらゆる種類の喪失を乗り越えて、生きる術を身につける必要がある。(略)
心のケアの専門家たちが指摘しているように、喪失の苦しみを乗り越えるには、それを受け入れ、分かち合わなければならない。アーティストが体験する喪失は公表されることも、嘆き悲しまれることもないので、創造性の発達を阻む傷になりやすい。分かち合いによって癒すには、あまりにも痛ましく、愚かで、屈辱的だと思えるため、それらは放置され、やがて無意識の中にしまい込まれるのだ。(略)
私たちの内なるアーティストはまだ子どもであり、感情を上手に扱いきれないことを覚えておく必要がある。なんらかの喪失に見舞われたら、そのことをオープンにし、喪にふくさなければならない。

『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』(ジュリア・キャメロン/サンマーク出版)246ページ

以前書いたブリアナ・ギガンテさんも、両親との確執や自身のセクシュアリティについて体験をベースにした絵本『ブリアナ・ギガンテのほんとうにあったかわからない物語(あなたしだい)』出版時のインタビューで下記のように語っています。

制作期間は、ずっと蓋をしてきた記憶をこじ開けるようなものでもあったので、わたくし、感情が爆発してしまう瞬間もあったんです。それこそ担当して下さった方々の前で号泣してしまう場面もありました。でも、お話を聞いてもらいながら制作をしているうちに、気持ちが整理整頓されていったんです。だから、この絵本の制作は、わたくしにとってセラピーのようなものでもございました。

『ダ・ヴィンチ』(KADOKAWA)2023年12月号159ページ

次回に続きます。
駄文にお付き合いくださった方、ありがとうございます!
似た状況にいる方、もしいらっしゃいましたら、どうぞご無理なきように。

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