広島郷土史:明治編(4)正岡子規の「広島は柳の多きところかな」から考える
広島を訪れていた正岡子規
正岡子規が広島で詠んだ句
明治28年(1894)3月、正岡子規は広島を訪れました。
陸羯南(くがかつなん)の主催する雑誌「日本」の従軍記者として中国大陸に赴き、日清戦争の記事を書くためでした。
しかし、従軍する予定だった東京第二近衛師団の宇品港出発が、4月28日までずれ込んだため、子規は約一か月以上も広島に滞在することになります。
その間、子規は広島で多くの句を詠みました。現在、広島市内に句碑として残されているものがありますので、そのいくつかを紹介します。
(1)鶯(うぐいす)の口の先なり三万戸
広島市南区にある、比治山公園の富士見台展望台付近に句碑が建立されています。
この句は、子規が比治山から眼下に広がる広島市の街並みを眺めて詠んだと思われます。
(2)行かば我 筆の花散る處(ところ)まで
宇品港にほど近い、南区宇品御幸(みゆき)にある千田廟公園にある句碑です。これから中国大陸の戦場に赴かんとする、子規の決意を詠った句と思われます。
正岡子規の見た広島城下の柳の木
子規は、広島城下で観た「しだれ柳の風景」についてもいくつか句を残しています。折しも春でしたので、「花序」とよばれる動物の尻尾のような小さな花も見られたことでしょう。
(3)広島は柳の多きところかな
この句が広島のどこで詠まれたかは不明ですが、子規らしいストレートな句で、不思議と印象に残る句です。
(4)上下に道ふたつある柳かな
広島の段原村でこの句を詠んでいます。丘の傾斜地に上下二本の道が平行に通っていて、その二本の道の間に覆いかぶさるように柳の木が立っているという情景なのでしょう。
子規は、なぜ「柳」を詠んだのでしょうか。これについては、以下のふたつの解釈が出来そうです。
ひとつは、広島で見たままの風景を詠んだ、という解釈。
「写生」を大切にした子規の事ですから、広島城下にあった「しだれ柳」の多さに驚いて、ありのままを詠んだのでしょう。
ふたつめは、漢詩の世界では「柳」は別離の象徴であることから、宇品港から大陸に向けて出征する兵士や仲間の従軍記者達への送別、あるいは自分自身が無事に帰国できるようにという思いを「柳」に込めて詠んだという解釈も出来そうです。
有名な唐の詩人、王維の七言絶句「元二の安西に使いするを送る」でも「客舎青々 柳色新たなり」とあるように、当時の中国では別離の際に柳の枝を手折って相手に贈るという風習があったそうです。
それは「柳(リュウ)」の音が、「引き留める」という意味の「留(リュウ)」に通じるからとだ言われています。
子規はその後、意気揚々として遼東半島の金城に赴きますが、すでに戦闘は終わっていました。子規が到着した2日後には、下関講和条約が結ばれています。
子規が現地で見たものは、華々しい戦闘ではなく、戦後の荒れ果てた風景でだったのです。
一村は杏と柳ばかりかな
古寺や戦のあとの朧月
戦のあとにすくなき燕かな
広島では「行かば我……」と勇ましい句を詠んだ子規も、悲惨な戦場を見たあとでは、まったく心境が変わってしまい、このような句を詠んだのでしょう。
こうして戦場で俳句や従軍記事を書いた後、子規は日本へ帰ります。しかし、その船中で喀血してしまい、その後、彼の病状は次第に悪化して行ったのでした。
薄田太郎氏による「柳町界隈」の紹介
戦前の広島の「柳のある風景」については、初代NHK広島のアナウンサーであった薄田太郎(すすきだたろう)氏が、著書「がんす横丁」の中で以下のように記しています。
やはり、戦前の広島城下は「柳の多いところ」だったのです!
「柳橋」は京橋川に架かる橋で、その西詰周辺は、現在の中区銀山町や薬研堀あたりに相当する場所になります。
また、「下柳町」は、当時の広島のいわゆる「花柳界」のあったところで、芝居小屋や妓楼がありました。
江戸時代、浅野氏の藩政期においては、広島城下での芝居小屋や妓楼は禁じられていました。つまり、「下柳町」は明治になって新たに出来た町ということになります。
ちなみに、正岡子規は、広島滞在中の出来事を小説「我が病」に箇条書にしており、その中で、
一、酒飲みに三度、白魚飯喰いに二度行きし事
一、塩原多助の芝居を見に行き、美人の多きに驚きし事
一、毎夜、両眼鏡(注:双眼鏡のこと)を携へて、ヘラヘラ見物に行きし事
と書いているので、子規はこの柳橋西詰あたりに、美人を見ようと夜ごと出没していたのかも知れません。
広島城下の水害の歴史と治水事業
何故、柳の木は水辺にあるのか
「柳の美しい景観のある街」と言えば、国内では福岡県の柳川市や岡山県倉敷市の美観地区、あるいは、海外では中国の揚州(ヤンジュ)などが思い浮かびます。
揚州は、隋の煬帝が建設した大運河のお陰で水運の要となり、殷賑な街でした。裕福な塩商人たちの財力もあって、多彩な文化が花開きました。
日本から来た遣唐使が滞在するところでもあり、奈良時代に日本に渡来した鑑真和上の寺もここにありました。
「柳」といえば「水辺の樹木」というイメージがあります。
テレビの時代劇等でも、土倉の連なる船着き場等に柳が植えられている風景をよく目にします。
では、なぜ水辺に柳の木が植えられたのでしょうか。
それは、土手や堤防の決壊を防ぐためでした。古来より治水工事では、「柳の木の杭」を土手や堤防に打ち込む方法が採られていました。
「しだれ柳」は中国の揚子江流域が原産の木で、水を好みます。しかも、柳の木の杭は、やがてそこから根が張り出して、土をしっかり押さえてくれるのです。
成長した柳の木は弾力性があって強いので、川が氾濫した際には、そこに留まって水の勢いを弱めてくれる働きもありました。
このような理由から、川や運河の両岸には柳の木が多く植えられることになったのです。
水害の絶えなかった広島城下
広島は、毛利輝元の築城以来、治水と干拓の歴史が続いてきました。
以下の記事でも、広島城下町の形成過程についてご紹介していますので、参考にしてみてください。
江戸時代、広島城下は何度も水害に見舞われました。1600年代の主だった被害だけを列挙してみても、以下のようになります。
ほぼ10年おきの周期で、甚大な被害に見舞われていたことがわかります。
このため、広島城下の河岸では継続的に護岸工事が行われ、柳の木が多数植えられることになり、「柳の多い」美しい景観が形成されたと思われます。
「和やかな広島のシンボル」であった柳の木の風景は、水害に立ち向かった広島城下の人々の、たゆまぬ努力の末に出来上がったものだったのです。
「被爆樹木」と、水の都広島のシンボルだったしだれ柳の木
現在、広島市によって指定されている「被爆樹木」の中に「しだれ柳の木」がいくつかありますので、最後にご紹介しておきます。
(1)中区基町14(広島市青少年センター西側)
広島市青少年センター西側の本川沿いにあります。現存する被爆樹木の中では最も爆心地に近い場所(約370m)です。原爆投下の目標となった相生橋の対岸です。
(2)中区基町5(広島市こども文化科学館東側)
ここは、戦時中は広島城のすぐ南側の西練兵場だったところで、しだれ柳の並木がありました。その中で原爆から生き延びたのはこの1本だけだそうです。
(3)中区橋本町12(上柳橋西詰河岸緑地)
京橋川にかかる上柳橋の河岸(爆心地から1,400m)にあります。
(4)南区比治山本町20(鶴見橋東詰)
比治山の麓ある鶴見橋の東詰(爆心地から1,700m)にあります。付近にあった古い橋のたもとで被爆し、その後、鶴見橋を建設する時にここに移植されました。元の幹は枯死しましたが(写真の左側の支柱がある幹のほう)、新しい幹が成長し現在の姿になっています。
(5)南区皆実町一丁目15-32(皆実小学校内)
旧皆実小学校の建物は爆風でほぼ全壊しましたが、この柳の木はかろうじて生き残りました。
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「被爆したしだれ柳の木」は、原爆の記憶を留めるものとして大切に保存する必要があることは、言うまでもありません。
しかし同時に、かつての「城下町広島」の記憶をも留めるものとしても重要な意味があるのではないでしょうか。
なぜなら、柳の木を通じて「失われた城下町、広島」に暮らしていた人々の生活や息づかいを、想像できると思うからです。
風に吹かれて垂れ下がる柳(リュウ)の葉を眺めるとき、そこに留まって(留:リュウ)いた、在りし日の「和やかな広島」の情景が、きっとあざやかに甦って来るはずです。
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