「ダンスを観る」



(動画を拝借します。)


ダンサーとしてステージに立つときは    ”一人のアーティスト”

でも

ダンスを観るときは、   ただの ”一人の人間”    である。







過去に「どうしても勝たせなければいけない」というコンペに

「ダンスのプロ」として、何度か立ち会ったことがある。

そのときはもちろん、

一人の人間ではなく、一人のアーティストでもなく

「結果を出すためのダンスのプロ」として、シビアにダンスを観る。

一発勝負のコンペで、

本番直前に、唯一

最後の最後に+α出来るものは

「自分を信じ切る」こと。

たったこれだけになる。

だから、本番直前はこれしか言わない。




自分はハッキリ言って「根性論」とか「精神論」とか大嫌いなので

創作過程や仕上げの段階では「技術論」しか言わない。

「技術論」といっても、「こうしなさい」とは一切言わず

「どうすればよりよくなるか、自分たちで考えなさい」といつも言う。

それで、迷ったらいつでも聞きにきなさい、とも言う。

とにかく「徹底的に自分たちで考えさせる指導」をする。

過去の経験上、

この指導で伸びたダンサーはどこまででも伸びる。

逆に、これが難しいと感じたダンサーは、そこで終わる。

言い切ってもいい。

これが出来なければ、その先はない。

理由は「ダンスは自分でやるものだから」

人にやらされるものではなく、主体性あってこそのダンス。

アドバイザーだとかコーチに近いような指導方法だと思う。

だから個人に対して「練習しろ」とは一切言わず

あくまでも、考えて持ってきたものに対しての指導となる。

だから、むちゃくちゃいいモノを考えて持ってきた時は

自分はほぼ指導することがないので

「とにかくいい!よしよし、そのままどんどん行け!」

と言ってそのまま帰ることもある。

ダンスがよければ、それでいい。

自分はこう見えて、案外

褒める時も酷評する時もむちゃくちゃハッキリ言うので

いいモノに対しては誰がなんと言おうが「イイ!」とハッキリ本人に言う。

そうしないと、本人がせっかく考えて実践したのに

それがいいのかどうなのか分からず意味不明に迷ったりする。

これが一番よくない。

指導するときは特に、中途半端にリアクションするのが一番よくない。

だからハッキリと言う。

常にいいモノが作れて実践できるなら

自分のような指導人はいらないわけで

ほとんどの場合が「手ほどき」が必要となる。

その指導内容は「技術力=表現力」の徹底指導。

ダンスそのものの細かい指導から、ステージングまで

考えて持ってきたものについて

「こうしたらもっといいんじゃない?」

「こうすれば別の見え方になるよね?」

「どう思う?」

といったことをよく言う。

考えて持ってきたものについて、またさらに問いかける。

そしてまた、考えさせて改良を加え実践させる。

この繰り返し。

持ってきた一つの魅せ方に対して、自分が多角的にぶった切る。

そして、最適解を一緒に見つける。

だから、自分も死ぬほど頭を使う。

その場ではぶった切れないぐらい多角的な魅せ方が出来るものについては

自宅に持ち帰ることもよくあった。

「なにが一番ベストなのか?」

人知れず何時間も悩んだこともよくあった。

そこまでするのは

自分には「勝たせなければいけない」という職責があるからこそ。

たとえ、将来ダンサーにならずに普通の社会人になったとしても

「真剣に取り組んだことで一つの結果を出したことがある」

この経験があるかないかで、その先の人生がガラっと変わる。

だから、勝たせなければ、成功体験をさせてあげなければならない。

そう考えていた。

自分にとっても「真剣勝負」

そうやって、本番を一緒に迎える。







本番のステージでは今までやってきたことしか、出ない。

たまにスーパーミラクルが起こることもあるけど

それは、あくまでも日々積み重ねた練習があってこそ。

何もなしに出来るはずはない。

「とにかくその日までに何をやってきたか」

それがすべてステージに出る。

それを最大限に引き出すために、

「自分を信じ切ること」

本番の日だけはこれしか言わない。

根性論と精神論が大嫌いな自分が唯一、精神論を説く日である。

また、練習で死ぬほどダメ出しをする自分が

唯一、一切ダメ出しをしない日でもある。

それは自分も「お前たちを信じ切る」という意思表示でもある。






自分は教師じゃないので「人間指導」だの「倫理指導」だの

一人の人間としてどうあるべきか、とか

そういう指導は一切しない。

その場面において

自分はあくまでも「ダンスでひとつの結果を出すため」にいるプロ。

「ダンス必勝請負人」みたいなもの。

だから、プライベートのあれやこれやとか、そういう話は一切しない。

とにかくダンスのことだけ。

ダンスがよければ、それでいい。







本当は、ダンスに勝ち負けはない。

その場では「いかに優れているか」が勝ち負けとなってしまうけれど

本当のダンスの面白さというのは

創作過程にあり、それをカタチとして表現する実践にある。

また、自分で主体的に物事を考えられるチカラというのは

ダンスに限らず、生きていく上で必ず必要になるチカラとなる。

それは、伝えてきたつもり。








その自分が必勝請負人ではない

”一人の人間として” ダンスを観る時

「言葉ではとても説明が出来ないもの」にひどく感銘を受けた。




【障害者のダンス】

「なぜ目が見えないのにここまで表現できるのか?」

「なぜ耳が聞こえないのにここまで表現できるのか?」

ちょっと言葉ではとても説明が出来ないほどひどく感銘を受けた。

同じ表現者としては

「何かひとつの感覚を失った人間というのは
 他の感覚が常識では考えられないほど研ぎ澄まされるのだろう」

そうも思った。

技術論とか、とてもじゃないけどかなわない

ただ漠然と「圧倒的に凄まじい表現力」を見せつけられ

言葉を失った。

あれだけは、ずっと脳裏に焼き付いている。

あと、同じダンサーのダンスで

たった一度だけ涙が出たことがあった。

【あまりにも不器用なダンサーが精いっぱいの表現するダンス】

この方は自分よりも一回り以上年齢が上の女性で

自分が引退を決めるか決めないかぐらいの時に、

「ぜひ観に来て欲しい」と、わざわざチケットをくれた方。

滅多に行かない発表会に、この時だけは足を運んだ。

自分が引退するしないは別として

その方の誠意には、自分も誠意をもって返したかった。

自分は ”ダンサーとして”

素質、才能、感性、知性は人よりもかなり持っていたと思う。

だからこそ、出来ないだとか上手くならないとかいう

他のダンサーの気持ちが一切わからなかった。

技術力=表現力

”ダンサーとして” 自分が有り余るほど持っていたモノ。

だけど、自分には絶対に出来ない表現を、その方は持っていた。

「自分で自分を越えようとする魂の意志表示」

技術力があれば、自分をいくらでも良く魅せることは出来る。

でも、魂の表現は出来ない。

その方は、たしかに技術力はほとんどないけれど

でも、魂の表現は、有り余るほど出来る。

自分とはあまりにも対照的だからこそ、その表現に圧倒され

また、言葉を失い

そして、涙が出てきた。

あんなことは過去に、この時だけしかない。

「いくら表現力を有り余るほど持っていても、表現できないものがある」

それを教えてくれたその方に、

ハッキリと「よかったです」

そう伝えた。

今でも忘れられないダンスである。

あれから約10年が経つ。

この方が今でも踊り続けていてくれたらいいなと

実は密かに思っている。

本当に、言葉ではとても説明が出来ない表現力を持っている。

そういうダンスは、この方にしか出来ない。

これは、

誰がなんといおうと、自分はハッキリと言い続けると思う。

ダンスを観る ”一人の人間” の自分が思う

「素晴らしいダンス」

言葉では説明が出来ないモノが、確かにある。







(動画を拝借します。)



拙い文章お読みいただきありがとうございました。





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