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【新書が好き】寝ながら学べる構造主義


1.前書き

「学び」とは、あくなき探究のプロセスです。

単なる知識の習得でなく、新しい知識を生み出す「発見と創造」こそ、本質なのだと考えられます。

そこで、2024年6月から100日間連続で、生きた知識の学びについて考えるために、古い知識観(知識のドネルケバブ・モデル)を脱却し、自ら学ぶ力を呼び起こすために、新書を学びの玄関ホールと位置づけて、活用してみたいと思います。

2.新書はこんな本です

新書とは、新書判の本のことであり、縦約17cm・横約11cmです。

大きさに、厳密な決まりはなくて、新書のレーベル毎に、サイズが少し違っています。

なお、広い意味でとらえると、

「新書判の本はすべて新書」

なのですが、一般的に、

「新書」

という場合は、教養書や実用書を含めたノンフィクションのものを指しており、 新書判の小説は、

「ノベルズ」

と呼んで区別されていますので、今回は、ノンフィクションの新書を対象にしています。

また、新書は、専門書に比べて、入門的な内容だということです。

そのため、ある分野について学びたいときに、

「ネット記事の次に読む」

くらいのポジションとして、うってつけな本です。

3.新書を活用するメリット

「何を使って学びを始めるか」という部分から自分で考え、学びを組み立てないといけない場面が出てきた場合、自分で学ぶ力を身につける上で、新書は、手がかりの1つになります。

現代であれば、多くの人は、取り合えず、SNSを含めたインターネットで、軽く検索してみることでしょう。

よほどマイナーな内容でない限り、ニュースやブログの記事など、何かしらの情報は手に入るはずです。

その情報が質・量共に、十分なのであれば、そこでストップしても、特に、問題はありません。

しかし、もしそれらの情報では、物足りない場合、次のステージとして、新書を手がかりにするのは、理にかなっています。

内容が難しすぎず、その上で、一定の纏まった知識を得られるからです。

ネット記事が、あるトピックや分野への

「扉」

だとすると、新書は、

「玄関ホール」

に当たります。

建物の中の雰囲気を、ざっとつかむことができるイメージです。

つまり、そのトピックや分野では、

どんな内容を扱っているのか?

どんなことが課題になっているのか?

という基本知識を、大まかに把握することができます。

新書で土台固めをしたら、更なるレベルアップを目指して、専門書や論文を読む等して、建物の奥や上の階に進んでみてください。

4.何かを学ぶときには新書から入らないとダメなのか

結論をいうと、新書じゃなくても問題ありません。

むしろ、新書だけに拘るのは、選択肢や視野を狭め、かえってマイナスになる可能性があります。

新書は、前述の通り、

「学びの玄関ホール」

として、心強い味方になってくれます、万能ではありません。

例えば、様々な出版社が新書のレーベルを持っており、毎月のように、バラエティ豊かなラインナップが出ていますが、それでも、

「自分が学びたい内容をちょうどよく扱った新書がない」

という場合が殆どだと思われます。

そのため、新書は、あくまでも、

「入門的な学習材料」

の1つであり、ほかのアイテムとの組み合わせが必要です。

他のアイテムの例としては、新書ではない本の中にも、初学者向けに、優しい説明で書かれたものがあります。

マンガでも構いません。

5.新書選びで大切なこと

読書というのは、本を選ぶところから始まっています。

新書についても同様です。

これは重要なので、強調しておきます。

もちろん、使える時間が限られている以上、全ての本をチェックするわけにはいきませんが、それでも、最低限、次の2つの点をクリアする本を選んでみて下さい。

①興味を持てること

②内容がわかること

6.温故知新の考え方が学びに深みを与えてくれる

「温故知新」の意味を、広辞苑で改めて調べてみると、次のように書かれています。

「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」

「温故知新」は、もともとは、孔子の言葉であり、

「過去の歴史をしっかりと勉強して、物事の本質を知ることができるようになれば、師としてやっていける人物になる」

という意味で、孔子は、この言葉を使ったようです。

但し、ここでの「温故知新」は、そんなに大袈裟なものではなくて、

「自分が昔読んだ本や書いた文章をもう一回読み直すと、新しい発見がありますよ。」

というぐらいの意味で、この言葉を使いたいと思います。

人間は、どんどん成長や変化をしていますから、時間が経つと、同じものに対してでも、以前とは、違う見方や、印象を抱くことがあるのです。

また、過去の本やnote(またはノート)を読み返すことを習慣化しておくことで、新しい「アイデア」や「気づき」が生まれることが、すごく多いんですね。

過去に考えていたこと(過去の情報)と、今考えていること(今の情報)が結びついて、化学反応を起こし、新たな発想が湧きあがってくる。

そんな感じになるのです。

昔読んだ本や書いた文章が、本棚や机の中で眠っているのは、とてももったいないことだと思います。

みなさんも、ぜひ「温故知新」を実践されてみてはいかがでしょうか。

7.小説を読むことと新書などの啓蒙書を読むことには違いはあるのか

以下に、示唆的な言葉を、2つ引用してみます。

◆「クールヘッドとウォームハート」

マクロ経済学の理論と実践、および各国政府の経済政策を根本的に変え、最も影響力のある経済学者の1人であったケインズを育てた英国ケンブリッジ大学の経済学者アルフレッド・マーシャルの言葉です。

彼は、こう言っていたそうです。

「ケンブリッジが、世界に送り出す人物は、冷静な頭脳(Cool Head)と温かい心(Warm Heart)をもって、自分の周りの社会的苦悩に立ち向かうために、その全力の少なくとも一部を喜んで捧げよう」

クールヘッドが「知性・知識」に、ウォームハートが「情緒」に相当すると考えられ、また、新書も小説も、どちらも大切なものですが、新書は、主に前者に、小説は、主に後者に作用するように推定できます。

◆「焦ってはならない。情が育まれれば、意は生まれ、知は集まる」

執行草舟氏著作の「生くる」という本にある言葉です。

「生くる」執行草舟(著)

まず、情緒を育てることが大切で、それを基礎として、意志や知性が育つ、ということを言っており、おそらく、その通りではないかと考えます。

以上のことから、例えば、読書が、新書に偏ってしまうと、情緒面の育成が不足するかもしれないと推定でき、クールヘッドは、磨かれるかもしれないけども、ウォームハートが、疎かになってしまうのではないかと考えられます。

もちろん、ウォームハート(情緒)の育成は、当然、読書だけの問題ではなく、各種の人間関係によって大きな影響を受けるのも事実だと思われます。

しかし、年齢に左右されずに、情緒を養うためにも、ぜひとも文芸作品(小説、詩歌や随筆等の名作)を、たっぷり味わって欲しいなって思います。

これらは、様々に心を揺さぶるという感情体験を通じて、豊かな情緒を、何時からでも育む糧になるのではないかと考えられると共に、文学の必要性を強調したロングセラーの新書である桑原武夫氏著作の「文学入門」には、

「文学入門」(岩波新書)桑原武夫(著)

「文学以上に人生に必要なものはない」

と主張し、何故そう言えるのか、第1章で、その根拠がいくつか述べられておりますので、興味が有れば確認してみて下さい。

また、巻末に「名作50選」のリストも有って、参考になるのではないかと考えます。

8.【乱読No.83】「寝ながら学べる構造主義」(文春新書)内田樹(著)

[ 内容 ]
フーコー、バルト、ラカン、レヴィ=ストロースと聞いて、難しそうと尻ごみするのは無用。
本書を一読すれば「そうかそうか」の連続。

[ 目次 ]
先人はこうして「地ならし」した―構造主義前史
始祖登場―ソシュールと『一般言語学講義』
「四銃士」活躍す(フーコーと系譜学的思考 バルトと「零度の記号」 レヴィ=ストロースと終わりなき贈与 ラカンと分析的対話)

[ 発見(気づき) ]
書名が不正確である。
「寝ころんで読んでもわかる構造主義」と言うことだろう。
しかし、言葉尻をとらえて文句を言っては申しわけない。
寝ころんで読んで構造主義がかなりわかった気にさせてくれる本、なのだから。
本書は構造主義入門書であるとともに、現代ヨーロッパ思想史でもある。
そう言うには余りに断片的な書き方ではあるが、エッセンスはちゃんと示している。
とても入りやすい構成で、まず前史にマルクス、フロイト、ニーチェが、ついで始祖としてソシュールが出て来、最後に構造主義の四銃士としてフーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンが紹介される。
著者の内田氏は「入門者のための」解説書をよく読むという。
なぜなら、この種の入門書にすぐれた入門書が多いからだそうだ。
「入門者のための書き物」が「知らないこと」を軸に編成されているのに対して、専門家のための書き物は「知っていること」を積み上げていく、と著者は言う。
著者の言葉を引用すると、
「良い入門書は『私たちが知らないこと』から出発して、『専門家が言いそうもないこと』を拾い集めながら進むという不思議な行程をたどります。
この定義を逆にすれば『ろくでもない入門書』というものがどんなものかもわかりますね。
『素人が誰でも知っていること』から出発して『専門家なら誰でも言いそうなこと』を平たくリライトして、終わりという代物です。」
と述べている。
こんなことを言われたらがぜんこの本を読んでみたくなる。
期待にたがわぬ面白さで読み進んだが、前史と始祖の話はもう少しくわしくかいてほしかった。
いよいよ四銃士の部分に入ると、これまたエッセンスをずばりとりだしてわからせてくれるが、もちろんよくわからぬ所もある。
にもかかわらず四銃士の著作を、読んでみたいという強い気持ちにさせられる。
本書の目的はまさに達せられたわけで、本書は、著者の持論を裏書きし、編集者の意図に合致した「よい入門書」として完成したわけである。
構造主義とは早い話、「言語や社会制度、習慣等の『構造』に、知らず知らず人は思考や行動を規定されてしまってるのだよ」という視点のこと。
当たり前のように思える考え方だが、それを当たり前と思う事自体、既に現代が「構造主義」的思考回路の中にスッポリはまっている証拠らしい。
だからと言って「その枠組みからどう抜け出すか」などと、哲学的探求をするヒマも根気もない今の私のような人間に、こうした入門書はぴったりである。
ただ、
「WEB的常識や思考パターンといった“構造”に取り込まれず、成すべき仕事の本質を常に“枠の外”から客観視しなきゃ・・・」
と自戒するきっかけになるので、たまにはテツガクするのも悪くない。
なぜならば、世間の枠を大いに利用しながら、自分たちだけそこをスイスイ出入りする自由な精神こそ、”freeist”の“freeist”たるゆえんなのだから・・・

[ 問題提起 ]
バルトを語る章の最後に登場するのは、「無垢なるエクリチュール」という概念だ。
これはちょっと難しい概念だと思うが、弁証法的な対象としてこれを捉えた。
そして、このことの具体的な展開に、本多氏が語った<ルポルタージュにおける事実>という見方を思い出した。
「エクリチュール」というのは、一つの文体のようなもので、個人の好みによって選ばれるものではなく、ある集団の常識というようなものを、個人が選ぶことによって、テクストの中に入り込んでくるものだった。
これは、その集団の常識ではあるが、その集団の外にいる人間にとっては偏見のように見えるだろう。
この「エクリチュール」が無垢であるというのは、偏見を持たないと言う意味に解釈してもいいのだろうか。
著者の言葉によると、次のようなものが「無垢なるエクリチュール」になるようだ。
「エクリチュールの零度、無垢なるエクリチュールとは、願望も禁止も命令も判断も、およそ語り手の主観の介入を完全に欠いた、「まっしろな」エクリチュールのことです。
これこそバルトがその生涯をかけて追い求めた言語の夢でした。」
「語り手の主観の介入を完全に欠いた」と言うことが、無垢であるということの意味になるようだ。
事実そのものを捉えるという感じだろうか。
しかし、これは文体としての「エクリチュール」には実現不可能なパラドックスではないのだろうか。
「エクリチュール」に文体が存在するというのは、そこにすでに文体を選んだ「主観」が存在するのではないだろうか。
その選択は、「主観」とは全く別に選ぶことが出来るのだろうか。
バルトが理想とした「白いエクリチュール」は、「ジャーナリストのエクリチュール」「ルポルタージュの語法」「ドキュメンタリーの視線」だという。
しかし、これらも現実には「無垢」で「白い」ものではないことに誰もが気づいている。
これは、我々の努力が足りなくて実現出来ていないのだろうか。
困難ではあるが、努力すれば何とかなるものなのだろうか。
本多氏は、これを「主観」と「客観」の統一という弁証法的な理解で捉えていた。
この考えからすると、「白いエクリチュール」をルポルタージュで実現することは原理的に出来ないと言うことになる。
本多氏の主張はこうだった。
主観を離れた「客観的」事実というのは、探そうと思えばいくらでも見つけることが出来る。
これは、「すべて」を書き出すことが出来ないと言うのが原理的な特徴だ。
だから、客観性を保とうと思えば、永遠に探し続けなければならない。
どこかで終わらせて、それを発表するとなると、事実を探すことを終わらせると言うところで主観が入り込む。
終わらせるのに客観的な根拠はない。
さらに、それを発表するときに、拾い上げた事実をすべて発表すると言うことは現実には出来ない。
事実の選択という行為をする。
その選択には主観が入り込む。何を選んで何を捨てるかと言うことを、純粋に客観的に行うことは出来ない。
さらに、どの事実を先に書き、どの事実をあとに書くかと言うことでも主観が入り込む。同時に記述すると言うことが物理的に不可能である限り、どちらを先にするかという問題は主観の問題として残る。
客観的事実という「無垢なる対象」は、表現する以前に直接観察してもらわなければ、客観性そのものは保つことが出来ない。
表現という形にすることで、どうしても人間の頭脳を通過しなければならなくなったら、主観を抜くことなどは不可能だ。
それでは、表現には客観性はないのだろうか。
「無垢」で「純粋」な客観性というものはあり得ない。
しかし、個人の主観とは独立した存在という意味での「客観性」はあり得ると僕は思う。自分の視覚で確認したものでなければ存在しないのだ、という極端な主観を前提にした「観念論」の間違いはすぐに分かると思う。
自分が目をつぶったら、世界は存在しなくなると思い込んでいる人間は少ないだろう。
自分が目をつぶっても、そこにあったものは存在し続ける、という意味での客観性は確認出来る。
そして、現実に存在するものというのは、このような客観を主観が捉えると言うことで、客観と主観が統一されたものとして、弁証法的に捉えることこそが正しいのだと思う。
客観であり同時に主観であるということだ。
私は、このように考えるので、「白いエクリチュール」は原理的には存在しないと考える。
しかし、バルトは日本の俳句の中に「白いエクリチュール」を見ている。
これはどういうことなのだろうか。
俳句は、主観を排した客観のみを表現しているのだろうか。
私にはそうは思えない。
例えば、
 「古池や 蛙飛び込む 水の音」
という有名な俳句があるが、これは、見たままの事実をそのまま客観的に語った表現なのだろうか。
そうではなくて、これを味わう人間は、この情景から連想される、様々な心の動きまでもここから読みとる味わい方をするだろう。
ここに表現されていないことをいくらでもたくさん読みとることによって俳句を味わうのではないだろうか。
ここに表現されているのは、純粋な客観ではない。
むしろ、純粋な主観の表現を排しただけという感じがする。
主観は表現されていないのだが、様々な要因から予想されるものとして読みとれるものになっている。
俳句は、短い文字数の中に表現しなければならないという制限があるため、主観の表現を排する必要があったのではないかと思う。
この形式から要請された特徴をバルトが「白いエクリチュール」だと見ていたというのは、「白いエクリチュール」というのは、純粋の客観を表現したものだという解釈ではないのではないだろうか。
むしろ、主観を排すると言うことの方が、「白いエクリチュール」にとっては本質的なこととして考えているのではないだろうか。
このような解釈で「白いエクリチュール」を受け取ると、私は、数学こそが「白いエクリチュール」にふさわしい存在ではないかと思えてくる。
そこには、主観に関することがほとんどすべて排除されているように思うからだ。
なぜなら、数学は現実世界を対象にしていないからだ。
現実世界を対象にしていると、それがどう見えるかという主観がどうしても判断の中に入り込んでくる。
現実ではない、定義された世界に対しての表現は、定義によって「すべて」が確定してしまう。
どれを選択するかという主観も入り込まない。
何を先に記述するかと言うことで主観が入り込む可能性があるが、これも、結果的に定義された世界の構造を表現していると言うことが伝われば、その選択には、必然性があり、しかも他の選択をしたときと論理的に同等だということも言うことが出来る。
限りなく主観を排することが出来そうだ。

[ 教訓 ]
俳句は、その形式から結果的に主観が排されていると言うことがあった。
数学は、その対象とする世界が、現実の世界ではないということから、主観的な判断をする必要がなくなり、そのことによって主観が排されている。
こういうものが、バルトが語る「白いエクリチュール」であるならば、それはどのような有意義な意味を持つものになっているのだろうか。
著者は、「俳句に贈られた、いささか法外なこの賛嘆の言葉と、ヨーロッパ的な「意味の帝国主義」に対してバルトが示した激しい嫌悪の当否について、ここでは論じるだけの紙数がありません。」と語っている。
だから、私もこのことに関してはなかなか想像が及ばない。
主観を排することは、偏見を逃れるという利点があるだろうが、自分の立場が見えなくなるという弱点も存在する。
主観を排し、あくまでも客観的に物事を見ようとすると、だんだんとすべての物事が他人事に見えてくる。
だから、両方のバランスを取っていかなければならないということになるのだろうが、このような結論は、あまりに平凡で分かりすぎるものでもあるので、バルトがこのようなつまらない主張をしているとは思えない。
世界の知性をリードする存在として、知性ある者たちを捉えたバルトの魅力は、いったいどのようなところにあるのだろうか。
著者は、この入門書では論じなかったが、他の所ではこのことを論じているのだろうか。それをぜひ手にとって読んでみたいものだと思う。
バルトがどのように魅力的な展開をしているのかを知りたいと思う。
著者なら、その魅力を伝える説明をしてくれているのではないかと感じるからだ。

[ 結論 ]
著者は、「寝ながら学べる構造主義」の本文で、まず「私たちは「偏見の時代」を生きている」という事から話を始める。
「偏見」というのは、自分の立場や視点というものを反省せずに、それを絶対視してものを考えると言うことを指して、「偏見」と呼んでいるように思う。
これは、今や当たり前に意識出来ることになったが、かつてはその「偏見」を意識出来る人が少なかったと、内田さんは語る。
著者は、この「偏見」を意識する視点として大切なことを次のように語っている。
「ですから、いま、私たちがごく自然に、ほとんど自動的に行っている善悪の見極めや美醜の判断は、それほど普遍性を持つものではないかも知れない、ということを常に忘れないことが大切です。
それは言い換えれば、自分の「意識」を拡大適用しないという節度を保つことです。
私たちにとって「ナチュラル」に映るのは、とりあえず私たちの時代、私たちの棲む地域、私たちの属する社会集団に固有の「民族的偏見」に過ぎないのです。」
人間は、とかく当たり前だと思うことを反省するのは難しい。
当たり前が何故当たり前なのかは、当たり前だと思っているものにはなかなか発見出来ないのである。
「1+1=2」が当たり前だと思っている人間は、これが何故2なのかと問われても答えに困るだろう。
しかし、この何故を問うことによって、人間がどのように数を捉えてきたのか、どのように思考が発展してきたのかをうかがい知ることが出来る。
当たり前だと思うことの<何故>を問うことによって、根源的な問題に近づくことが出来る。
なお本論とは少しずれるが、著者は「棲む地域」という言葉で「棲む」という漢字を使い、「住む」という漢字を使っていない。
これは、誤植でない限りでは、意図的にこのような使い方をしていると受け取らなければならない。
もし誤植であれば、これは深読みという<誤読>になるのだが、僕は次のような想像をした。
「住む」というのは、人間が生活することを指して言う言葉だが、このときは、何か意図的に住む場所を選んでいるという感じもする。
しかし、「棲む」という漢字を使う時は、動物が「棲息する」という意味で使われる。
つまり、棲む場所を選ぶことが出来ず、いわば運命的にそこで生きるしかないという感じもする。
「私たちの棲む地域」という言葉に、そのようなニュアンスを読みとって、この漢字の使い方を受け取った。
果たして著者の意図はどうだったのだろうか。
さて、著者によれば、構造主義が登場するまでは、このことは一般的に誰もが知っていることではなかったらしい。
しかし、このことは一般論としてなら、別の本の中で唯物弁証法を通じて同じ事を学んでいた。
唯物弁証法でも、真理は常にその条件によるのだという注意がされていた。
つまり、何か当たり前だと思うようなことがあっても、それは、それを当たり前にしている条件を前提としての当たり前なのだと言うことを、学んだ。
上のような指摘が、一般論として、世界の属性のもっとも根源的な部分を捉えているのであれば、それはとらえ方のアプローチが違うかも知れないが、真理を捉えている限りでは、マルクス主義の唯物弁証法であろうが構造主義であろうが、同じ結論に達するというのは、ある意味では合理的である。
だから、視点が違うとしても、同じ結論を出しているものは、より一般的なグランド・セオリーに近いものではないかと思う。
著者も、構造主義を生んだ前段階としてのマルクス主義について語っている。
マルクス主義は、人間のものの考え方の視点として<階級>というものを見出した。
人間は、どの階級に属するかで、いわば当たり前だと思うものが違ってくる。
当たり前を反省するには、階級というものを反省しなければならない。
著者も次のように語っている。
「マルクスは社会集団が歴史的に変動してゆく時の重大なファクターとして、「階級」に着目しました。
マルクスが指摘したのは、人間は「どの階級に属するか」によって、ものの見え方」が変わってくる、ということです。
この帰属階級によって違ってくる「ものの見え方」は「階級意識」と呼ばれます。」
マルクス主義の視点を一般化していけば、その立場というものもいろいろなものを考えることが出来るが、その立場を<階級>というものに限定すると、そこに構造主義との違いが出てきそうな気がする。
マルクスの生きていた時代や、ソビエトが社会主義国のリーダーとして君臨していた時代は、人間の立場を階級に限定していても間違いはなかったかも知れない。
しかし、ソビエト崩壊後は、もはや人間の立場というものが階級というものに限定されなくなったのではないだろうか。
だから、上のようなマルクス主義の見方よりも、もっと普遍的な見方が必要になったような感じがする。
これが、マルクス主義に替わって構造主義が、人々の心を捉えた一つの理由でもあるのではないだろうか。
私は哲学を通じて、より普遍的なところまでものの見方を広げるという意識があったので、階級にこだわらずに、構造主義的ないろいろな立場を想像することが出来たのだと思う。
その意味では、構造主義的な見方を必要としなかったので、あまり構造主義に引かれなかったと言うこともあるのかも知れない。
著者は、いろいろな視点というのを、具体的な例を挙げながら次のような説明もしている。
「例えば、今から30年ほど前、アメリカはベトナム戦争でみじめな敗北を経験しましたが、その当時、「アメリカ人から見たベトナムの風景」と「ベトナム人から見たベトナムの風景」は違うというようなことは、ほとんどアメリカ国民の脳裏に浮かびませんでした。
アメリカにとって、ベトナムは「ドミノ理論」という数式的な世界戦略の中での「ドミノ」のコマの一つに過ぎず、「生身のベトナム人はアメリカのアジア戦略をどう評価しているのだろうか」というようなことを真剣に配慮している政治家はほとんど存在しませんでした。」
このことは、当時の日本でも同じだったのではないかと思う。
マスコミは、アメリカの発表するニュースだけを垂れ流していて、アメリカの視点だけがベトナム戦争の見方になっていたのではないだろうか。
しかし、このときに、ベトナム人の側からこの戦争を眺めてみようとした人がいた。
本多勝一の一連のルポがその視点を提供した。
これに注目した僕は、無意識ながら構造主義的なものの見方をそこで学んでいたことになる。
すぐれた仕事は、根源的なところでは、普遍的な真理に一致すると言うことが、ここでも言えるのではないかと思う。
著者は、構造主義を一般的には次のようにまとめている。
「私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。
だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。
むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。
そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。」
構造主義が、根源的な普遍原理を正しく捉えているだろう事は、唯物弁証法や、本多氏のすぐれたルポが同じような原理を持っていることからうかがえる。
構造主義の大きな功績は、私でも無意識に感じていた、そのような正しい方向を、明確に意識的に使うことを打ち出したことなのではないかと感じた。
つまり、方法論として使えるようにしたことがかなり大きな功績の一つなのではないだろうか。

[ コメント ]
すぐれた仕事をする人は、その仕事での成功の経験から、経験主義的にすぐれた方法を見つけ出すが、それは残念なことにその人でないと使うことの出来ない方法であることが多い。
それなりの経験が必要な方法になってしまう。
しかし、理論を学べば、それなりの方法が使えるというのが方法論のありがたさだ。
構造主義というのは、そういうものになったのではないだろうか。
かつてソクラテスは、自分も無知であるが、その無知を自覚しているという点で、他の無知な者たちをしのいでいると考えていたようだ。
つまり、方法論を意識出来る人間の方が、無意識のうちにそれに従っている人間よりも真理に近づけると考えたのだと思う。
無意識のうちに行っている方法は、いつそれが現実の複雑さにだまされて、真理から誤謬に転化するか分からない。
方法論を意識していれば、その誤謬に陥りそうな瞬間を鋭くかぎ分けることが出来るのではないか。
人間は立場によってものの考え方が違うというのは、よくある経験であるから、誰もが無意識のうちにそのような思いを抱いている。
しかし、それを方法論として意識するのはなかなか難しい。
方法論として意識するというのは、自分とは違う立場に身を置いて、その違う立場でのものの考え方を真似ることが出来ると言うことだ。
ある立場に対して、どんなにそれに嫌悪感を抱いていようと、冷静にそれが出来なければ、方法論として身につけたとは言えなくなる。
これは、本当に難しいことだとは思うが、もしそれが出来るようであれば、無意識のうちにこの普遍原理に従っているよりも、真理に近づくことが出来るだろう。
特に、複雑さが大きい問題では、この自覚が大きな差になるだろう。
構造主義が教える視点というのが、こういうものではないかと私は思う。

9.参考記事

<書評を書く5つのポイント>
1)その本を手にしたことのない人でもわかるように書く。

2)作者の他の作品との比較や、刊行された時代背景(災害や社会的な出来事など)について考えてみる。

3)その本の魅力的な点だけでなく、批判的な点も書いてよい。ただし、かならず客観的で論理的な理由を書く。好き嫌いという感情だけで書かない。

4)ポイントを絞って深く書く。

5)「本の概要→今回の書評で取り上げるポイント→そのポイントを取り上げ、評価する理由→まとめ」という流れがおすすめ。

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【新書が好き】アメリカ海兵隊
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