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【新書が好き】自由とは何か 「自己責任論」から「理由なき殺人」まで


1.前書き

「学び」とは、あくなき探究のプロセスです。

単なる知識の習得でなく、新しい知識を生み出す「発見と創造」こそ、本質なのだと考えられます。

そこで、今月から一か月間、生きた知識の学びについて考えるために、古い知識観(知識のドネルケバブ・モデル)を脱却し、自ら学ぶ力を呼び起こすために、新書を学びの玄関ホールと位置づけて、活用してみたいと思います。

2.新書はこんな本です

新書とは、新書判の本のことであり、縦約17cm・横約11cmです。

大きさに、厳密な決まりはなくて、新書のレーベル毎に、サイズが少し違っています。

なお、広い意味でとらえると、

「新書判の本はすべて新書」

なのですが、一般的に、

「新書」

という場合は、教養書や実用書を含めたノンフィクションのものを指しており、 新書判の小説は、

「ノベルズ」

と呼んで区別されていますので、今回は、ノンフィクションの新書を対象にしています。

また、新書は、専門書に比べて、入門的な内容だということです。

そのため、ある分野について学びたいときに、

「ネット記事の次に読む」

くらいのポジションとして、うってつけな本です。

3.新書を活用するメリット

「何を使って学びを始めるか」という部分から自分で考え、学びを組み立てないといけない場面が出てきた場合、自分で学ぶ力を身につける上で、新書は、手がかりの1つになります。

現代であれば、多くの人は、取り合えず、SNSを含めたインターネットで、軽く検索してみることでしょう。

よほどマイナーな内容でない限り、ニュースやブログの記事など、何かしらの情報は手に入るはずです。

その情報が質・量共に、十分なのであれば、そこでストップしても、特に、問題はありません。

しかし、もしそれらの情報では、物足りない場合、次のステージとして、新書を手がかりにするのは、理にかなっています。

内容が難しすぎず、その上で、一定の纏まった知識を得られるからです。

ネット記事が、あるトピックや分野への

「扉」

だとすると、新書は、

「玄関ホール」

に当たります。

建物の中の雰囲気を、ざっとつかむことができるイメージです。

つまり、そのトピックや分野では、

どんな内容を扱っているのか?

どんなことが課題になっているのか?

という基本知識を、大まかに把握することができます。

新書で土台固めをしたら、更なるレベルアップを目指して、専門書や論文を読む等して、建物の奥や上の階に進んでみてください。

4.何かを学ぶときには新書から入らないとダメなのか

結論をいうと、新書じゃなくても問題ありません。

むしろ、新書だけに拘るのは、選択肢や視野を狭め、かえってマイナスになる可能性があります。

新書は、前述の通り、

「学びの玄関ホール」

として、心強い味方になってくれます、万能ではありません。

例えば、様々な出版社が新書のレーベルを持っており、毎月のように、バラエティ豊かなラインナップが出ていますが、それでも、

「自分が学びたい内容をちょうどよく扱った新書がない」

という場合が殆どだと思われます。

そのため、新書は、あくまでも、

「入門的な学習材料」

の1つであり、ほかのアイテムとの組み合わせが必要です。

他のアイテムの例としては、新書ではない本の中にも、初学者向けに、優しい説明で書かれたものがあります。

マンガでも構いません。

5.新書選びで大切なこと

読書というのは、本を選ぶところから始まっています。

新書についても同様です。

これは重要なので、強調しておきます。

もちろん、使える時間が限られている以上、全ての本をチェックするわけにはいきませんが、それでも、最低限、次の2つの点をクリアする本を選んでみて下さい。

①興味を持てること

②内容がわかること

6.温故知新の考え方が学びに深みを与えてくれる

「温故知新」の意味を、広辞苑で改めて調べてみると、次のように書かれています。

「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」

「温故知新」は、もともとは、孔子の言葉であり、

「過去の歴史をしっかりと勉強して、物事の本質を知ることができるようになれば、師としてやっていける人物になる」

という意味で、孔子は、この言葉を使ったようです。

但し、ここでの「温故知新」は、そんなに大袈裟なものではなくて、

「自分が昔読んだ本や書いた文章をもう一回読み直すと、新しい発見がありますよ。」

というぐらいの意味で、この言葉を使いたいと思います。

人間は、どんどん成長や変化をしていますから、時間が経つと、同じものに対してでも、以前とは、違う見方や、印象を抱くことがあるのです。

また、過去の本やnote(またはノート)を読み返すことを習慣化しておくことで、新しい「アイデア」や「気づき」が生まれることが、すごく多いんですね。

過去に考えていたこと(過去の情報)と、今考えていること(今の情報)が結びついて、化学反応を起こし、新たな発想が湧きあがってくる。

そんな感じになるのです。

昔読んだ本や書いた文章が、本棚や机の中で眠っているのは、とてももったいないことだと思います。

みなさんも、ぜひ「温故知新」を実践されてみてはいかがでしょうか。

7.小説を読むことと新書などの啓蒙書を読むことには違いはあるのか

以下に、示唆的な言葉を、2つ引用してみます。

◆「クールヘッドとウォームハート」

マクロ経済学の理論と実践、および各国政府の経済政策を根本的に変え、最も影響力のある経済学者の1人であったケインズを育てた英国ケンブリッジ大学の経済学者アルフレッド・マーシャルの言葉です。

彼は、こう言っていたそうです。

「ケンブリッジが、世界に送り出す人物は、冷静な頭脳(Cool Head)と温かい心(Warm Heart)をもって、自分の周りの社会的苦悩に立ち向かうために、その全力の少なくとも一部を喜んで捧げよう」

クールヘッドが「知性・知識」に、ウォームハートが「情緒」に相当すると考えられ、また、新書も小説も、どちらも大切なものですが、新書は、主に前者に、小説は、主に後者に作用するように推定できます。

◆「焦ってはならない。情が育まれれば、意は生まれ、知は集まる」

執行草舟氏著作の「生くる」という本にある言葉です。

「生くる」執行草舟(著)

まず、情緒を育てることが大切で、それを基礎として、意志や知性が育つ、ということを言っており、おそらく、その通りではないかと考えます。

以上のことから、例えば、読書が、新書に偏ってしまうと、情緒面の育成が不足するかもしれないと推定でき、クールヘッドは、磨かれるかもしれないけども、ウォームハートが、疎かになってしまうのではないかと考えられます。

もちろん、ウォームハート(情緒)の育成は、当然、読書だけの問題ではなく、各種の人間関係によって大きな影響を受けるのも事実だと思われます。

しかし、年齢に左右されずに、情緒を養うためにも、ぜひとも文芸作品(小説、詩歌や随筆等の名作)を、たっぷり味わって欲しいなって思います。

これらは、様々に心を揺さぶるという感情体験を通じて、豊かな情緒を、何時からでも育む糧になるのではないかと考えられると共に、文学の必要性を強調したロングセラーの新書である桑原武夫氏著作の「文学入門」には、

「文学入門」(岩波新書)桑原武夫(著)

「文学以上に人生に必要なものはない」

と主張し、何故そう言えるのか、第1章で、その根拠がいくつか述べられておりますので、興味が有れば確認してみて下さい。

また、巻末に「名作50選」のリストも有って、参考になるのではないかと考えます。

8.乱読NO.8「自由とは何か 「自己責任論」から「理由なき殺人」まで」(講談社現代新書)佐伯啓思(著)

[ 内容 ]
「個人の自由」は、本当に人間の本質なのか?
イラク問題、経済構造改革論議、酒鬼薔薇事件…現代社会の病理に迫る。

[ 目次 ]
第1章 ディレンマに陥る「自由」
第2章 「なぜ人を殺してはならないのか」という問い
第3章 ケンブリッジ・サークルと現代の「自由」
第4章 援助こうさいと現代リベラリズム
第5章 リベラリズムの語られない前提
第6章 「自由」と「義」

[ 発見(気づき) ]
現代の日本人は、自由であるはずなのに、その自由に対して、倦怠に陥っているように見える。
自由は、最も大切な価値の一つとされるのにこれはなぜか。
それは、自由そのものを追い求め、自由を支えている「何か」を、忘れているからだ。
手段であるはずの「自由」が、目的化してしまっている。
では、自由を支える「何か」とは何か。
第一に、「善」である。
そして、第二に、もっと重要なものとして、多様なレベルの共同体の規範を超えたいっそう超越的な規範への自発的な従属「義」である。
イギリスの哲学者アイザイア・バーリンが紹介していることだが、かつて、ロシアの急進主義的思想家のアレクサンドル・ゲルツェンは、次のように問いかけた。
「飛び魚が存在するにもかかわらず、誰も魚の本質は飛ぶことにあるとは言わない。
ほとんどの魚は水の中を泳ぐだけで飛ばないからである。」
ところが、人間の場合にはどうか。
人間の長い歴史の中で、自由を追求した者は、ごくわずかであり、ほとんどの人間は、それなりに、食べてゆけさえすれば、特に、自由を求めたわけでもない。
にもかかわらず、我々は、人間の本質は、自由である、という。
これは、どうしたことであろうか?
と言うことは、人は、それほど自由を求めていないのか?

[ 教訓 ]
「自由」は、社会科学の重要なテーマとして扱われてきた。
近代社会は、「生命、財産、自由」を確保する運動から、始まったといわれている。
生命や財産は、自明のものだが、自由は、それが保障された後にも、専門家は、その定義や意味付けに、頭を悩ませてきた。
例えば、リベラリズムでいわれる責任の中心にあるのは、自己責任だ。
自分自身に対する責任であって、その論理は、「選択する主体は自分だから、選択した結果についても自分で責任を持つ」という、わかりやすいものだ。
自由な選択と自己責任は、対の概念となっている。
だが、これは、リベラリズムの欺瞞に過ぎない。
「犠牲の状況」を根底に置けば、本当の意味での責任とは、まずは、「死者への責任」とならざるを得ないからである。
責任は、自分が、たまたま犠牲者にならずに生き残ったという偶然性を、運命的なものとして引き受けることから発するのだから。
ハイデッガーの「存在と時間」を解説し、人は、過去を宿命として受け取り、その伝承されてきたものを使って、死に向かい合い、自分は、いったい何をすればいいのかということを、己れに問いかけ、それを選び取ることができる。
とういう意味で、人間は、死に向かって自由である。
死こそが、人間の自由の根本条件である、というわけだ。

[ 一言 ]
我々は、他者に、拘束されて生きている。
あるいは、生き続けようとすれば、拘束を受け続けなくてはならない。
それなのに、この社会は、自由な社会だと言われる。
自由とは、拘束を受けないことだという定義と、今の状態は、矛盾している。
実際に、社会で生じているのは、富を手にして、「享楽」を最大限に手に入れようとする「欲望自由主義」でしかないからである。

追記;
外国などでは、企業や、大学など、プロジェクト・チームを組むとき、その方向性とは、必ずしもストレートに合致しない半端者(オッドマン)を加えることが多い。
オッドマンがいるチームは、いないチームより、遥かに、早く目標をクリアできるというのだ。
一見、能率的に思える、「同じ」歯車だけの集団は、かえって、非効率的なのである。
同質化した、規格品だけの集団は、大きく失敗することはないのかも知れないが、飛躍することもない。
急激な変化に対しても、脆い。
自由と自分勝手とは違う、と子供を諌める大人は、自由が、集団にもたらす大変化を恐れ、保身をはかっているにすぎないのである。
自由人は、共同体に対し、一定のリスクを要求する。
そのリスクを取らなければ、勝利や進歩はないわけであって、個人が、自由であることの責任の一部は、きちんと、共同体のほうで、負うべきなのだ。

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