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【新書が好き】少年犯罪実名報道


1.前書き

「学び」とは、あくなき探究のプロセスです。

単なる知識の習得でなく、新しい知識を生み出す「発見と創造」こそ、本質なのだと考えられます。

そこで、2024年6月から100日間連続で、生きた知識の学びについて考えるために、古い知識観(知識のドネルケバブ・モデル)を脱却し、自ら学ぶ力を呼び起こすために、新書を学びの玄関ホールと位置づけて、活用してみたいと思います。

2.新書はこんな本です

新書とは、新書判の本のことであり、縦約17cm・横約11cmです。

大きさに、厳密な決まりはなくて、新書のレーベル毎に、サイズが少し違っています。

なお、広い意味でとらえると、

「新書判の本はすべて新書」

なのですが、一般的に、

「新書」

という場合は、教養書や実用書を含めたノンフィクションのものを指しており、 新書判の小説は、

「ノベルズ」

と呼んで区別されていますので、今回は、ノンフィクションの新書を対象にしています。

また、新書は、専門書に比べて、入門的な内容だということです。

そのため、ある分野について学びたいときに、

「ネット記事の次に読む」

くらいのポジションとして、うってつけな本です。

3.新書を活用するメリット

「何を使って学びを始めるか」という部分から自分で考え、学びを組み立てないといけない場面が出てきた場合、自分で学ぶ力を身につける上で、新書は、手がかりの1つになります。

現代であれば、多くの人は、取り合えず、SNSを含めたインターネットで、軽く検索してみることでしょう。

よほどマイナーな内容でない限り、ニュースやブログの記事など、何かしらの情報は手に入るはずです。

その情報が質・量共に、十分なのであれば、そこでストップしても、特に、問題はありません。

しかし、もしそれらの情報では、物足りない場合、次のステージとして、新書を手がかりにするのは、理にかなっています。

内容が難しすぎず、その上で、一定の纏まった知識を得られるからです。

ネット記事が、あるトピックや分野への

「扉」

だとすると、新書は、

「玄関ホール」

に当たります。

建物の中の雰囲気を、ざっとつかむことができるイメージです。

つまり、そのトピックや分野では、

どんな内容を扱っているのか?

どんなことが課題になっているのか?

という基本知識を、大まかに把握することができます。

新書で土台固めをしたら、更なるレベルアップを目指して、専門書や論文を読む等して、建物の奥や上の階に進んでみてください。

4.何かを学ぶときには新書から入らないとダメなのか

結論をいうと、新書じゃなくても問題ありません。

むしろ、新書だけに拘るのは、選択肢や視野を狭め、かえってマイナスになる可能性があります。

新書は、前述の通り、

「学びの玄関ホール」

として、心強い味方になってくれます、万能ではありません。

例えば、様々な出版社が新書のレーベルを持っており、毎月のように、バラエティ豊かなラインナップが出ていますが、それでも、

「自分が学びたい内容をちょうどよく扱った新書がない」

という場合が殆どだと思われます。

そのため、新書は、あくまでも、

「入門的な学習材料」

の1つであり、ほかのアイテムとの組み合わせが必要です。

他のアイテムの例としては、新書ではない本の中にも、初学者向けに、優しい説明で書かれたものがあります。

マンガでも構いません。

5.新書選びで大切なこと

読書というのは、本を選ぶところから始まっています。

新書についても同様です。

これは重要なので、強調しておきます。

もちろん、使える時間が限られている以上、全ての本をチェックするわけにはいきませんが、それでも、最低限、次の2つの点をクリアする本を選んでみて下さい。

①興味を持てること

②内容がわかること

6.温故知新の考え方が学びに深みを与えてくれる

「温故知新」の意味を、広辞苑で改めて調べてみると、次のように書かれています。

「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」

「温故知新」は、もともとは、孔子の言葉であり、

「過去の歴史をしっかりと勉強して、物事の本質を知ることができるようになれば、師としてやっていける人物になる」

という意味で、孔子は、この言葉を使ったようです。

但し、ここでの「温故知新」は、そんなに大袈裟なものではなくて、

「自分が昔読んだ本や書いた文章をもう一回読み直すと、新しい発見がありますよ。」

というぐらいの意味で、この言葉を使いたいと思います。

人間は、どんどん成長や変化をしていますから、時間が経つと、同じものに対してでも、以前とは、違う見方や、印象を抱くことがあるのです。

また、過去の本やnote(またはノート)を読み返すことを習慣化しておくことで、新しい「アイデア」や「気づき」が生まれることが、すごく多いんですね。

過去に考えていたこと(過去の情報)と、今考えていること(今の情報)が結びついて、化学反応を起こし、新たな発想が湧きあがってくる。

そんな感じになるのです。

昔読んだ本や書いた文章が、本棚や机の中で眠っているのは、とてももったいないことだと思います。

みなさんも、ぜひ「温故知新」を実践されてみてはいかがでしょうか。

7.小説を読むことと新書などの啓蒙書を読むことには違いはあるのか

以下に、示唆的な言葉を、2つ引用してみます。

◆「クールヘッドとウォームハート」

マクロ経済学の理論と実践、および各国政府の経済政策を根本的に変え、最も影響力のある経済学者の1人であったケインズを育てた英国ケンブリッジ大学の経済学者アルフレッド・マーシャルの言葉です。

彼は、こう言っていたそうです。

「ケンブリッジが、世界に送り出す人物は、冷静な頭脳(Cool Head)と温かい心(Warm Heart)をもって、自分の周りの社会的苦悩に立ち向かうために、その全力の少なくとも一部を喜んで捧げよう」

クールヘッドが「知性・知識」に、ウォームハートが「情緒」に相当すると考えられ、また、新書も小説も、どちらも大切なものですが、新書は、主に前者に、小説は、主に後者に作用するように推定できます。

◆「焦ってはならない。情が育まれれば、意は生まれ、知は集まる」

執行草舟氏著作の「生くる」という本にある言葉です。

「生くる」執行草舟(著)

まず、情緒を育てることが大切で、それを基礎として、意志や知性が育つ、ということを言っており、おそらく、その通りではないかと考えます。

以上のことから、例えば、読書が、新書に偏ってしまうと、情緒面の育成が不足するかもしれないと推定でき、クールヘッドは、磨かれるかもしれないけども、ウォームハートが、疎かになってしまうのではないかと考えられます。

もちろん、ウォームハート(情緒)の育成は、当然、読書だけの問題ではなく、各種の人間関係によって大きな影響を受けるのも事実だと思われます。

しかし、年齢に左右されずに、情緒を養うためにも、ぜひとも文芸作品(小説、詩歌や随筆等の名作)を、たっぷり味わって欲しいなって思います。

これらは、様々に心を揺さぶるという感情体験を通じて、豊かな情緒を、何時からでも育む糧になるのではないかと考えられると共に、文学の必要性を強調したロングセラーの新書である桑原武夫氏著作の「文学入門」には、

「文学入門」(岩波新書)桑原武夫(著)

「文学以上に人生に必要なものはない」

と主張し、何故そう言えるのか、第1章で、その根拠がいくつか述べられておりますので、興味が有れば確認してみて下さい。

また、巻末に「名作50選」のリストも有って、参考になるのではないかと考えます。

8.【乱読No.28】「少年犯罪実名報道」(文春新書)高山文彦(編)

[ 内容 ]
凶悪犯罪の加害者なら、少年でも実名を書いていいというのではない。
成年だからといって、関係者に誰一人会わず警察情報だけから実名を報道する、あるいは被害者のプライバシーを興味本位に報道することのほうが問題ではないのか。
「実名報道」こそは、書く側の覚悟が問われるものだ―九八年一月に大阪府堺市で起きた、シンナー中毒の十九歳少年による通り魔殺人事件の報道をめぐり、法廷のみならずマスコミ・言論界を巻き込んで行われた議論の全て。

[ 目次 ]
1 名前で呼ばれるべき「生」と「死」
2 ルポルタージュ「幼稚園児」虐殺犯人の起臥
3 大阪地裁での裁判
4 大阪高裁での裁判
5 裁判のあとで

[ 発見(気づき) ]
名前を出せば犯罪は減るか?
少年法の「改正」が、「少年凶悪犯罪」のたびに取り沙汰されている。
たしかに、いじめと呼ぶには悪質に過ぎる巨額の恐喝や、いとも簡単に殺人を犯すなどの少年犯罪がマスコミを賑わし、こうした少年犯罪に社会がどう対応すべきかが問われている。
しかし少年犯罪への社会的対応の課題が、センセーショナルなマスコミ報道を通じてしだいに少年法「改正」に向けたキャンペーンの様相を呈し、しかもその焦点が「少年の実名と顔写真の公表」に絞り込まれていく現状は、やはり放置できない危険な兆候というべきだろう。
公表賛成派の主張は、被害者感情を盾にして、「少年にも社会的制裁が必要だ」というものだ。
しかしその本質は、より重い社会的制裁という威嚇で少年犯罪を抑止しようという、死刑存続論と同じ論拠に拠っている。
だが制裁の威嚇が犯罪の抑止力になるなどという刑法論議が何の根拠もない主張であることは、死刑を廃止した国や地域で、殺人事件が急増した訳ではないという厳然たる事実によってすでに明らかだ。
だが他方の公表反対派にも、問題がないではない。
少年法の「精神の遵守」つまり「未熟な青少年の未来の可能性」を無条件に信頼すべきだと謂わんばかりの、むしろ教条的とさえ言える公表反対の主張は、少年によって妻と子供を殺された遺族(夫)が、強姦されて殺された妻の実名報道を求め、自らも公然と実名を名乗って「事件の真実を報道してほしい」という正当な要求の前には色あせる。
へたな匿名報道は、被害者と遺族の尊厳を二重三重に踏みにじることがこれまでもあったからだ。
問題なのは少年の実名や顔写真を公表するか否かではなく、被疑者つまり警察に逮捕されただけで裁判にもなっていない人間の実名が報道されるべきか否かであり、「少年だから・・・」という論争は、不毛な論争と言えなくもない。
だがそれが少年法「改正」の焦点ならば何らかの「基準」を、社会的制裁の威嚇で犯罪を抑止しようという反動的意図に対置する必要がある。
だが「公表反対派」には、これができていないのだ。
実は少年犯罪と言えども、成人と同様に扱われる事件はある。
成人と同様と言うのは、氏名や顔写真の公表も「できる扱い」という意味である。
しかもこんなことは、すでにブルジョア法制の下でもはっきりした基準ができていることなのだ。
それは少年犯罪を扱う家庭裁判所が、審判の結果として少年を検察庁に送り返す、いわゆる「逆送」である。
少年法の定める年齢にもとづいて一旦は家庭裁判所で非公開の少年審判を行うが、「この事件は成人と同様に扱うのが相当である」と家裁が判断すれば、事件は検察庁によって成人と同様の訴訟手続きに基づいて公判に付される。
そしていうまでもないことだが、あらゆる裁判は公開が原則なのだから、公判に付された少年事件もまた完全に公開されているのだ。
ところが、前述した遺族の訴えを報道したテレビにしろ新聞にしろ、彼自身の実名は伝えながら、成人と同じ扱いの裁判になっている事件の少年被告の実名は報じない。
これが「少年法の精神の遵守」だと考えているのだとすれば、これこそ教条主義と呼ぶにふさわしい。
そしてこうした「教条的な」少年法の精神の遵守の主張が、反動的な「公表派」を勢いづかせてもいる。
また、日本の犯罪報道は少年、精神障害者など一部の例外を除いて逮捕時に被疑者を実名で報道するのを原則としている。
これに対して、スウェーデンなどでは逮捕時あるいは公判を通じて王室、国会議員らによる権力犯罪など、「明白な社会的関心がある」場合以外は、被疑者を匿名で扱い、氏名を報道しないのが原則になっている。
そして、『犯罪報道の犯罪』(一九八四年)でスウェーデンの匿名報道を紹介して以来、日本にも取り入れるべきだと主張する浅野健一氏との間で、報道界でも、実名・匿名報道をめぐって何度か論議が交わされて来た。
しかし、せっかくの論争にもかかわらず、議論が一方的、感情的になりがちで、実名報道の側からの反論もなされず、十分な成果が得られていないように思われる。
そんな状況の中で、実名報道の根拠としている記事の正確さと読者に与える説得力、実名報道による犯罪の予防、抑止効果、公権力の行使に対する監視機能という三つの点について、その意義は認めるものの、十分ではなく、新聞もまた、実名報道に関して、いまだみずからを正当化しうるだけの論理を見いだしていないということになろう。
実名報道の根拠は一体何なのかという問題意識を持ち続けているのだが、この問題は、その国の社会文化の構造、司法制度、メディアの構造、情報公開度と人権意識の水準など、多様な側面から総合的に比較し、考えることが必要だと考えるようになった。
そういう形で総合的な視点から改革を押し進めるのでなければ、日本の犯罪報道を現実的に質的に転換させるのは困難だということである。
まず、確認して置きたいのは、一口に実名報道といっても、日本より徹底して実名報道を展開しているアメリカ、裁判所(法廷)侮辱法などによって犯罪報道にさまざまな制限を設けているイギリスやカナダ、さらに実名報道であっても、プライバシーや推定無罪の原則を法制化し、実名報道の弊害を抑止しようとしているフランス、そして実名報道の原則を貫きながら、匿名化を拡大している日本など、各国の実名報道の実態は非常に異なっているという点である。 

[ 問題提起 ]
海外では犯罪報道における実名・匿名問題はどういう視点から論じられているのだろうか。
実は英国では、実名報道の問題は逮捕時の問題としてよりも、裁判報道の問題として論議されている。
英国には、すでに触れたように裁判所(法廷)侮辱法によって、犯罪報道はさまざまに規制されているが、逮捕時の実名報道は認められており、ロンドンの高級紙ザ・タイムズでも昨年四月七日の十七面で、六本木で働いていた英国人女性が日本で殺された事件を被疑者、被害者の氏名や写真入りで大きく報道している。
しかし、犯罪報道の主流は裁判記事で、逮捕時の報道は少なく、一部の例外を除いて扱いも小さい。
ところが重要な刑事事件の裁判報道は非常に詳しく、少年などを除き被疑者の氏名は実名で報道される。
ところが、スウェーデンでは、有罪判決が出ても、また、裁判の中の記事でも実名は普通報道されない。
この点について英国では、いわゆるオープン・ジャスティス(Open Justice)、すなわち開かれた司法、公開裁判の理念との関わりで、匿名報道をすべきでないという考え方が支配的なようである。
簡単にいえば、司法プロセスすなわち裁判の過程は事実をできるだけ忠実に報道し多くの市民の目が注がれるようにして、権力の乱用によって裁判の公正が損なわれないようにするという考え方で、英国では古くから確立した理念である。
では、アメリカでは匿名報道はどう受け取られているだろうか。
憲法修正第一条により言論表現の自由が高度に保障されているアメリカの場合は、英国のオープン・ジャスティスという理念が、イギリスよりもはるかに徹底し、オープン・ガバーメントというところまで広がっているような印象さえ受ける。
その根底に流れているのは、すべてをオープンにして解決するという社会・文化理念である。
アメリカでは、軽微な犯罪についてはほとんど報道されないが、凶悪な殺人事件などは、ニューヨーク・タイムズなどいわゆる高級紙でも、被疑者は実名や写真入りで報道される。
日本では匿名扱いになる少年犯罪も凶悪なものは、実名、写真入りで大きく報道されている。
また、日本ではほとんど情報が秘匿されている死刑の執行なども、詳細に報道されている。
O・J・シンプソン事件では、公判のテレビ中継が裁判の公正との兼ね合いで批判を呼んだが、州レベルでの裁判のテレビ中継はその後も中止されたわけではない。
このようにアメリカのメディアは、いい意味でも悪い意味でも世界でも例を見ない形で、司法権力の行使の実態を市民に明らかにしている。
そして、メディアの報道に人権侵害など行き過ぎがあった場合は、裁判によって救済するという考え方が取られており、敗訴すれば、天文学的な高額の賠償金を覚悟しなければならないが、同時に原告が公人の場合、メディア側の現実的な悪意を立証しなければならないなど、報道の自由を保障する制度になっている。
そういう国だけに匿名報道という考え方がもともとなじまないのである。
こういうアメリカでも最近は、メディア産業の企業合併による独占化を背景に、犯罪報道の過熱化、主流メディアのタブロイド化現象などが批判の的になっているが、そういう問題点を持ちながら、アメリカン・ジャーナリズムには、ウォーターゲート事件や国防総省機密文書事件の報道など、勇敢に政治権力に立ち向かった優れた報道の実績が過去にはある。
つまり、英米とも実名報道の根拠には、広い意味で、『新・法と新聞』が三番目に挙げている公権力の監視という点を意識していると考えられる。

[ 教訓 ]
実は、日本でも、一九八四年から八六年にかけて井上安正(読売)、柴田鉄治(朝日)両氏と、浅野健一氏との間で実名報道と権力の監視の問題で論争が行われた。
しかし、論理はかみ合わず、不毛なものに終わっている。
柴田氏の主張は「逮捕は重大な警察の権力の行使なので、逮捕された人の氏名やその容疑の内容を報道する必要がある。
だれが逮捕されたかわからない社会は暗黒社会だ」というアメリカ的な考え方に立つものだったが、「実名報道が警察に対するチェックの意味もある」という発言が、「実名報道・権力チェック論」として批判を浴びた。
英米のオープン・ジャスティスという理念は、逮捕時の実名報道によって、警察の捜査や裁判の誤りなどを直ちにチェックできるという考え方ではない。
客観的に逮捕の事実や裁判の審理の内容を市民に正確に伝え、逮捕から裁判の過程などをガラス張りにして司法権力の行使を市民の監視の目にさらすという趣旨である。
逮捕時点では、警察側が圧倒的に捜査情報を保有しているわけで、その時点で警察の逮捕が違法捜査の結果なのか、誤認逮捕なのかということを報道機関が明らかにすることは、通常の場合はきわめて難しい。
英米の報道でも、逮捕記事は事実関係を客観的に報道するだけのものが大半を占めている。
では、完全な匿名報道が日本はなぜできないか?
スウェーデンの徹底した情報公開制度の下での精緻な匿名報道のシステムを高く評価するけれども、それではそれが日本にすぐ導入できるかといえば、現状では無理ではないかと思う。
では、一挙に全面的に匿名報道に踏み切れない理由は何か。
先に指摘した理念の問題もあるが、それ以上に司法制度と、メディアの構造的な問題があるのではないかと考える。
まず、第一に、例えば、英米では、全体主義諸国に見られる秘密の逮捕・勾留ならびにを特に重大な人権侵害と見なしており、米国では逮捕情報は原則公開情報だし、英国の刑事証拠法(一九八四年)は逮捕の事実を近親者や弁護士に被疑者ができるだけ早く伝える権利を五六条できちんと法定化しているが、日本では国際的に問題視されている代用監獄制度が存在するだけでなく、被疑者の外部との連絡が大幅に制限されることがあり、冤罪の温床になっている。
スウェーデンは、情報公開制度を世界に先駆けて取り入れた国であり、人権意識も高い。
日本はようやく改善されて来たとはいえその点では後進国であり、臭い物にフタという情報閉鎖文化の国である。
警察情報の公開はもちろん、被疑者、被告人への取材アクセスも大幅に制限されている。
完全匿名を主張する人はその心配はないというが、情報公開を求める人を防衛庁が身元調査するような国だけに、匿名報道によって、警察の秘密主義が強まることに対して報道界が懸念を表明するのも決して根拠がないとはいえないと考える。
確かに逮捕段階で警察が名前を発表しなくても、送検、勾留理由開示公判、起訴の段階で、記者が逮捕者の氏名を知ることはできるだろうが、代用監獄がある現状では冤罪を防止しするには起訴段階では遅すぎるし、勾留開示公判は、実際に行われるのは年三百ないし四百件に過ぎないのである。
もう一つの問題は日本のメディア構造にも潜んでいると思う。
日本のマス・メディアは、スポーツ紙や夕刊紙、さらに週刊誌、テレビのワイドショーなど、英米のタブロイド紙に近いメディアが多く、人口の違いを考慮しても、マスコミ全体の規模や競争がスウェーデンとは比較にならない。むしろ、英米に近いメディア構造であり、それだけに商業主義の影響も受けやすい側面もあると思う。
言論多様化のため、政府が経営の苦しい新聞にひも付きでない助成金を出して保護しているスウェーデンなどの北欧の高度社会福祉国家とは残念ながら違う側面がある。
これは別に私だけの印象ではなくて、一九九六年に茨城新聞が新聞協会加盟社に行ったアンケートでも、「将来、犯罪報道が現在の実名報道から匿名報道に変わっていくと考えますか」という問いに対して、「そう思わない」が、新聞・通信で三二社八二・一%、スポーツ紙八社一〇〇%、テレビ・ラジオ九社六四・三%、計四七社で平均しても七九・七%が否定的な予想をしていることからもうかがえる。
では、現在の日本の逮捕時の実名報道に問題がないかといえば、大いにあるといわざるを得ない。
被疑者を最初から犯人扱いしたり、私生活を事細かに暴露したり、推定無罪の原則に照らして、問題は多い。
同じ実名報道の立場を取るフランスでは、一九九三年一月四日の刑事手続きの改正により、民法典第九条に「無罪推定の尊重を求める権利」が明記され、判決以前に犯人視する報道を受けた場合は、裁判所に報道の差し止めや訂正を求めることができるようになったといわれる。
また、英国では、以前から裁判所(法廷)侮辱法 により、被疑者の前科をはじめとする人格に関わる報道、自供の内容の暴露、特定の事件についての有・無罪の論評などが陪審に予見を与えるとして禁止されている。
その意味で、日本の実名報道もこういう基本に立ち返って報道の姿勢を改めることがまず、必要であり、重大犯罪以外の軽微な犯罪については、英米のように報道しないようにするとか、そういう事件の報道は匿名扱いにするなど、新しい視点から犯罪報道のガイドラインを作るとともに、人権擁護のための司法改革に積極的に紙面を割くようにすべきではないかと思う。

[ 結論 ]
最近増えつつある未成年の凶悪犯罪が取りざたされると、決まって起きるのが、利害の対立だ。
極端にシンプルに言ってしまうと、少年のプライバシー保護、更生 VS 報道の自由、知る権利。
シンプルに対立のかたちを書いてみたが、注意しばくてはいけないことは、実際の対立が、錯綜していることだ。
たとえば、必ずしも対立は「私」対「公」になっておらず、少年側の「私的」な利益 VS 被害者側の「私的な」利益など、これは、少年側の情報を被害者側が知りたいという利益を意味する。
被害者側のプライバシー VS 報道の自由といった対立のかたちもある。
しかし、被害者側に立てば、加害者の「少年」を守るために、人権や社会権に関して、あまりにもバランスを欠いたシステムが今、日本にはあって、国民も被害者もいらだっている。
具体的なかたちとして端的に現れるのが、実名報道の問題である。
実名報道の問題は、この場合、二つある。
被害者、およびその家族の実名報道。
加害者の「少年」の実名報道。
前者は、今回の高専生の被害ぶりや、家族の名前までも実名報道されてしまって、すでにプライバシーはない。
被害者の父母は顔写真まで出されてしまっている。
被害者の父母は、社会の利益を考えて、みずからのプライバシーを犠牲にすることも考えられるが。
一方、加害者であるにもかかわらず、少年法で守られた「少年」はもとより、その家族も実名報道されず、プライバシーは守られることになっている。
にもかからわず・・・。
週刊誌、実名報道している。
上の利害の対立を勘案して、公共的利益をとったのである。
商業利益もあっただろうが・・・。
この実名報道は正しかったのだろうか。
例えば、週刊新潮において、発行元の新潮社の月刊誌「新潮45」が堺市で起きた幼稚園児ほか殺傷事件を報道する過程で、加害者のシンナー男を19歳の「少年」と知りつつ、顔写真や実名を出しことで、人権侵害を根拠に、加害者の「少年」が新潮社を提訴したこと(損害賠償請求額2200万円)があった。
一審判決は新潮社側に250万円の賠償命令。
控訴判決は、一審判決を破棄し、上告審は、途中で加害者側が訴を取り下げた。
憶測になるが、あれだけのことをした加害者が、よりにもよって名誉毀損とはやり過ぎではないか、という社会的な批判にさらされて、金井塚某(某:弁護士の一部が好んで使う表現)と言う左翼弁護士が
あわてて作戦を変えたのだろう。
自分の仕事にも影響が起きるという判断かも知れない。
プライバシーを守れと声高に叫んだ左翼弁護士が、自分が危なくなると途端に、自分の依頼人や相手方のプライバシーを法廷に故意に出してくることは、珍しくもない、彼らの法廷手口である。
今回の高専生殺害事件でも、加害者は未成年だった。
それも、後3ヶ月で成人となる、ぎりぎり未成年。
ぎりぎりでも、少年法61条を根拠に、違法性があるとして、実名報道は許されていない。
またこの61条とリンクして、家裁での審理は非公開となっている。
さて、週刊新潮は、実名と顔を出す報道姿勢で、発売に踏みきったものの、実際はその時点ですでに、加害者の「少年」は首をつって死んでいた。
さらに、マスコミは新たな問題を突きつけられた。
「少年」が死んだ後は、実名報道ができるか否か?
ちょっと予想のつかない展開だったため、マスコミ各社は、困惑し、その足並みは乱れている。
実名報道に変えた社もあれば、依然として、匿名報道を守る社もある。
その理由も、さまざまな根拠をもとにして主張され、実際のところ、なんらかの形で結論を出しておかないと、またもや問題解決の先送りとなってしまう。
そんな中で、少年犯罪の実名報道紙・誌について未成年である犯罪容疑者の実名や顔写真が雑誌や新聞に掲載された場合、これまで公共の図書館では各館の自主的な判断によって閲覧させるかいなか判断させていたようですが、日本図書館協会の委員会は「加害少年の推知報道については提供することを原則とする」といの考え方をまとめたとのこと。
少年法61条は「家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であること推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。」と規定しているので、報道側も自主規制をはっていたようである。
ただ、以前、山口で起きた女子学生殺害事件で殺人罪の被疑事件で指名手配された少年が自殺していた問題で、少年の保護・更生と重大事件については公共の関心事だとして知る権利のどちらを優越させるかが議論になっていた。
少年の名をなるべく伏せようとすることには、特定されてしまえば、少年の将来の更生を機会を奪ってしまうということが言われるのですが、少年が死んでしまった場合は例外ではないだろうかと言われたわけである。
これはなかなか難しい問題で、どちらがいいかということはすぐには答えがでない。

[ コメント ]
個々の事件に即してこれからも議論していく必要がある。
では、裁判所ではどのように扱っているのか。
少年が刑事裁判の対象になった場合には、開廷表(法廷前に掲示する裁判の予定表のことです)に載っている被告人名は実名を伏せている。
また、公開裁判であり、少年も傍聴人の前に姿を現さなければならないが、できる限り、傍聴人からはその姿が見えづらい配慮(語弊があるかもしれません)をしている。
たとえば、被告人が入廷する際に、傍聴席の前に遮へい版をおき、被告人が席についたら遮へい版をはずし、少年の周りには刑務官を配置するといったことをしている。
少年は正面を向いているので、傍聴席からは少年のかすかな横顔か後姿しか伺うことがでない。
裁判所のこうした配慮が甘いとの批判があるやもしれないが、裁判所が一番、少年が可塑性に富んでいることを期待しているのかもしれない。

9.参考記事

<書評を書く5つのポイント>
1)その本を手にしたことのない人でもわかるように書く。

2)作者の他の作品との比較や、刊行された時代背景(災害や社会的な出来事など)について考えてみる。

3)その本の魅力的な点だけでなく、批判的な点も書いてよい。ただし、かならず客観的で論理的な理由を書く。好き嫌いという感情だけで書かない。

4)ポイントを絞って深く書く。

5)「本の概要→今回の書評で取り上げるポイント→そのポイントを取り上げ、評価する理由→まとめ」という流れがおすすめ。


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