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「目指す社会像」があってこその「目指す政策」「国家観」であると感じてる。総裁選・代表選・衆院選、自分が最も聴きたいのは「目指す社会像」です!【社会貢献】【エッセイ】



 「家庭や地域の経済力で、子どもの『個性』『才能』『可能性』が影響されない社会」こそが理想であると感じてる。だからこそ、「努力できるスタートラインにさえ立てない社会は、絶対におかしい」と声を大にして伝えたい!
 でもいまの日本社会は、「学歴フィルター」「学閥」の影響力が程度問題を超えてとても強すぎてること、「子どもの貧困」「教育費の莫大さ」が、とても深刻化の一途であること、これって絶対におかしいよ!と感じるし、「失敗しても改めて歩み出せる社会」であって欲しい!








 「一人一人それぞれが、『自分らしく』生きられる社会。
 一人一人それぞれの個性が『尊重される』『伸長される』社会。
 『100人いれば、100通りの個性がある』が大切にされる社会。」
 このような社会像が叶うことが、自分が一人の人間として「叶えたい景色」です。

 (2024年2月10日のnote記事「2024年新春、子ども・若い世代に伝えたいこと(その2。人生は一本道ではない。そして、挑戦できる人間はより応援したくなる)。」より引用・抜粋。)




 「『好きなこと』『得意なこと』『大切にしていること』を、何か1つでいいから育もう、伸ばし続けよう!
 ↓
 『好きなこと』『得意なこと』を育むこと→それ自体が『長所』『特徴』になり、つまり『その人らしさ』に結び付く!
 ↓
 『人間が生きることにおいて最も大切なこと』→『社会に貢献できること、社会をよりよくできる一助になること』。
 ↓
 『社会に貢献できること』が『生きる意味』なことに照らせば、『好きなこと』『得意なこと』を通して『社会に貢献できる・社会をよりよくできる一助になる』がより望ましいことだよ!
 ↓
 『社会に貢献できる・社会をよりよくできる・社会の役に立てる』→まずは『周り・誰かをよりよくできる、周り・誰かに貢献できる』ことから始めよう!
 ↓
 『周り・誰かをよりよくできる、周り・誰かに貢献できる』→そのためには『優しさ』『思いやり』を育むことが大切!→『優しさ』『思いやり』を育み続けられれば、きっと誰かに想いは届くよ!
 ↓
 『優しさ』『思いやり』を育むことで、『誰かの・周りの役に立つこと』、つまり『周りと共に輝く』ことで『自分も周りも笑顔になれる・共に成長できる』ことができれば、とても素敵だよね!
 そしてそれが、最終的には『社会をよりよくできる』一助へと結び付き得ることになると自分は信じてる!」
 ↓
 そう、自分が強く願うことは、
 「一人でも多くの子どもが、『自分らしく』成長して、『社会に貢献できる・社会をよりよくできる一助に成長できますように。」
 ということです。ささやかなエールとして伝わると、とても嬉しいです。

 「『好きなことを伸ばす』『得意なこと・長所を伸ばす』、これこそが『その人自身をより輝かせる原動力』になるんだよ!
 何か1つ『特徴がある』『長所がある』人間は、その特徴・長所こそが、たとえ逆境になってもその人自身を支える一助になる!
 そして『好きなことを伸ばす』『得意なこと・長所を伸ばす』ことで、『自分自身の特徴・長所をより最大級に活かせる道』を見出せる一助になるから!
 だからこそ伝えたい、『何か1つ、好きなこと・得意なこと・長所を伸ばそう!』そうすることで、ゆるぎない『自分の軸』が生まれるから!」

 (2023年3月31日のnote記事「2023年春、『好きなこと・長所を何か1つ育むこと』で社会に貢献できる一助になれると最高に素敵!そのためにはまず『優しさ・思いやり』を育むことから始めようよ!」より引用・抜粋。)




 「『つらい』『悔しい』『悲しい』『怖い』と感じたら、
 『つらい』『悔しい』『悲しい』『怖い』といっていいんだよ!
 『つらい』『怖い』の気持ちは『生きたい』という証明なんだから!
 だから、泣きそうになったら、『いっぱい泣いていいんだよ』!
 自分がそうだから!『涙の数だけ、人間は成長できるから!』」

 「そう、『立ち止まる必要がある』と感じたら、『立ち止まって全然いいんだよ!』と伝えたい。それこそ、『生きるペース』は『人それぞれ』であると自分は感じてますので。
 大切なことは、『いつか、何らかの形で、能登(故郷)の役に立てる人間になりたい』の気持ちであり、『能登の役に立てる(貢献できる)ために、自分に何ができるだろう?』の気持ちです。そう、ありきたりかもですが、
 『微力だけど、無力じゃない。』
 これに尽きる、と自分は思ってるんですよね。」

 (2024年3月22日のnote記事「能登の10代・中高生の卒業式、1人の人間としてささやかなエール(それぞれの素敵な姿勢・言葉に励まされるからこそ!)。」より引用・抜粋。)



 いま、冒頭で、自分の過去のnote記事から、「自分が理想としている社会像」「自分が感じてる、人間として大切なこと」を、綴らせて頂きました。
 自分のnote。いまは「スポーツ」(特に、「バスケットボール」「野球」)をメインに綴らせて頂いてますけど、「社会貢献」「子ども・教育」的なことも、自分の特に強い関心テーマです。

 「社会をよりよくできるために、自分にできることって何だろう?」
 このことを、自分自身に問い続けることを、いつも心掛けています。


 と申しますのも、自分自身、(自分のnoteでは何回も公言させて頂いてるかなですが、)「子どもが大好き」です。
 いま、自分の仕事場であるコワーキングスペース(あるいは、自習室・カフェ)では、子ども(主として高校生)が同じ空間にいる(特に、平日の夕方や土休日)ことが多いのですけど、
 「名門の私国立(中には、塾・衛星のテキストをどっさりな子どもも少なからずいます)」も「公立(とはいえ基本的には、1,2番手校。しかも中には、塾・衛星・通信を一切使わずに国公立を目指すと思しき子どももいます。ちなみに昨年は、どうやらですが、『公立→塾・衛星を一切なし→現役で国公立』がガチでいました)」も両方、いわば玉石混交でいます。

 (なぜそうわかるかといえば、大学のテキストや課題をがっつりしていたため。内心、自分のことのように、とても嬉しい気持ちでしたし、「親孝行の極み」といえる感じです。
 かくいう自分は、「私立の中高一貫校→塾にがっつりと→現役だけど、第3志望校の私立[もともと私立文系ではあったが]」でした。「こんなに努力したのに、思い出したくない結果に終わった」で、自分自身にも、親にもとても申し訳ない感じでと。ちなみに自分の場合、「浪人×、下宿・寮が×」がもともとありました。)







 何故、この話をまず入れたかと申しますと、理由の1つは、いまいる環境って、「リアル『スカイキャッスル』」と感じるからがあります。
 そう、自分がいま、仕事場にしている場所の1つが「あべのハルカス」です。いわば「リアル『天空の城』」なんですよね。

 (尤も、ドラマでの「スカイキャッスル」の意味は、「天空の城」だけではない。原作[韓国版]では、「SKYキャッスル」、この「SKY」とは
 「『S(ソウル大学)』『K(高麗大学)』『Y(延世大学)』
 この、韓国[いずれもソウル市内]の3つの名門大学の略称のこと。
 日本になぞらえれば「東京」「早稲田」「慶應義塾」に相当。
 で、日本の「受験戦争」は、とてもえげつないですけど[これでも近年は、推薦・AOがかつてより充実したことや少子化で、自分の時代よりは多少は緩和されてると伺いますが]、韓国の「受験戦争」は、日本よりさらにえげつない。だから「スカイキャッスル」は話題になったと伺います。
 制作意図としては「学歴至上主義社会はおかしい」を伝えたかったのでは、といわれていますが。)




 そう、自分は、中学校のときから、上本町・天王寺をメインフィールドに生きてきました。いわゆる「文教地区」で、有力な私国立の中学校・高校をずらりと擁する地域です(学校の所在地がその地域でなくても、上本町・天王寺は塾・予備校・衛星も多いので、その地域の塾・予備校・衛星に通う子どもも含めると、「有力な私国立」の数は、さらに増えます)。
 表現を変えれば、「教育熱の高い地域」ともいえます。で、「有力な私国立」と述べましたけど、自分もそう、私立の中高一貫校の出身で、自分は「上宮」でした(いまは共学で雰囲気が変化しましたけど、当時は男子校。自他共に認める「校則が厳しい、『The・管理教育』」でした)。

 そう、自分が私立でしたので実感するのですけど、カフェ・ファストフード店・書店・文房具店とかだと、(勿論、店員によるのですけど、)「有力な私国立の制服」(特に女子で顕著)を着ていると、店員の姿勢・表情が露骨に変化するんですよ。表情がより笑顔になったとき、子ども心にそりゃあ嬉しかったですから。


 ですけど、そう、そのような土地柄ですから、子どもの中には(これもまた、特に女子で顕著ですが)、「自分はこの学校に所属しているのよ。見ればわかるでしょう?」を、誇示する子どもがいるのです(実際、制服を売りにしている私立もいくつかあるほどですし)。

 その地域ではよく知られた制服を持つ「有力な私国立」と、いわば「叩き上げ型・晩成型」といえる「1,2番手校の公立」が交わる場所。
 自分もいわば、「刺激」になっていますし、「社会勉強」の場にもなっているが、正直な実感です。


 実は自分は、もともとは教員志望でした。そう考えると、もともと志していた道とは、異なる感じになっているといえるかもです。
 ですけど、いまこうして、子どもと、また、いろいろな人間と交われる場に身を置けていること、それと、「書く」「伝える」ことで生きていけてること、これはいわば、自分にとっては「運命」であったといえるのかもしれない、そう感じたりもしてます。

 「100人いれば、100通りの個性がある。」
 自分が、2011年以降(27歳のとき)、2回目の大学生生活を歩んで、それで東北(東日本大震災)の復興支援活動に、微力ながらですけど向き合わせて頂いた過程で、特に学ばせて頂いたことです。
 そう、多様なバックグラウンドを持った子どもと交わりながら、自分も仕事に取り組める、あるいはバスケットボールを楽しめる(いまは、バスケ会場でも、子どもの比重が徐々に多くなってきています)、これがいまの自分にとって、とても「刺激」という「プラス」になってると感じてます。


 そう、自分自身、「回り道・紆余曲折の人生であった」ことを、自分のnoteで何回も言及させて頂いたかなですけど、歩んできて、生きる方向性として出せた答えが

 「『誰かの応援者』であることが、自分の『生きる喜び』。
 自分の持っている能力を最も活かせるのは、恐らく『応援者』である。」

 「応援者」であることと共に、「分析者」であることも、自分の持っている能力を最も活かせる意味でそうであるといえると思っていますし、特に最も得意であるバスケットボールは、この「分析者」の意味合いがより強いかなと正直感じたりですけど。
 (たとえ応援しているバスケ球団であっても、「要改善なことは要改善」と容赦しない意味では、「応援者」以上に「分析者」の意味合いが強い。文章を読み返すと、自分でも怖いと感じるほどに「ジャックナイフのように、ドライ」な感じが正直あったりしますから。)



 …と、ここまで、導入のつもりが既に結構長くなってしまっていますけど、この導入部分で、何を綴らせて頂く意図かと申しますと、

 「家庭や地域の経済力で、子どもの『個性』『才能』『可能性』が影響されない社会。
 そう、確かに『努力が報われるとは限らない』(←自分がそうであったから)。でも、『努力できるスタートラインにさえ立てない社会は、絶対におかしい』と声を大にして伝えたい!」

 そう、確かに、自分が目の当たりにしていることとして、この大阪でも、名門・有力の私国立がずらりといる中で、「公立から、塾・予備校・衛星・通信なしで、現役で有力国公立に進学」は、確かに現実にいます。
 それに、地方部、さらには離島でも、そこから現役で(塾・衛星・通信なしで!)難関国立(旧帝大クラス)に受かる子どももいますし、以前のnoteで取り上げた人物には、能登半島地震に被災しながらも(奥能登地域は、「地方部を地で行く地域」といえるので)、地元の国立に推薦で現役で進学(国公立の推薦は、一般で進学するより、断然にハードルが高いですので。しかもこの子どもの場合は、聴覚に障がいがあるを乗り越えてなので、なおさらすごいのです)、という子どももいました。






















 いま、一気にいくつかをリンク添付させて頂きましたけど、この日本社会の「最大の『闇』」と自分が感じているのが、「学歴フィルター」「学閥」です(はっきり述べれば「諸悪の根源」と感じてます)。
 (勿論、自分の大学受験[2003年年始]のときには、既に厳然と存在していました。しかも自分のときは、「AO入試」[現在でいう「総合型選抜」]という方法がまだゼロに等しく、そのうえ、「数学で『0点』を2回とってしまうほどに数学・理科が『見るのも嫌』なレベル」の自分は、「指定校推薦」に活路を見出すこともできませんでした。)

 進む分野・職業とかによるので、勿論一概にはいえないのですけど、「学歴フィルター」「学閥」の恩恵のスタートラインに立てれば、よいのかもしれない。でも自分のように、「学歴フィルター」「学閥」のスタートラインに立つことさえ叶わなかった人間って、少なくとも自分は、いわゆる自分のこの「学歴コンプレックス」は、「恐らく一生消えることのない、とても深い心の傷」であり続けるだろう、と正直とても実感してます。


 「人間として最低限度の大学」。恐らくずっと忘れないと感じてる。
 そう、自分は「京都産業大学」でした(大学生活は2回してますが、2回目は社会人を経ての通信制、いわばイレギュラーですので、この場合1回目の大学時代です)。いわゆる「産近甲龍」ですけど、関西圏では「関関同立」が強烈にリスペクトの対象で(実際、付属校進学を叶えるための中学受験・高校受験は、激化の一途と伺ってます。付属校進学が叶えば、メリットはそりゃあいくつもありますから)、でも自分は届かなかった(これについてはこれまでも言及してますし、これからも恐らく言及の機会はあるので、ここでは必要以上の深入りはしませんが)。

 結論から述べますと、自分の場合は、この京産大という道で、プラスだったこと、マイナスだったこと、恐らく両方あるかなです。でも、願っていた京都という街を楽しめたこと(「寺社巡り」ができたこと、「京都御所を歩けたこと」とかは、特に「心の財産」です)、単位互換制度を存分に活用できたこと(「大学コンソーシアム京都」。勿論、いまもこの制度はあります)、これは特にプラスとはっきりといえます。

 ですけど、この「人間として最低限度の大学」。自分自身の肌感覚で述べますと、自分が叶えた大学のレベルって、関西圏での場合ですけど、「上位の20%~25%ライン」に入ると思ってるんですよね。実際、自分は(中学受験組でもありますが)小学5,6年生のとき、学級で「5~7番目程度」でしたので、そう考えると、関関同立や龍谷を目指していたのは、レベル的には「いや、妥当なターゲットラインでしょう?」と。
 で、最終的には京産大でしたけど、冷静に客観的に見れば「上位の20%~25%にはいる」訳ですので、「恥ずかしいことではないと思うけどなあ?」と感じてるのです。

 ですけど現実は、「上位の20%~25%ライン」を叶えたはずなのに、「人間として最低限度の大学」の烙印を押されてる。これって視点を変えれば、「『75%の人間』は、『人間として最低限度のラインでさえないってこと?』」と。
 ですので、いまの自分を支えている大きな1つは、「『人間として最低限度の大学』といわれ続けてきた悔しさと反骨心」、これが正直あると感じてます。



 かつてよりは、「推薦・AOが充実してきている」、いわば「より複線化した制度に、徐々にだけどなってきてはいる」、その意味で、自分の大学受験のときよりは、「努力が報われる可能性は、高くなってきてる」とは映ってます。尤もそれでも、日本の「受験戦争のえげつなさ」は、他にはそういう社会って、世界広しといえども、韓国くらいじゃない?と伺う感じですが。

 で、「学歴フィルター」「学閥」こそ「日本社会の『最大の闇』」である、と述べましたけど、そう、確かに、地方部、さらには離島でも、そこから現役で(塾・衛星・通信なしで!)難関国立(旧帝大クラス)に受かる子どもはいます(そのような子どもこそ、ガチの「天才」「怪物」「傑物」といえるかなです)。
 でも現実論は、そう、

 「『家庭や地域(特に前者)の経済力で、子どもの【個性】【才能】【可能性】が閉ざされやすい社会』になっていないか?」

 と、とても感じているのです(特に、そもそも論として、「塾・予備校のアドバンテージが大きい教育システム」がまかり通っている社会って、これも「日本・韓国に独特である」と映っている。自分も塾講師の経験があることもあり、塾・衛星・通信は、子どもの理解度の手助けの手段として有意義であるとは思うが、「目的」になっている現況は「激しく強い違和感」を感じてます)。


 特に、とても強い違和感として、「大学受験の費用」がまずあります。 
 (ここ数年でこそ、「いったん社会人になってから、数年してから大学を改めて目指す」道だって全然あっていいじゃん、という道が認識されるようになってきたけど、東日本大震災の以前は「まずあり得ない道」であった。しかもこの道の場合、「新卒一括採用」という名の障壁にどう対応するかの問題があります。
 というか、そう、「中学校・高校(ひいては小学校から)で私立→大学・大学院で私立」がいる一方で、「中学校・高校で公立→家庭や地域の経済力の障壁で、大学進学自体を断念して就職へ」という子どもが、毎年一定数存在しています。理由はシンプルに、「学費・受験費の莫大さの障壁」。

 「大学受験の費用」自体も莫大ですけど、「大学の費用」は、さらに莫大といわざるを得ません。
 特に、国公立の学費。いま、国立大学の年間の学費は、原則「53.5万円」とのことですけど、これでも世界的に見れば高い部類と伺います。
 (ちなみに自分は私立文系。自分の場合、年間の学費は、記憶が正しければ「110万円程度」でした。)

 大学の年間の学費の高さ。それに、大学に掛かる費用は、「表向きの学費」だけではないのです。
 教科書費、通学費、食費。地方部の子どもを中心に、半強制的に下宿・寮になれば、「下宿費・寮費」として一気に跳ね上がります。
 そう、自分の時代は、大学院(主として修士課程)での奨学金利用は、普通にありました。ですけどいまでは、「奨学金の利用」は、「学部時代の時点から」が普通にあると伺います。
 奨学金を利用しないと対応できないほどの「大学の学費の高さ」、これって「絶対におかしい」(というか「狂っている」が、より「すとんと落ちる」感じですが)と映りますけど、この、利用する奨学金、日本の場合、このほとんどが「貸与型奨学金」であるのです。


 この「貸与型奨学金」が、子どもの「個性」「才能」「可能性」を閉ざす、「大きな障壁の1つ」になっていると映ってます。
 そう、「大学の無償化」(少なくとも「国公立大学の無償化」「私立大学を『国公立大学の学費相当分』の減免」は、できるはずかと)及び「給付型奨学金」が叶えば、たくさんの子どもが救われるはずと強く映るのです。

 さらに述べれば、諸外国(特に、北米や欧州)では、「大人になってから、改めて大学院(あるいは学部)で学ぶ人間」が、普通に多くいます。例えば、MLB(野球)やNBA(バスケットボール)の引退後は、「大学で学び直す」を選ぶ人間が、毎年のように一定数います。
 でもこれも、「社会人入学」という制度はありますけど、学部と同様に「学費の高さ」「貸与型奨学金」が障壁になっています。
 その意味でも、「大学の無償化」「給付型奨学金」は、それこそ「最優先に、いますぐにして欲しいこと!」と、声を大にして伝えたいです!



 そう、「家庭や地域による格差」が「程度問題を超えている」
 (資本主義を採用してる以上、程度問題自体は仕方ないかなだが。)
 程度問題を超えている社会は、もううんざり!「その人らしさ」を叶えるチャンス自体はあって欲しい!この1つをとっても、「社会をよりよくできるチャンス」、勿論、市民レベルでこれが叶って欲しいが本音ですけど、より現実的には「国政選挙での決着」、つまり特に「次の衆院選」になってくるのです。




 いま、「子ども食堂」に取り組む高校生・大学生のことの動画を、3つリンク添付させて頂きました。勿論これは、この取り組みにとても共感しているからです。
 そう、自分の子ども・20代のときは、「子ども食堂」がなかったこともあって、自分はまだ「子ども食堂」を実際に訪れたことはありません。

 ただ、これは正直、感覚論の域を出てないのですけど、「子ども食堂」「給食」を必要としている子どもは、自分が想像している以上に、恐らくとても多いんだろうなあと感じているのです。


 いま、都市部では、中学受験が年々増加・激化の傾向が顕著です。
 理由は恐らくいろいろとありますし、関西圏の場合、有力な私立・国立は、その学校名自体が「ブランド化」していることも理由の1つです(それに正直、そういった「有力な私国立の中高一貫校」は「教育環境でより上回る」ことも正直あります)。

 そう、プラスの理由が恐らく大きいかなではあるのですけど、よくも悪くも、「子どもの安全」のために、これも正直あると感じてます。
 「人間関係」「部活動」、これも理由の1つです。学校や地域によっては、「部活動が強制(あるいは半強制)」なことがあると伺いますので。
 自分は「運動が苦手(身体を動かすことはむしろ好きだが、「投げる系統が苦手[実際、ソフトボール投げは「学年最下位争いが定位置」でした]」「泳げない」でした)」「手先が不器用(家庭科、美術は「居残りの常連」。特に裁縫[さいほう]は、級友の手伝いが絶対に必要でした)」でしたので、「部活動が半強制?認められないわぁ」が正直な感じでした。

 ですけど、これは「自分がそうだったから」、なおさらそう感じるのかもですけど、いまでは「小学校のみならず、中学校も給食がある」のです。
 そう、自分の場合、「食べられない食べ物が多い」、これが自分自身をとても苦しめてきました。
 「練り物・魚肉系統(かまぼこ・ちくわ等。故に「おでん」は完全アウト)」「甲殻類(えび・かに・いか)」「わかめ」「サンドイッチ・生ハム」等々。小学校時代、自分にとって給食は「生き地獄」でした。

 ですので、なおさらそう強く感じるのかもですけど、いま、都市部で中学受験が激化の一途の理由の1つに、「子どもにこれ以上、給食で苦しめさせたくない」(あるいは子ども側から「給食から逃れたい」ケースもあるとか)、この理由は正直、とても共感できます。
 そう、特に「アレルギー」、これはもう、どうしようもないんですよ。自分は「卵」「乳製品」は幸運にも大丈夫でしたけど、小学校時代の級友で、ある少女が、「『卵』『乳製品』が完全アウト」でした。給食のとき、悔しさと申し訳なさがとても伝わる表情が、いまでも強烈に印象に残ってます(実際、とても優しい人間でもあった。で、中学受験で私立に進学したと伺ってます)。


 自分もそうですけど、「アレルギー持ち」の子どもにとって、給食は正直「地獄でしかない」。でも一方で、いまでは公立は、(少なくとも関西圏では)中学校でも給食があると伺う。
 そう、理由はシンプルに「家庭の事情的に、給食が必要であるから」(多くは「経済的な理由」であるが、ひとり親・共働き等による「時間的な理由」もあると伺います)。
 給食って、栄養バランスには優れていますし、一定の量もありますから、特に「経済的に苦しい家庭の子ども」にとっては、それ故にとても重宝である存在なんだろうなと想像です。





 こちらは困窮家庭を支援する認定NPO「グッドネーバーズ・ジャパン」が行った「困窮家庭を対象にした調査」です。

 【1日1食または2食以下の子ども】
 給食のある期間:12.7%
 長期休み期間:42.9%

 長期休み期間では給食のある期間と比べ、「1日1食または2食以下の子ども」が3倍近く増えています。「1日1食で子どもが死んでしまわないか怖い」という親からの声も寄せられており、困窮家庭の食生活は本当に深刻な状態です。

 (2024年8月16日、TBS NEWS DIG「“子どもの貧困”夏休み1日1食の子どもたち【news23】」より引用・抜粋。)


 「困窮家庭を対象にした調査」であるので、数字が跳ね上がっている感じは正直ありますけど、それでも、
 「『長期休み期間』で『1日1食または2食以下の子ども』=『42.9%』」
 正直、とてもショックなデータです。感覚的には、「20%~25%程度(40人学級だと、8人~10人程度)の子どもが、長期休み期間になると、食事をまともにできてない」を意味すると解釈してよいからです。

 「給食から解放されたいと、中学受験に血眼になる家庭・子ども」
 「給食がないと、生きる希望を見出せない家庭・子ども」
 →特に都市部では、この2極化が進んでいるってこと?

 勿論、完全に2極化とみなすのは極端な感じもしますけど、「経済的な事情から、高校までは公立がマスト」という子どもは、想像以上にいるんだろうなあ…と、とても考えさせられます。



 実際、いまリンク添付させて頂いた2つの記事は、この8月上旬(夏季休暇期間中でもあった)、記事がアップされると、X(ツイッター)で、とても話題になっていました。
 このことは、「子どもの貧困」が、「自分ごと」と感じている人間、「自分ごと」として直面している人間が想像以上に多くいることを意味しているといえます。


 なんというか、自分がとても強く感じてるのは、人間って、「100人いれば、100通りの個性がある」訳で、これってつまり、「生きるペースがそれぞれに異なるのは、むしろ必然である」と思うんですよね。
 いまは、(特に「東日本大震災」「コロナ危機」もあって、)かつてよりは、例えば「浪人」「休学」に、ある程度は寛容な感じになりつつあるかなではありますけど、「高校を3年」「大学を4年」と、枠にガチガチにあてはめようとする雰囲気も、いまだに結構あります。

 「あなたのペースで全然いいんだよ。最も大切なことは、最終的に『自分らしさ』を叶えることだから。」

 そのような社会であって欲しい。そう、人間がほんとうに輝けてるときって、「自分らしさ」が具現化できているときであると、自分はとても感じていますので。
 「立ち止まって、何かきっかけをつかんだときに改めて歩み出せる」が多い似合ってよいと思いますし、その逆も然り(何か1つ以上、明らかに突出した才能を授かってる子どもは「飛び級」を積極的に選択できる教育システムが導入されて欲しい、と感じてますし。いわゆる「英才教育」「才能伸長教育」も、日本の教育に不足していることだよなあ、と感じてます)。




 ― モデルプレスの読者の中には今、さまざまな不安を抱えている読者がいます。そういった読者に向けて、これまでの人生の中で「悲しみを乗り越えたエピソード」を教えてください。

 高校卒業後、目的もなく大学に進学することに疑問を感じた私は、上京してさまざまな仕事を経験しながら社会人としての経験を積みました。この期間には非常に辛い時期もありましたが、その中で自分のやりたいことを見つけることができました!
 その目標を達成するためには慶應大学への進学が最も効果的であると考え、高校卒業後しばらく経ってからの大学受験には不安もありましたが、決意を持って挑戦しました。そして見事に合格し、就活では、エンジニア・データサイエンティストとしての内定をいただくことができました。

 ― 将来の夢や、目指している進路について教えてください。

 社会人経験を通じて、「人の役に立つ仕事がしたい」と強く感じるようになりました。数学が得意だったこともあり、その論理的思考を活かしてエンジニア・データサイエンティストの道に進むことを決意しました。今後はこの仕事を通じてさまざまな経験を積み、人や社会に貢献できる事業に携わっていきたいと考えています。

 ― モデルプレス読者の中には今、夢を追いかけている読者もたくさんいます。最後に、土川さんの「夢を叶える秘訣」を教えてください。

 夢を叶えるために諦めないこと。もし本当にその夢を実現したいなら、3年でも5年でも10年でも、ずっと頑張り続けることが大事だと思います。私が大学進学を決意したのは23歳の時で、普通の人からするとその時点で大学に進むことはあまりないかもしれません。社長秘書として働き続ける選択肢もありましたが、やりたいことがある以上、その道に進むための努力をし、どうすれば叶えられるか模索しました。結果的に、今後やりたいことの第一段階に到達し、将来の目標に一歩近づけたと感じています。これからも諦めずに自分の理想を追い続けたいと思っています。


 実は、この記事を執筆し始める数日前に、それこそ偶然に、いまリンク添付させて頂いた、「ミス慶應2024」(いわゆる「ミスコン」「ミスキャンパス」)に挑戦している、土川満里奈さんのインタビュー記事に出会いました。
 自分は、いままで、いろいろな「素敵な人間」「強烈な人間」「すごい人間」に出会ってきて、それが刺激になって成長の原動力になってきました。その中でも、「独特の個性・生き方」が伝わる人間は、自分自身の生き方・考え方を拡げ深める大きな一助になってきてますけど、不思議と、(これにあてはまるという意味で)慶應義塾の人間が何人も出会ってきたのです。

 そう、それは、慶應義塾って、私立大学の最高峰といわれてますけど、慶應義塾に到達できることが「どれほど、すさまじくすごいことか」を、とても実感するのです(自分に言わせれば、関関同立だって「到達できることが、とてもすごいこと」と思ってますが)。

 で、この、土川さん。「高校→社会人→大学」です(社会人を5年程度していることになる)。土川さんの場合、「経済的事情」「努力したけど、本番でだめだった」とは異なる理由っぽい感じですけど、苦労を経験した分、適切な表現であるか正直自信がないですけど、表情から「深み」が伝わる感じがあります。






 この2024年、社会的に話題になったことの1つに、「大学受験で『6浪』(浪人を6年間)した経験をした後に、進学先で転機があって、アナウンサーになった人間のこと(原千晶さん)」があって、自分も記事を拝読させて頂いて(記事の拝読がきっかけで、時折ですけどXとかも拝読させて頂いてます)、自分も1人の人間として、とても励みになってますし、原さんのような人間に光が当たることを通して、「この日本社会が、徐々にではあるけど、プラスな方向に歩めているってことなのかな」と、嬉しい気持ちになったことがあります。

 そう、原さんや土川さんのように、「人生は、一本道ではない」を、プラスの意味で示せるロールモデルの人間が、1人でも多く生み出されて欲しい。これが、「単線的・一面的な社会」から「複線的・複眼的な社会」へと進歩できるきっかけになって欲しいと、強く伝えたいのです。



 「政治は、大人は、何もしてくれていない」、自分が小学4年生のときの「阪神淡路大震災」で強烈に抱いた感情と同じようなことを、いま「能登半島地震」で繰り返そうとしていると映ってる。
 その中での選挙、だからこそ、「叶えたい社会像(目指す社会像)」をまず明示して欲しい、それがあってこその「目指す政策」「国家観」であるはずだと。
 そして特に「教育の公的支出の抜本的な大幅増加」がマストであると強く伝えたいし、「社会全体で子どもを育てる社会」の具現化を自分は強く願ってます!


 話を進めましょう。

 「政治は、大人は、何もしてくれていない。」

 実はこの言葉、1995年(当時、小学4年生。西宮[兵庫県]に住んでいた)、「阪神淡路大震災」の被災経験の過程で、自分が子ども心に強烈に心に刻み込まれた想いでした。

 そう、いま、「『1日1食』あるいは『1日2食』でしのいでいる子ども・家庭」の該当者のうちの、少なくない幾分かは、この「政治は、大人は、何もしてくれていない」という想い・感覚を、実感として強く抱いているのでは?と想像するのです。


 そう、実は自分は、1回目の大学時代、「政治学」を学んでいました。それも主として、「選挙」「政党」「圧力団体」が特に関心分野でした。
 なぜ、「政治学」を学ぶことを選んだかというと、理由はいくつかあって、第1は、中学校・高校で特に得意・好きであった分野が「日本史の近現代史」であったから。
 第2に、小学3年生のとき、1993年の衆院選で、自民党は政権を陥落した、つまり「1回目の野党陥落」「55年体制の崩壊」でしたけど、子ども心にとても興奮したことを、いまでも記憶してます。

 そして第3に。「阪神・淡路大震災」の被災経験。当時、避難先(当時は「疎開」という表現をしていましたが)である、八尾(大阪の東側の隣町)の学級の級友や担任教員が、「自分を、まるで最初からいたかのように、オープンに同じ目線で接してくれたこと」がとても嬉しかった一方で、西宮に帰ったら(あるいは報道越しでもだが)、「何も対応してくれていない、ほったらかし」という感覚を、子ども心に強烈に感じたんですよね。
 あのとき自分は、子ども心にですけど、政治に・大人に「同じ目線で」接して欲しかったのだと。でもそれを、全く感じることができなかった。
 心に刻まれた強烈な不信感が、「政治学を学ぶ」ことに向かわせたと、正直強く感じてます。尤も実は、ぎりぎりまで「教育学」とどちらを学ぼうか熟考でもあって、受かった道が政治学だったからでもありますけど。



 そう、「政治は、大人は、何もしてくれていない」「子ども心に、心に刻まれた強烈な不信感」。
 今回のnote記事、冒頭で、「自分が理想としている社会像」「自分が感じてる、人間として大切なこと」そして「社会をよりよくできるために、自分にできることって何だろう?」から導入をスタートさせました。その後で、特に「『家庭や地域(特に前者)の経済力で、子どもの【個性】【才能】【可能性】が閉ざされやすい社会』になっていないか?」を綴りたくて、「子どもの貧困」「子どもの教育費の莫大さ」を中心に綴らせて頂きました。

 これは、「これって絶対におかしいでしょう?」を綴りたかったことは勿論ですけど、この問題を解決するには、結局はどうしても「システム論・制度論」の改善・改良がマスト(絶対条件)になってくる。これはつまり、「政治による解決」がどうしても不可避になるのです。






 いま、この日本社会が抱えている「社会問題」で、解決が必要といえることは、いくつもあります。自分は普段は、スポーツをメインフィールドにしていますけど、これと共に、「子ども・教育」のことを中心に、何らかの「社会問題の解決」の一助になれればということが、そう、「書く」「伝える」でならば、自分の持っている能力という意味で、自分にできることではと考えるから、が正直あります。
 先述の「子どもの貧困・教育システム」も勿論ですし、いまリンク添付させて頂いた、そう、「気候変動・防災」のことも、2022年の参院選のとき(というかそれ以前からではあるのだが)、若い世代が声を上げたのに、政治や社会は「意識高い系」と半ば切り捨てた。

 そもそも、「意識高い系」という言葉がまかり通ってるって、世界広しといえども、恐らく日本くらいでしょう(社会構造・社会文化が近いといわれる韓国でも、若い世代が声を上げる姿勢を、大人も少なくとも「無視はできないな」の感じではあった。特に2017年の韓国の大統領選挙で、文在寅政権が誕生したのは、「若い世代が動かした要素が大きかった」といわれてます)。
 はっきり伝えたい。「意識高い系」という言葉がまかり通るこの日本社会は、絶対に間違っている!と。自分に言わせれば、そういった人間は「意識高い系」ではない、

 「物事を、『自分ごと』として考えようとしているが故である。
 『困っている誰かがいる』、それを放っておけないからが故である。」

 そう、「困っている誰かがいる」、何か自分にできることはないか?と感じるのは、むしろ当然のことでしょう?と思うのです(勿論、「実際にできるかどうかは別として」でもありますけど)。




 自分が、特にずっと尊敬し続けている存在の1つに、「高校生平和大使」及び「高校生1万人署名活動」があります。そう、広島・長崎の高校生を中心に、いまでは全国規模で取り組まれていることです。
 名言といわれてる言葉の1つで、「微力だけど、無力じゃない」がありますけど、この発信源(いまでいう元ネタ)は、この「高校生平和大使」からです。自分もいまでは、とても大切にしている言葉の1つになってます。

 高校生がすることですので、「代替わり」という宿命がありますけど、でも、「理念」は大変わりになってもずっと受け継がれている、というかより深化を続けていると感じてます。そう、それほどに「真摯に真正面から実直に取り組み続けている証明である」と映る訳で、これで「意識高い系」と切り捨てられるならば言ってみいや、と正直感じるのです。


 話を戻して、そう、「気候変動・防災」のことも、2022年の参院選のとき(というかそれ以前からではあるのだが)、若い世代が声を上げたのに、と述べました。気候変動でいえば、まさしく直近のことである「台風10号」。
 プロの名だたる気象予報士でも、「自分の経験上、記憶にない」といわしめた、「迷走台風&巨大化台風」でした(予想進路が、最初は名古屋方面であったのが、最終的には九州南部・西部方面になっただなんて、自分も記憶にないです)。自分は大阪ですけど、この台風10号は、10日間ほどずっと振り回され続けました。
 人的被害は、死者が6人ほどであると伺いますけど、いわば「結果論」(視点を変えれば、大げさなほどに強調したことが「減災」に結び付いたともいえます)でしょう(それと、九州上陸後に一気に弱化したことも「思わぬプラスの誤算」といえます)。
 そう、この「台風10号」という「迷走台風&巨大化台風」も、「気候変動」「異常気象」の誘発が故であると映るのです。「結果的に被害が思ったよりひどくなくてよかったね」で終わらせてはいけないことでは?と。


 それだけではないです。直近の1~2年ほどのことに絞っても、まず最たることが、「能登半島地震」の復興のこと。自分は「能登大震災」と表現できるほどに、地震の規模自体がとても大きい、なぜって「阪神・淡路大震災」「熊本地震」を上回る「マグニチュード」「エネルギー」でしたので、復興は「5年~8年程度のスパン」を覚悟せざるを得ない、と正直感じてます。
 ですけど、この能登大震災、復旧さえまともに進んでいない(特に深刻である珠洲は、多くの地域で5月下旬に断水が解消されましたけど[それでもとても遅いが]、地域によっては断水の解消見込みは「9月下旬~10月」といわれてます)。
 あるいは、倒壊した家屋が未だにそのままという地域も多いと伺いますし、特に深刻なのが、移住を決断せざるを得なかった子どもの多さです。故郷を離れる、友人と別れることを余儀なくされることが、特に子ども年代にとってはどれほど精神的につらく悲しいことかと。

 そう、確かに、この能登大震災の場合、地理的(地形的)な構造上のことで、復旧作業・ボランティアをしようにも、南側からの実質1方向しかないこと、また、ボランティアを受け入れようにも「宿泊のための場所がそもそも不足しているから」という事情も耳にします。
 ですけど、そういったことを考慮しても、「『助けて』と、声なき声を叫んでいる子ども・若い世代が恐らくたくさんいる」のに、「少なくとも、復旧への大きな一歩をしなきゃ」という感じが、ほとんど全く伝わっていないと映るのです。そう、この「能登大震災のこと」1つをとっても、「政治は、何もしてくれていない」、自分が「阪神淡路大震災」で経験したこの強烈な想い・感覚が、まさしく「すとんと落ちる」のです。






 「子どもの貧困・教育費」「能登半島地震への対応」「気候変動」、ここまでで既に3つとりあげてきましたけど、問題は他にもあります。
 この2024年、社会的に特に大きなトピックの1つが、「教員・警察官・公務員(これは国家・地方を問わずです)の、止まらない離職者ペース」があります。この要因はとても複雑ですのでではありますけど、自分は特に、もともとは教員(中学校社会科教員)を志望していましたので、そう、教育者って、「子どもの個性・才能・可能性を育む」「子どもの内面に親身に寄り添える」「子どもと共に学び遊べる」とても素敵な仕事であると思ってますので、この話題はとてもショックが大きいです。

 その一方で、子ども側。近年、特に深刻になっていると感じてるのが、いわゆる「スクールカースト」です。日本の学校の場合、(呼び方は学校により異なるので一概にはいえませんが、)学級のトップとして「級長」あるいは「学級委員」がいます。ですけど実際は、これとは別に「学級に大きな影響力を与える子ども」がいる、これが「スクールカーストの『1軍』」(あるいは「1軍の中の頂点」)です。
 スクールカーストの1軍に嫌われたら、一気に学校での「心の居場所」を失い、「いじめ」の被害者へと突き進むことになる。日本の「いじめ」の陰湿さは、自分は「世界一で酷い」と感じてますけど、「いじめの陰湿化」を誘発する大きな1つが、日本の学校に独特の「スクールカースト」であると映ってるんですよね。
 さらに述べれば、この「スクールカースト」。いま、教員は、例えば「残さず食べなさい」「宿題をしてこないと居残りだから」が事実上使えません、そういったことが重なり、いわば「教員の威厳が事実上封じられつつある」と。で、「スクールカーストの1軍」って、いわば「ずる賢い子ども」が少なくないといわれてます。そう、「スクールカーストの1軍の子ども」の影響力が、恐らくですけど加速度的に大きくなっているのでは?と。

 そう考えると、「教員の離職者ペースの多さ」「都市部における、中学受験の激化」は、この「スクールカーストの影響力が、程度問題を超えようとしていること」と考えると、より「すとんと落ちる」のです(これと「学校給食のこと」「部活動のこと」の3つが、特に大きいのでは?と)。
 (「給与のこと」「労働時間のこと」も、確かに理由の1つかもと思うし、直近の学習指導要領で「詰め込み教育の復活」の方向性にしたことも恐らく大きいと思ってます、でも特に、「子ども、教員の両方に『生きづらさ』を感じる傾向がより強くなってる」要因の大きな1つは、「スクールカーストの深刻化」にあるのでは?と自分は感じてるんですよね。)


 で、この「スクールカースト」が、行き着くところまで行ってる象徴と映るのが、いまリンク添付させて頂いた、2020年11月の「町田のいじめ自殺事件」です。どのようなことかは、リンク添付とかを参照されたしで、いわゆる「ネットいじめ」であるのですけど、自分はこれ、「スクールカースト」の成れの果てでは?と映ってるんですよね。そう。


 「『いじめの陰湿化』『すさまじい受験戦争』『スクールカーストの深刻化』『子どもの貧困』『莫大な教育費』『過度の競争主義的な教育』、これらは(程度の差こそあれ)恐らく相互に連関し合っているのでは?
 そう考えると、『この日本社会での、教育システムに、何らかの大幅な改善・改良が必要である』と映るし、『子どもは社会の鏡』といわれるように、『この日本社会の構造的な闇の象徴』といえるのでは?」


 そう、子どもって、「子どもは社会の宝」「子どもは社会の鏡」、2つの言葉があるのです(後者は「子どもは社会を映す鏡」とも表現されています)。
 いま、子どもをめぐる問題が、いくつもが複合的に起きていることは、子どもだけの問題なのだろうか?と。自分ははっきりと「そうではない。この日本の社会構造、社会文化に、何らかの深い欠陥があるのでは?」と映っているのです。



 で、日本社会の「社会構造の欠陥」でいうと、自分が特にずっと感じていることが、「教育の公的支出の少なさ」です。
 象徴的な1つが、「大学受験~大学教育(高等教育)での、教育費用の莫大さ」です。国公立大学でさえ、年間で50万円以上の学費(それも、表向きの学費だけでですので、実際はプラスで恐らく数十万円が加算になります)、これって結構な負担であると想像するのです。
 それだけではないです。いわゆる「学び直し」がしづらい社会構造、社会文化(人間って本来、「いくつになっても学び続けてこそ、成長し続けられる存在」なのでは?)もですし、かつてより浪人・休学に多少は寛容になりつつあるとはいえ、「浪人」「休学」あるいは「社会人経験を経ての大学受験の挑戦」を恐れる感じが強いのは、「資金的な障壁がとても大きすぎるから」、これってつまり「教育の公的支出が、とても少ないからが故である」と感じてるんですよね。

 そう考えると、「教育の公的支出を高める」ことは、社会をよりよくするために「マスト(絶対条件)である」と強く感じているのです。というか、「社会を構成するのは人間であること」、「人間の成長の営みは教育であること」に照らせば「教育の公的支出の少なさの現況は、絶対におかしい!」と強く感じてます(というか、「おかしい」どころか「狂っている」の表現がより「すとんと落ちる」です)。



 直近の1年~2年程度の事象でだと、「子どものこと」「防災・気候変動のこと」以外にも、いくつもあります。

 「異常なハイパーインフレ・物価高」。自分のいくつかの行きつけの店でも、2年前に比して「20%~50%増し」の感じです。食事を安価で済ませたいときに、工夫の選択肢が減っている感じが、心苦しさがあります。
 「デフレの方がましであったか?」と聞かれたら、現時点では「はい」と即答が、自分の正直な回答です。



 「米騒動(2024年版)」。この表記をさせて頂いてるのは、「米騒動」自体は過去に「1918年」「1993年」と2回起きているからです。
 自分は大阪ですけど、大阪をはじめとする関西圏が、今回の「米騒動(2024年版)」の中心地・震源地でした。特にここ2週間ほどは、スーパーが開店したら、客は一目散に「米の売り場へ直行」の感じになっています(ですので、店側も「1人1点までの制限が付与」になってます)。
 この、今回の「米騒動」が起きた要因は、これも恐らく複合的かなです。
 「異常なほどの酷暑」「南海トラフ臨時情報(実際、これで特に関西圏は明らかにパニック状態になってました)」、この2つも勿論大きな理由でしょう。ですけど自分は、「長期休みにより、子どもを持つ家庭が、『買いだめ』的にコメの確保に動いたため」が大きいのでは?と読んでいます(勿論これも、あくまでも理由の1つにすぎないといえばそうですし、これ自体はいわば「純粋な親心からが故である」の解釈ですけど)。

 ですので、そう、「米騒動」と「子どもの貧困」、これも「少なからずリンクしている」と映ってるんですよね。いえることは、この「米騒動」、確かに関西圏を中心とする都市部で起きていることで、そうではない地域も多いと伺いますけど、現実に深刻に困っている地域がある訳で、それをまるで「他人ごと」のようにふるまう(立ち回る)政治・行政の姿勢。「激しく強い違和感」がないといえば、正直とても嘘になります。



 そう、「子ども・教育の諸問題」「防災・気候変動(特に、能登半島地震への対応の拙さ)」「異常なハイパーインフレ・物価高」「米騒動(関西圏を中心に)」
 いま挙げたいずれのことも、「政治は、大人は、何もしてくれていない」、かつて自分が実際に被災した「阪神淡路大震災」のときに、子ども心に強烈に抱いた想い・感情が、繰り返されている感じになっていないか?と(特に、能登のことは)。



 …そう、この時点で、想像以上にとても長くなっていますけど、「生きづらさ」「社会構造の欠陥・闇」が顕著になってきている中で、いよいよ今秋、というかこの9月に、

 自民党、総裁選挙   (12日木曜日に公示、27日金曜日に投開票)
 立憲民主党、代表選挙 (7日土曜日に公示、23日月曜日に投開票)
 ↓
 衆議院議員選挙(衆院選) (11月中に本番?)
 (11月の日曜日は「3日、10日、17日、24日」。
 10月の11日前後に解散と仮定で、恐らく「11月17日前後」?)

 といわれてるんですよね。そう、自分は、そう遠くないうちに確実にある衆院選は、「2025年7月の、衆参ダブル選挙で完全決着」を、これが最も望ましいと感じてるのですけど、いまの雰囲気的には、「2024年の年内での衆院選」、これでほぼ確定っぽい雰囲気を正直強く感じてます。
 衆院選の投開票日は、遅くても「12月8日?」がタイムリミットといわれてます。これは、年末は「予算編成のための重要な時期」といわれていて、そのために少なくとも2~3週間程度が欲しい、といわれてるからです。




 そう、すでに報道では、社会の話題という意味では、「自民党の総裁選挙」「立憲民主党の代表選挙」、これが中心になっています(尤も、より話題として盛り上がっているのは、「野球のこと」、つまり「NPBのペナントレース、ラスト30試合を切ったこと」「MLBで、大谷翔平は『50本塁打-50盗塁』の金字塔を叶えるのか、ということ[このnote記事の執筆時点では『44本塁打-46盗塁』です]」であるように映ってますけど)。

 そう、そう遠くないうちにある衆院選に向けての決戦が始まった、といえますし、選挙といえば、日本の場合、「マニフェスト」(政権公約)といって、「自分たちは◎◎という政策を掲げて、選挙に臨みます」とする傾向がとても強いです。
 確かに、個別の政策自体は、大切なことです。ですけど自分は、「個別の政策をまず強調すること」に、正直「とても強い違和感」を抱いてます。

 どういうことかと申しますと、


 「『叶えたい社会像(目指す社会像)』をまず明示して欲しい、それがあってこその『目指す政策』『国家観』であるはず。
 そう、野球・バスケットボール・サッカーが、まず『志向するスタイル』を明確に掲げて、その上での『選手編成』『個別具体的な戦術』を描くことが求められるように。
 国民・市民は、『いのちある1人の人間』であること。これに照らせば、『よりその人間が生きやすくできる』ためには、『どのような社会を志向することが、より望ましいのか』が、とても大切なことであるのでは?」


 そう、「まず全体像を示す」(つまり、「叶えたい社会像」を示す)、その上で、「個別具体的な政策を示す」(つまり、「叶えたい社会像」の具現化のために)、これが大切である!と伝えたいのです。

 普通の論説文でも、筆者が「伝えたいこと」がある、で、この「伝えたいこと」により説得力を持たせるために、「個別具体的なことをいくつか示す」、で、ラストで改めて「伝えたいこと」を示す感じであるように。
 そう、日本の政治・選挙の傾向って、「個別具体的な政策の列挙」に終始の感じがとてもあって、では「この党の、この候補者の、叶えたい社会像って何だろう?」が、ほとんど全く伝わらないこと、これがとてももどかしいのです。


 自分は、バスケットボールが大好きで、日本のバスケリーグだと「Bリーグ」(女子だと「Wリーグ」)になりますけど、近年では、バスケ球団のいくつかは、「志向するバスケスタイル」を明確に掲げて、それに沿った選手編成をする球団が増えるようになってきています。

 例えば、「秋田」。秋田の場合は、ずっと同じHCである(前田顕蔵さん。2019年から秋田のHCで、今季で6年目です。途中に、夫人の看病の理由での休養期間を挟んでいますが)こともあり、「秋田のバスケスタイル」は、もうはっきりと明確になっています(前田HCの休養期間中でもスタイルは継続されていたので、はっきりと「秋田のカルチャー」として根付いてると)。
 秋田の場合でだと、「全員攻撃全員守備」、より深く述べますと「『攻撃的な守備』から、ボールを奪取したら『全員で一気にリングに突進する』」がバスケスタイルです。実際、特に他球団に比して「スティール数」「ブロック数」が多いことが特徴になっていますし、いまは他球団も「速いバスケ、走るバスケ」に取り組む球団数が増えた感じですけど、もともとは「攻撃回数をより多く」の球団でもありました。

 「攻撃的な守備」「ボールを持ったら全員で一気に突進」と、明確な特徴を持っていますので、補強ターゲットの選手像も、「合いそうな選手」「そうでなさそうな選手」が、およそは読めることも特徴です。これも、秋田は「志向するバスケスタイルが明確で、これを数年スパンでずっと積み上げ続けているから」の賜物といえるんですよね。
 (尤も秋田は「マーケットサイズの小さい球団」であり、これは「都市としての規模」「球団の純粋な資金力」の両面でそうです。実際にいままでに、移籍市場で有力日本人選手で「最も合いそうな移籍先」として秋田が挙がることが何回かありましたけど、ほとんどの場合で「そもそも必要資金を用意できずに不戦敗or破談」であることも、秋田のある種の「様式美」となっています。でもこれって視点を変えれば「地方球団の星」「プロビンチャの星」であるとも感じていて、秋田って「努力家タイプの選手」がもともと多いのですけど、「努力すればこれほどまでの領域にできるんだぞ」が伝わる感じで、応援球団ではないのですけど、「無意識的に応援したくなる感じ」なんですよね。)


 あるいは、いまの自分がいるのは、東日本大震災での復興支援活動に向き合わせて頂いたから(いくつもの「出会い」「経験」「学び」)と、自分のnote記事では何回も言及させて頂いてますけど、これを通してであった言葉に「叶えたい景色」があります。
 「叶えたい景色」「絶対に貫きたいこと」を明確に持っている人間って、とてもきらきらと輝いて映るんですよね。

 そう、「総裁選(自民党)」、「代表選(立憲民主党)」、そして、恐らく年内にあると思われる「衆院選」で、(自分がどれほど共感できるかは別として、)それぞれの候補者の、そしてそれぞれの党の、掲げる「叶えたい景色」「絶対に貫きたいこと」を、この眼で、この耳で、自分は感じたいのです。


 それと、「個別具体的な政策を列挙する傾向」もですけど、近年、特に耳にするのが、「国家観」を示す重要性の云々です。
 正直な感覚を述べれば、確かに、特に対外的な目線を考えるならば、「国家観」を明確に示すことは確かに重要かなとは思います。ですけど、日本の場合、「国家観」を掲げる重要性の文章・考察って、「排他性」のニュアンスがとても強いと感じてるんですよね(実際、「国家観」を声高に掲げる傾向の強い人間って、日本の場合は「右寄り」「保守」の傾向が正直とても強いですので)。ですので正直に自分は、この「国家観」を明確に示す重要性は、「違和感が全くないといえば、正直嘘になる」があります。

 そう、対外的な目線を考えると、「国家観」を明確に示すことは確かに大切かもしれない。ですけど現実論は、まずは目の前の国民・市民があってこその対外的なことであって(勿論、「ODA活動[政府開発援助]」等のことは積極的に取り組んで欲しいし、それが日本の国家としての長所でもあると思っていますが)、自分たち国民・市民からすれば、まず示して欲しいのは「社会像」なんですよね。
 そう、「目指す社会像」を示してこそ、その次に「目指す国家観」へと進めると思っていて、「社会像を描けずして、何が国家観だ」と、自分は正直感じているのです。


 そう、今回のnote記事で、特に「子どもの貧困」「教育費の莫大さ」に文字数を多く充ててますけど、「教育システムの抜本的な改善」「1学級当たりの人数をいかに少なくできるか(世界基準だと「25人~30人学級」、でも日本はいまだに「40人学級」が基本)」、そして「大学教育、少なくとも国公立大学の実質無償化」を含めての「教育の公的支出の抜本的な大幅増加」が「マスト、マスト、マストである」、そう強く伝えたいのです。

 この「教育の公的支出の抜本的な大幅増加」のためには、大幅な痛みは恐らく不可避でしょう。そう、恐らくおのずと「大幅な増税」になってくると読んでます。
 で、日本の場合、「増税」って「消費税」のほぼ1択なのです。ですけど自分は、
 「消費税を上げることは、確かにやむなしかもしれない。でも『子どものための増税』をするならば、『法人税こそ上げてよ!(特に大企業の法人税こそ!)』。」
 と、とても強く感じているのです。大企業を敵に回すのが怖いからという「圧力」「忖度」の社会は、もうたくさんです!と。

 そう、主体は誰であるのか。社会をより輝かせ得る存在は誰であるのか。
 「子ども」「若い世代」であると、自分は強く思うのです。
 東北で出会った考え・言葉に、「社会全体で子どもを育てる」があって、自分はこの考え方にとても強く共感ですけど、

 「『社会全体で子どもを育てる社会』を、言葉だけで終わらせずに、いまこそこの日本社会が一丸になって、この実現へと取り組めませんか?」

 そう、子どもが「家庭や地域の経済力という障壁で、本音的な志を泣く泣く断念する」(それも、スタートラインに立つことさえできずに)、「『生きづらさ』を感じて、『志』『生きる希望・意欲』自体を持てずにいる」(ひいては進路に悲観して、自死を選ぶケースも)、そのような「マイナスの連鎖」を、もう終わりにしようとできませんか?と自分は思うのです。


 ここでは、自分がどの立場により近いかを明示することはしません。
 (とはいえ、半ば答えを言っているに近いかな、と思ったりですけど。ちなみに自分は、かつての2021年の立憲民主党の代表選挙での、逢坂誠二さんの「人への投資」「人を活かし、人を育てる社会」という考えに、とても共感を抱いた感じでして、もしこのとき、逢坂さんが代表に就くことが叶っていた場合、どんな景色になっていたのだろう?ということは、1人の人間として、とても興味深いというのが正直な本音です。)

 ですけど、「叶えたい社会像」を、この眼で・この耳で聴きたい。だからこそ、より客観的に、よりドライに向き合いたいと感じてますし、たとえ最終的にどのような結果になるにせよ、「主体が『国民・市民』である政治・社会」であって欲しい、これが、自分のいまの正直な想いです。


 いずれにせよ、そう、「どうなるか、みてみよう」が正直な感覚ですけど、これから総裁選・代表選・衆院選で盛り上がっていくであろう現況から(とはいえ、10月になると、野球[NPB]のポストシーズンに突入ですので、そちらの話題でより盛り上がるのかな、と感じたりですけど)、「社会をよりよくできる感じであって欲しいから」ということで、自分がいま正直に感じていることを、この機会に綴らせて頂いた次第です。
 そう、「1人でも多くの子どもが、『自分らしく』生きられる社会」の景色が、叶うことを信じて。


 【社会貢献#9A】【エッセイ#40A】

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