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能登の10代・中高生の卒業式、1人の人間としてささやかなエール(それぞれの素敵な姿勢・言葉に励まされるからこそ!)。【社会貢献】【エッセイ】



 (プロローグ、1)村本咲菜さん(輪島高校3年生)。


 (今回のnote記事は、「自分史上で最も長い」です。ですので、できればPCまたはタブレットでの閲読を強く推奨です。また、乱文的な感じになっていることを、何卒御理解されたしです。)



 「かつての被災者」。自分が歩んできた道で、「最も自分自身を形成していることの1つ」であること。
 そう、自分は「阪神・淡路大震災」に、「小学4年生、西宮(兵庫県)」で実際に被災経験があります(1995年1月17日)。
 で、震災から2か月強ほど、自分は「八尾(大阪府。母方の実家があったため)」に避難生活をしていました。

 (「避難」という表現をしているが、当時は「疎開」という表現でした。実際、震災の翌日に、自宅から、電車が動く区間の最寄り駅である西宮北口駅まで、およそ5kmほどを歩いた[2時間ほど。それも「血混じりの吐き気」をしながら歩いた感じでした]感じでした。
 自分の場合、避難先の小学校の級友や先生が、自分を「転校生扱い」「かわいそうな人間扱い」をせずに、「1人の級友としての扱い」で純粋に接してくれた、そう、自分にオープンに接してくれたのです。
 避難先の級友や先生が、自分を「1人の人間として」接してくれた、それが「優しさ」「思いやり」を大切に生きることを含めて、自分自身の「心の原点」になっています

 なぜ、避難生活をせざるを得なかったかというと、シンプルに
 「ライフライン(特に断水)が止まっていたから」。
 子ども心に、正直最初は、避難は「嫌で嫌でたまらなかった」。
 実は、阪神淡路は「1月17日」でしたが、自分は「同じ西宮の、隣の小学校からの転校生」で、その3学期の始業式(=転校の初日)が「1月9日」でした。で、3学期は避難してからは最後まで避難先の小学校でした。
 ですので、4月、新年度(小学5年生)の初日である始業式。自分は「事実上の転校生としての自己紹介」をすることになった、の経緯を持ちます。

 尤も実は、「被災地」「被災者」という表現は、あまり好みではないのですが(とはいえ、それにとって代わり得る言葉が見つからないですが)。
 いずれにせよ、そう、自分は「かつての被災者」だよ、だから、あなた(今回取り上げる人間を含む「能登半島の子ども[小中高校生]」)の気持ち、共感・理解ができるつもりだよ、寄り添えるつもりだよ、を伝えたい意味で、最初に「かつての被災者」を強調する書き出しをさせて頂いてます。
 その上で、今回の本題へと、話を進めさせて頂きます。



 【(1)村本咲菜さん(輪島高校3年生)】

 「友人や先生たちと歩いた当たり前にあった景色を、いまとなってはしっかりと目に焼き付けておけばよかったと心残りに思います。
 先生方も大変な思いをされていたにも関わらず私たちのために学ぶ環境を用意して下さいましてありがとうございます。
 いま、私たちは先の見えない大変な状況を生きています。校長先生は『大変』という漢字を大きく変わるチャンスだと言い換えています。まさに、今の輪島高校は新しく生まれ変わろうとしています。
 そこを必ず乗り越えるのが『誠実・覇気・努力』という校訓のもとで培った、負けん気のある『輪高生(りんこうせい)』です。
 この輪島高校で得た多くの思い出・学び・誇りを人生の糧とし、共に力強く歩んでいきましょう。」

 (2024年3月1日の卒業式、「卒業生代表としての言葉」より。)

 「ほんとに、みんな元気そうでよかったなと(思いました)。
 教師を目指しているので、いろいろとしてくれた先生方のような先生を目指していきたいと思っています。」
 (卒業式の終了後、インタビューでの言葉より。)



 【(2A)中角春香さん(門前高校3年生)】

 「(マイクの前に立って間もなく、涙が溢れ出る)
 地震が起きた直後、私の頭に浮かんできたことは、学年のみんなや、1,2年生、先生方の安否でした。

 高校生活最後の3学期、当たり前に来ると思っていた3学期、もし叶うのであれば、もう一度みんなと一緒に楽しく授業を受けたかった。『震災前の、あの頃に戻りたいな』。それが、いまの私の正直な気持ちです。
 地震の怖さ、傷、生活の不便さ、まだまだこれからも、大変な日々が続きます。けれども、その日々の先には、きっとたくさんの楽しいこと、嬉しいことが待っているはずです。
 私を含め、みんなの人生はこれからも続いていきます。希望を持って、みんなで助け合いながら、復興に向けて、一歩一歩、前に進んでいきましょう。」

 (2024年3月1日の卒業式、「卒業生としての言葉」より。
 「学年全体で12人」と少人数であることや、「私たちそれぞれの想いを皆さんにお伝えしたい」の理由から、今回は卒業生12人全員による答辞になったとのこと。)


 石川県輪島市の県立門前高校では、全3年生12人がそろって卒業証書を受け取った。それぞれが読み上げた答辞で、中角(なかかど)春香さん(17)は言葉を詰まらせながら、地震で失った日常に思いをはせた。
 3学期は一度も全員そろっての授業がなかった。中角さんは近くの避難所から通学したが、同級生の大半はオンラインでの出席。答辞で「もし叶うならもう一度、みんなで授業を受けたかった。震災前のあの日に戻りたいのが今の正直な気持ちです」と吐露した。

 保育士資格を取るため、親元を離れて県内の短大に進む。地元に戻って働きたかったが、変わり果てた町並みに気持ちが沈むこともある。「町は復興するのか」という気にもなり、働き口が多い金沢市で就職すべきかと悩んでいる。
 それでも、海や山が近く自然豊かな地元が好きだ。最後に、参列した後輩や地域の人々に力強く語りかけた。「みんなの人生はこれからも続いていく。希望を持って助け合いながら、一歩一歩前へ進んでいきましょう」
 (『毎日新聞』2024年3月1日付、「被災地の高校で卒業式 『東京へ』『地元で』それぞれの旅立ち」より。)


 3月1日午前、体育館に並んだ3年生は一人ずつマイクの前に立った。
 中角春香さん(17歳)は、話し始めてすぐ、右手で目頭を押さえた。

 「地震が起きた直後…。私の頭に浮かんできたことは…。学年のみんなや、1,2年生、先生方の安否でした。」

 中角さんは1月1日、自宅団地で被災した。スマホは通じず、友人の安否がわからない不安な日が、続いた。蛇口から水は出ず、今もなお、地元中学校の体育館で避難生活を続けている。
 1月下旬に3週間遅れの始業式があり、少しずつ授業も再開。でも遠方に避難して学校に来られない同級生もいた。無事を確認できても12人はなかなかそろわなかった。

 「高校生活最後の3学期、当たり前に来ると思っていた3学期、もし叶うのであれば、もう一度みんなと一緒に楽しく授業を受けたかった。『震災前の、あの頃に戻りたいな』。それが、いまの私の正直な気持ちです。」

 避難所から高校へ向かう途中にある、慣れ親しんだ地元商店街は家屋や店舗が倒壊し、様変わりした。気持ちは沈んだ。
 輪島から約100km離れた短大へ進学する。夢である保育士になったら地元へ戻ろうと考えていたが、余震への恐怖感が残り、地元を離れたい、という思いも正直芽生えた。それでも涙の後に、答辞の結びで口にしたのは前を向く言葉だった。

 「地震の怖さ、傷、生活の不便さ、まだまだこれからも、大変な日々が続きます。けれども、その日々の先には、きっとたくさんの楽しいこと、嬉しいことが待っているはずです。
 私を含め、みんなの人生はこれからも続いていきます。希望を持って、みんなで助け合いながら、復興に向けて、一歩一歩、前に進んでいきましょう。」

 (『朝日新聞』2024年3月2日付夕刊、「全員そろった、12人の船出 門前高校卒業式、言葉に思いあふれ」より。)



 【(2B)大岩紅葉さん(門前高校3年生)】

 まず、学年のみんなへ。
 
私は、耳が聴こえにくかったので、壁にぶつかることが多かったです。
 
最初は不安ばかりでしたが、そのような中でも、
 
みんなが助けてくれる場面が、数えきれないほどありました。
 
そのおかげで、私は、『耳が聴こえにくくていいんだ』と
 
障がいを持っている自分を大好きになることができました。
 
そして『ありのままの自分』でみんなと仲良くすることができて、嬉しかったです。
 
みんなに出会うことができて、幸せでした。

 総合的な探究の時間では、門前総持寺通り商店街のみなさんと関わらせて頂きました。私はその時間を通して、みなさんの優しさに何度も触れさせて頂きました。そのたびに心から温かくなり、この商店街をこれから先もにぎやかにしていきたいという気持ちになったことを覚えています。

 
地震により、甚大な被害を受けましたが、私の門前を愛する気持ちは変わらず、これからも帰ってくる場所でありたいと思っています。
 
今後も一緒につながって、復興を成し遂げましょう。

 卒業するにあたり、2007年の震災後の卒業式の答辞を読み返しました。


 【いま、日本中は大きく揺れ動いています。
 何を信じ、頼りにすればいいのか。生きる指針が定まりません。
 人間の力が及ばざる災害が起こり、私たちもその恐るべき力の前に伏し、改めて人間という存在の小ささを実感しました。
 そんな不安ばかりが募る日々に、助け合うことの大切さを学び、
 家族や友達とのつながり、絆の強さを再確認しました。
 私たちの前途は、決して容易なものではありません。
 ときには、急な坂道が待ち受け、孤独という文字が襲い掛かってくるかもしれません。そんなとき、この門前高校で育んだ、
 《
規律を守る精神、友情、感謝する気持ち
 を胸に、苦難を乗り越えていく覚悟であります。】


 このように、現代の私たちの時代にも共通する、大事なことが述べられていました。
 私たちも、先輩方と同じ決意をし、未来に向かい旅立とうと思います。
 この学び舎での3年間は、私たちの誇りです。
 長い間、ありがとうございました。」

 (2024年3月1日の卒業式、「卒業生としての言葉」より。
 【】で表記したのは、「2007年の震災後の卒業式の答辞」での言葉。)


 輪島市の門前高校3年の大岩紅葉さん(18)は地震発生後、白山市の親戚宅に避難した。両親や祖父母は被災した自宅に残り、中学生の妹は集団避難で離ればなれに。「周りの人たちと一緒にいられる時間の大切さを再確認した」と語る。
 生まれつき耳が聞こえづらい大岩さんは「将来は障害を持つ子どもたちと関わりたい」と、金沢市内の大学の教育学部に進学する。「いろいろな人と出会い、たくさん楽しい時間を過ごしたい」。送り出してくれる家族への感謝を胸に、新たな一歩を踏み出す
 (『時事通信』2024年3月1日付、「人を大切に」「元に戻ると信じて」 高校生、被災地で新たな門出―感謝や希望胸に卒業・能登地震」より。)


 大岩紅葉さん(18歳)は、ふるさとへの思いを口にした。

 「私の門前を愛する気持ちは変わらず、これからも帰ってくる場所でありたいと思っています。」

 地震が起きたのは、大学受験まで2週間を切った頃。障害がある子どもの支援に関わりたいと、受験勉強をしていた。
 市内は混乱が続いていた。母の瑞枝さん(44歳)は、「普通の環境で受験させたい」と2日後の1月3日、紅葉さんと妹を約100km離れた同県白山市の親戚宅へ送り出した。この日は紅葉さんの18歳の誕生日。親戚が祝ってくれ、不安は和らいだ。「合格して家族や同級生、地域のみんなに喜んでもらいたい」とふるさとを離れても勉強を続け、金沢大に合格した。

 紅葉さんには聴覚障害がある。苦労は多かったし、高校入学時も不安ばかり。そんなとき、同級生11人が助けてくれた。障害がある自分を受け入れ、大好きになった。

 「ありのままの自分で、みんなと仲良くできて、うれしかったです。みんなと出会うことができて、幸せでした。」
 (『朝日新聞』2024年3月2日付夕刊、「全員そろった、12人の船出 門前高校卒業式、言葉に思いあふれ」より。)



 今回のnote記事。前回と同様に、「社会」についてのことがテーマです。
 自分のより本来の得意テーマである「スポーツ」(バスケットボール、野球など)のことは、次回以降で綴れれば、のイメージでいます。
 というか実は、バスケットボールのことを1つ綴ろうと構想していましたけど、「筆が大スランプに陥った」んですよね。

 「書く」「伝える」で生きていくと心に決めて、いまでちょうど2年。
 しかも自分、実はこの8月で「40歳」の大台です。
 「ああ、自分自身が情けない」、正直、気持ち的に落ち込んでました。

 いよいよ3月。ここから2か月ほどが、例年特に忙しい時期になる。
 (理由の幾分かは、バスケットボールのBリーグが「RS(レギュラーシーズン)の終盤になるから」である訳ですが。RSの試合数の半分を過ぎる(=折り返し点を過ぎる)になると、「気持ち的により『盛り上がりの度合いが高まる』」からなんですよね。)

 それに、あと少しすれば、「3月11日」が来る(というか、アップのときは「3月11日」を過ぎますし、今回のnote記事は「自分史上で、最も長い文章量」になりますが)。
 自分にとって、「永遠に特別な日」が、いくつか存在しています。


 1月17日(「阪神・淡路大震災」。自分は「小学4年生、西宮」で被災でした。「阪神淡路の被災経験」が、「いじめ」と共に、自分自身の人生の「心の原点」になってます。
 中学校の卒業後に、大阪[現在もそう]に転居しましたが、いまでも2年に1回程度のペースで「1月17日」当日に神戸を訪れるようにしてますし、当日に訪れるが叶わない場合でも、毎年、何らかの形で神戸を訪れる、阪神淡路のことに真正面から向き合う機会を持つことを意識的に心掛けてます。)

 2月1日(中学受験、大学受験で失敗した日。自分が住む関西圏では、例年、いわゆる「関関同立」の関西大学・関西学院大学の一般入試の本番開幕日がこの日である。
 野球のキャンプインの日でもあるが、「悔しさも、自分自身の心の原点の1つだから」の想いをも込めて、2年前、note開始日をこの日に選んだ。)

 3月11日(「東日本大震災」。当日、自分は「大学に入り直す(2回目の大学生。尤も通信制ですが)」ための諸手続きに充てていた中で、大阪でも「ゆーらゆーら」と3分ほど揺れました。
 で、「ことの大きさ」を突き付けられたのが、19時の「NHKニュース7」、トップニュースでの「閖上(宮城県名取市)の津波の映像」。
 当時、偶然にも自分は、まさしく阪急梅田駅の「ビッグマン」にいて(当時はビッグマンは「ニュース7」を流していた)、で、「何かしたい、いやしなければ」、でも「どうすればよいのかわからない」で悶えてました。
 で、震災から半年後の「2011年9月」、当時の自分は27歳、初めて東北を訪れました[南三陸・石巻]。2週間、このときの衝撃[特に、1日オフを頂いたときの、南三陸の景色、とりわけ「鉄道ファン」である自分的には、歌津駅の「ひしゃげた姿」と、防災庁舎の姿がとても衝撃的でした]もですし、これをきっかけとした「東北に向き合う過程での、いくつもの学びと出会い」が、自分自身の「生き方・価値観」をがらりと変えました。
 で、東北には、「2015年3月」まで、延べ10回訪れました。
 特に2015年3月の、「国連防災世界会議」のセッションの1つ、「日本ユース会議」に参加できたこと[年齢制限的にギリギリでした]は、「人生で最高に濃密な時間」であり、とりわけ「心の財産」になってます。)





 (←後述で言及する、大岩紅葉さんの「卒業式での挨拶」の際に言及されてた「2007年の能登半島地震」(2007年3月25日、マグニチュード6.9)。
 人的被害自体は「死者1人」であったが、ライフライン、交通では大きな影響があり、また余震が長く続き、いわば「見た目の数字以上に大きな影響」があったことが伺えます。)


 (←周期的なサイクルがあるとはいえませんが、能登半島では「直近の30年強で4回」、大きな地震に遭った「悲しい歴史」があります。
 2007年の地震を少し言及しましたが、直近の30年強で「1993年」「2007年」「2023年」、そして「2024年(今回)」と、「30年強で4回の大きな地震」に遭ってきたことになります。
 マグニチュードで考えると、上述の4回になりますけど、「震度6弱以上」を基準に考えると、「2022年」もカウントされます。
 そう、直近で「2022年6月」「2023年5月」「2024年1月(今回)」と、「直近の1年半で3回の大きな地震」に遭ってきたことになります。)






 「1月17日」、「阪神・淡路大震災」の被災経験が、自分自身にとっての「心の原点」であることを、冒頭でも言及させて頂いてますし、いままでもこれからも、阪神淡路のことは、綴ることになるかなと感じてます。

 で、今年も、「3月11日」があと数日でやってきます。
 いまは、「関西(地元)から東北に向き合う」感じですけど、今年も「3月11日」は、京都の「きっかけ食堂」(どういう存在かは、リンクを参照されたしです)で迎える予定です。


 で、「筆が進まない悔しさ」に悶える中で、今回の執筆テーマである、
 「能登の高校での、卒業式」のニュースが入ってきました。
 3月1日、いわば「一斉に開催」だったんだねと。




 で、前回のnote記事でも、「2つの震災」、そう、
 「能登半島地震」「東日本大震災」に関係することを、綴りました。

 正直自分は、今回の「能登半島地震」、規模的に「『阪神・淡路大震災』『熊本地震』のおよそ3倍のエネルギー」といわれていること、そして、地域に与えた「あまりにも大きい爪痕」を考慮すると、

 『地震』という規模で済んでないでしょう?なぜ『震災』と命名できないの?えげつない状況になってるの、わからないですか?

 そう、自分は正直、「能登大震災」(どのような表現がより望ましいかはともかくとして、ではありますが)という表現が、より「すとんと落ちる」と強く感じてます。
 能登の震災のこと、NHKや大新聞(全国紙)ベースでは、連日大きく取り上げられていて、NHKの「ニュース7」「おはよう日本」では、基本的に「トップニュース」あるいは「2~3番目」では必ず扱われてます。

 ですけど、「社会的な関心事」という意味では、これは前回のnote記事でも言及させて頂いてますけど、「まるで他人事だよなあ…」の雰囲気を強く感じていて、

 「物事を『自分ごと』として考える。」

 「その人の立場になって想像して考える。」

 自分が、「東北での学び・出会い」を通して学んだことの1つに、いま挙げた2つのことがありますけど、
 「能登のことを『自分ごと』としてとらえられている人間は、あまりいない感じにとどまっているのでは…?」
 という「漠然とした強い違和感」が、自分の中では正直あります。

 いま、自分は大阪に住んでいますが、より厳密には



 いま住んでいる地理的には、そう、まさしく「あべのハルカス」がある「天王寺」の方向でして、仕事場はまさしく「天王寺」です(というか、「あべのハルカス」も仕事場の1つになってます。いまの自分の働き方は「フリーランス」ですので)。
 子ども時代は、いまこうして「景色がきれいな高層ビル」とか「繁華街に近接しているカフェ」とかで仕事をすることを、全く想像していなかったですので(というか自分、「教員志望」でしたので)、人生って不思議だな、と改めて感じてます。


 いま、「東日本大震災」「あべのハルカス」について言及させて頂きましたので、この機会に、取り上げたいことがあってと。



毎年の3月上旬に、
「あべのハルカス近鉄本店」の「ウイング館9階、催会場」で
「東北展」(名称はその時々で変わるが)が開催されてます。
で、自分は毎年、この東北展を楽しみにしていて、
今年(2024年)も「2月28日水曜日~3月5日火曜日」に開催でした。



「ずんだシェイク」。東北を訪れる際、
とりわけ「仙台駅を訪れる際」(基本的に、東北から関西に帰るときが多いが)、
この「ずんだシェイク」がとても楽しみでした。
独特の甘い食感。そう、「ずんだ餅」が苦手である自分的にはなおさら、
この「ずんだシェイク」は「宮城を、東北を感じられる存在」として「とても貴重」!
で、この「ずんだシェイク」、毎年3月の「東北展」で、
ほぼ必ず出店してるんですよね。もちろん今回も、飲ませて頂きました。
ありがとうございます、とても感謝です。



毎年3月の「東北展」で、自分が
「1人の人間として」、とりわけ「楽しみにしてる」こと。
それが「高校生百貨店」さんです。
もとになっているのは「いしのまきカフェ『』」(かぎかっこ)さん。
いまは、「高校生百貨店」と、装いを新たに活動してます。
東北の高校生は勿論ですけど、このことのみならず、
趣旨に共感した関西の高校生が、こうして活動する姿。
自分自身、「とても感動」で、「生きる勇気」をもらえますし、
平和活動に取り組む高校生(「高校生平和大使」とか)の言葉に
「微力だけど、無力じゃない」という名言がありますが、
まさしくこれを体現・実践してる、「とても素敵な活動」です。
これからもずっと、応援しています!



いまリンク添付させて頂いた2枚は、
「高校生百貨店」の歩みのパネルです。
自分が、「1人の人間として、生きる勇気をもらえているよ、ありがとう」
と感じていることは、先述させて頂いてますけど、
活動している高校生も、活動を通して、
想像以上に「成長を遂げる」ことが伝わります。
とりわけ、「みずきさん」「ゆらさん」の言葉、心をとても揺さぶる感じですし、
直近の「きわさん」、そうだよ、気付いてなかったかもだけど、
「誰かの役に立ちたい!」と強く感じていたんだよ、
それが、誰かの心に届き、そして「きわさんを大きく成長させた」ことが伝わる、
拝読させて頂いて、とても心に響きます。
そういえば、「みずきさん」の熱意は、2018年、印象的で記憶に残ってますが、
あれから6年、いまどうしているかな、「自己実現」に近付けているかなと。
自分も微力ながらですけど、こつこつと努力、と改めて感じてます。



 (←いま言及させて頂いた「高校生百貨店」の子ども。
 自分も実際、「石巻ふりかけ」「花かつお」を購入させて頂きました。
 「ふりかけチャーハン」にすると、これが美味しいんですよ。
 ちなみに、「高校生百貨店」、この動画で登場する少女とは別の少女かなですが、長い髪を1つ結びですけど、「シュシュで結んでいた」のです[勿論、制服姿。ちなみに恐らく公立高校です]。
 自分の中学校~高校時代[1997年~2003年]だと、公立でシュシュは、「恐らくまず校則に抵触だろう」の時代でしたので、なおさら、「その人らしさを尊重する学校、校則でよかったなあ」と、心が温まる気持ちです。
 ちなみに自分は、私立[上宮]でした。いまは共学になったこともあり、校風が結構変化したと伺いますが、自分のときは「ザ・管理主義」[当時は男子校]、そう、自分が大好きな野球でいう「森祇晶監督の西武」「落合博満監督の中日」の感じでしたので[自分の場合、この校風で「得たことも失ったことも両方あると思ってる、でも『責任感・正義感の強い性格形成の意味では、恐らくプラスであった』とは思ってる]、そう思うとなおさら、シュシュを見て[しかも、とても似合っている!]、嬉しい気持ちでした。)







 そう、いま言及させて頂いた、「あべのハルカス」での「高校生百貨店」の取り組みは、自分がささやかながら、ずっと応援させて頂いていることの1つです。
 かくいう自分が、東北を訪れていたとき、最も訪れた場所の1つが「石巻」だったんですよね、で、「いしのまきカフェ『』(かぎかっこ)」も実際に訪れたことがあって。ですので、「」(かぎかっこ)さんは、自分にとっては「特別な存在」の1つであることも、正直影響しています。


 で、前回のnote記事で言及させて頂いた、


 この、「地域みらい留学365」を活用して能登高校で学んでいた少女(あおいさん)が、現高2、つまり「1学年年下」。



 で、気仙沼で探究活動や語り部活動に励んできた少女(岩槻佳桜さん)が、現高3(記事の当時では高2)、つまり、今回取り上げる「能登の卒業生」と「同学年」になります。
 しかもこれ、後述で言及させて頂きますけど、この、佳桜さんと、(最初に「2人目の挨拶」で言及させて頂いている)門前高校の、中角春香さん、「同じ学年、同じ『被災経験者』、そして同じ『保育士志望』」です。

 東北に向き合い続けてきた過程で、「世界・社会は、なんととても広いんだ!」と学ばせて頂きましたけど、その一方で、「世界・社会は、『広い』でも『狭い』でもある」と学ぶ感じですし、そう、「保育士・幼稚園教諭」は「いつの時代でも必要不可欠な仕事・職業」であると改めて感じます。
 (で、近年は、保育園と幼稚園を合体させた「子ども園」が徐々に普及しつつあることも、考慮になってくるかなです。)





 で、今回の「最大の本題」は、「能登の高校生の卒業式の言葉」、及びそこから派生しての「高校生への励ましの想い(エール)」です。
 よりメインは、門前高校の2人ですが、まず、「輪島高校の卒業生代表、村本咲菜さん」から、話を始めます。
 (…って、この時点で既に、文字数が結構な感じになっていますが。)



 (「0:31~0:40」が、卒業生代表の、村本咲菜さんの答辞。
 冒頭で示させて頂いた「咲菜さんの答辞」は、この動画、あるいはNHKのニュース動画、それと他の記事を総合しての文面になっています。)




 まず取り上げるのは、輪島高校の、村本咲菜さん。
 (校長先生の言葉もとても素敵ですけど、これについては、NHKの記事等の添付リンクを参照されたしです。)
 「教員志望」とのことで、ショートカットがより凛々しさを引き立てて映える感じですけど、


 「先生方も大変な思いをされていたにも関わらず私たちのために学ぶ環境を用意して下さいましてありがとうございます。」

 これに思いを馳せられる、この「想像力」自体が、とても素敵なこと。
 さすがは「卒業生代表に選ばれる」人間である、「見習いたい」と強く感じます。

 「(この逆境を)必ず乗り越えるのが『誠実・覇気・努力』という校訓のもとで培った、負けん気のある『輪高生(りんこうせい)』です。」

 NHKの「おはよう日本」でのニュースで、この部分、聴かせて頂きましたけど、とても説得力を感じて、そう、「誠実・覇気・努力」、これは、能登の震災の復旧・復興に向けての「キーフレーズ」の1つになり得る、そう強く感じたんですよね。

 で、咲菜さん、実に「はきはきしている」のです。尤も、答辞を務めるにあたっては、「嬉しい」と「緊張する」が複雑に交錯であったかな、と想像の感じですけど。
 他者(相手)の立場を想像できる咲菜さんならば、

 「能登をよりよくする一助になれる、子どもの特徴・長所を伸ばせる先生に、きっとなれるよ!応援しているよ!」

 と伝えたくて、簡単にですけど、まず、咲菜さんのことを取り上げさせて頂いた感じです。



 (2)中角春香さん(門前高校3年生)。


 では、今回のnote記事の「最大のメイン」である、門前高校の2人、そう、「中角春香さん(保育士志望)」「大岩紅葉さん(教員志望)」の言葉についてのことへと、話を進めます。



 (←今回の「最大のメイン」として取り上げる、「門前高校の卒業式」、卒業生12人全員による答辞。「全員による答辞」という異例の形の実現は、シンプルに「学年の人数が12人という少人数」も理由の1つですが、
 「私たちがそれぞれが感じ、考えていることを皆さんにお伝えしたいという思いから」が最大の理由とのことです。
 [ちなみに「3学年全体でだと85人」とのことなので、単純計算で「1,2年生で73人[およそ37人ほど]」。]
 「2:17~3:02」が中角春香さんの答辞
 「8:38~11:16」が大岩紅葉さんの答辞です。
 今回取り上げるのは2人ですが、12人それぞれの言葉に、実際に動画を是非とも聴いて欲しいと思ってますけど、文字だけでは表現し切れない、「それぞれの真心」「ありのままの感情」が伝わります。
 だからこそ今回、「応援の気持ち」を込めて、「どうしても伝えたい!」と感じたので、綴ることにしたのです。)





 (←各種リンク添付の記事。「7つ目、8つ目」は「門前高校のHPから」です。特に、「1つ目~4つ目」は、『朝日新聞』の記事である訳ですが…。)



今回の最大のメイン、「門前高校の卒業式」。
なんと、『朝日新聞』の1面だったのです。
写真の1枚目。『朝日新聞』2024年3月2日付朝刊1面。
で、紙面の中の写真は、泣きながら答辞を読む「中角春香さん」です。
この姿に、とても感動で。で、他のいくつかの記事をも併せて拝読と、
3月2日の朝の『おはよう日本』6時台での、輪島高校の卒業式のこと。
これらを踏まえて、今回のnote記事の執筆を決断したのです。
で、この朝刊、及び、先程にリンク添付させて頂いた、
『中日新聞』さんのYouTube動画(門前高校の卒業式、12人の答辞)、
自分は、心をとても強く揺さぶられて。
ですので、「応援の気持ちを伝えたい!」と思って、だったのですけど、
まさか、この朝刊だけで終わらないとは、思っていなかったのです。



写真の2枚目。『朝日新聞』2024年3月2日付夕刊1面。
そう、「門前高校の卒業式」、この夕刊でより多くのスペースが!
写真、卒業式を終えて退場する列、前から2人目が「大岩紅葉さん」。
「紅葉」と書いて「もみじ」と読むとのこと。
後述でより掘り下げますが、春香さんにも「励まされる」「応援したくなる」ですけど、
この、
紅葉さん、「人間として、自分がとても見習いたい」
この夕刊、あるいは他の記事もですけど、これを拝読すればするほど、
自分が紅葉さんの立場だとして、周りの理解や優しさも勿論ですけど、
紅葉さん自身の「逆境に屈しない姿勢や心掛け方」に、
「ささやかながらだけど、ずっと応援し続けたいです!」
これが、今回のnote記事の執筆の最大の理由です。
それと、この「門前高校の12人」、
能登の震災から◎年後、どう成長したかを含めて、
その成長の軌跡(社会として、能登の復興を応援する意味でも!)を、
是非とも報道し続けて欲しいです!と強く御要望の想いです!



 では、話を進めさせて頂くにあたって、改めて、
 「中角春香さん(保育士志望。短大に進学)」
 「大岩紅葉さん(教員志望。金沢大学に進学)」
 の、卒業式での挨拶の言葉(答辞)を、綴らせて頂きます。




写真の3枚目。「今回のトップ画像の候補であった1枚目」でもあります。
そう、今回のnote記事の執筆の大きな理由になった写真。
そう、「中角春香さん」の「溢れ出る涙」。
とても感動で、心を揺さぶられたんですよね。
「級友・先生・親御さんへの感謝」。「離れたくない寂しさ」。
「大好きな門前が壊れてしまった悲しさ・悔しさ」。
「自分は門前にこれから貢献できるのかなという不安感」。
いろいろな想いが複雑に交錯して、それで涙が溢れ出てきたのかな、と想像で。
不適切な表現ならばごめんなさいですけど、自分は正直、この1枚、
いままで出会った写真の中でも「奇跡の1枚」と強く感じてます(即答レベルで!)。
自分の中では、「奇跡の1枚」といわれたら、この写真をイメージし続けるだろうと。
春香さんの「溢れ出る涙」は、「級友が、門前が大好きだからこそ」!
だからこそ「門前で保育士として貢献できるとき」を信じて待ってるから!
この「応援の気持ち」をどうしても伝えたい、が今回のnote記事執筆の大きな理由の1つです!



 【(2A)中角春香さん(門前高校3年生)】

 「(マイクの前に立って間もなく、涙が溢れ出る)
 地震が起きた直後、私の頭に浮かんできたことは、学年のみんなや、1,2年生、先生方の安否でした。
 高校生活最後の3学期、当たり前に来ると思っていた3学期、もし叶うのであれば、もう一度みんなと一緒に楽しく授業を受けたかった。『震災前の、あの頃に戻りたいな』。それが、いまの私の正直な気持ちです。
 地震の怖さ、傷、生活の不便さ、まだまだこれからも、大変な日々が続きます。けれども、その日々の先には、きっとたくさんの楽しいこと、嬉しいことが待っているはずです。
 私を含め、みんなの人生はこれからも続いていきます。希望を持って、みんなで助け合いながら、復興に向けて、一歩一歩、前に進んでいきましょう。」


 まず、春香さんから。

 朝日新聞の1面での、及び、中日新聞の動画、春香さんのその涙、その言葉に、心をとても揺さぶられました。そう感じるのは、自分が春香さんの立場であると想像したときに、自分もそうだったかもなあと感じるからも、正直あるかなです。

 きっと、本能的に溢れ出てきたんだよね。そう、それは、心が何らかの反応をしたからこそでは?と。

 余震による揺れ、怖いよね。自分だって、阪神淡路から29年が経った現在でも、「ちょっとした揺れ」でも「怖い!」と、「身体が本能的に反応します」。



 ちょっとした揺れ、自分の場合でだと「震度3」程度でも、身体が「ガタッ」の「ガ」の時点で「敏感に反応する」ですし、
 テレビ、特にNHKの「緊急地震速報」の独特の音、「ポーン、ポーン、ポーン、ポーン」という音がありますけど、この「ポーン」の1回目の音の時点で、「怖い!」と「敏感に反応する」になります。そう、とっさに本能的に、「頭を抱えなきゃ」になるのです。

 この「本能的に『怖い!』となる現象」、「フラッシュバック」と呼ぶとのことです。
 自分は、(小学4年生、西宮での)阪神淡路の被災経験で、「誰かの、社会の役に立ちたい」が自分自身の「生きる心の原動力」になっている感じで、「防災」のことは、「1人の人間として」の「ずっと向き合い続けたいこと」であり続けています。
 ですけど、そのような自分でも、「『揺れ』は『怖い』」のです。そしてこの「揺れに対する、極端なほどの怖い気持ち」は、恐らく「これからもずっと消えない」と感じてます。



 尤もこれは、自分の場合は、「フラッシュバック」に加えて、自分って、極端な「怖がりな性格」なんですよね、特に「この世で最も苦手なこと」の1つが、「注射」でして。
 あるじゃないですか、「予防接種」、そう、「インフルエンザ」や「コロナ」の予防接種(ワクチン)が。自分は、毎年欠かさず予防接種を受けていますけど(中学生のときからずっと)、もう、注射が「超がいくつもつくほどに、大の苦手」で。
 で、注射って、実は打つとすぐに終わるのです、恐らく5秒あるかないか?の感じですけど、もう、大人になったいまでも、注射は「怖くて怖くてたまらない」んですよ。

 で、なぜ自分は、注射が怖いんだろう?と。その理由が、ずっとわからなかったのです。理由がわかるようになったのは、実は、一昨年(2022年、38歳)のとき。
 そう、自分の場合、「怖い」の正体は、「針が怖い」だったんだ!と。
 そう考えると、不思議と「すとんと落ちる」だったんですよね。

 そう、「針が怖い」、いま思えば、自分って、子ども時代、最も大嫌いだった教科が「家庭科」、とりわけ「さいほう(裁縫)」でした。
 ただでさえ、「手先が不器用」(この不器用さも、「超がいくつも付くほど」のレベルでです)であるのに、針をさわると、すさまじいほどの恐怖感に襲われるのです。で、「なおさらできなくなる」でした。


 「針が怖い」、それ故に、「注射が怖い」になっていたんだと。
 「揺れが怖い」も、「針が怖い」に相通ずると、自分は感じてます。
 では、なぜ「揺れが怖い」「針が怖い」のか?


 「揺れが怖い」「針が怖い」という心理。
 =「死にたくない!」(=「生きたい!」)という心理では?


 そう、「揺れ」も「針」も、「命(いのち)」を失うリスクがあるから。
 「命を失いたくない」=「死にたくない」=「生きたい」。
 それは「自分には、『やりたいこと』『やり残していること』があるから」、だから、いま死ぬ訳にはいかない

 ですので、春香ちゃんに、まず特に伝えたいこととして、

 「『揺れが怖い』『余震が怖い』という気持ちは、『全然恥ずかしいことではない』んだよ、それほどに『生きたい!』気持ちが人一倍強いことの証明であるが故なんだよ!
 だからなおさら、『春香ちゃんらしく』生きていいんだよ!」

 と伝えたいのです。



 で、そう、マイクの前に立つなり、「涙が溢れ出てきた」こと。
 自分は、この涙、「真心が生み出した涙」と感じて、だからこそ「とても感動」で、春香さんのことを「ささやかながらだけど、応援したいです!」と感じたのですけど、そう、あのときの「涙」って、

 その涙には、きっと意味があるんだよ!春香ちゃんの心が、きっと何かを伝えようとしていた、訴え掛けようとしていたからだよ!

 と想像するんですよね。


 「人間には、それぞれに『使命』『役割』がある。」

 自分が出会った言葉の中で、とても考えさせられる言葉の1つが、これです。


 「『使命感』を持ち続けられる、体現・遂行し続けられる人間こそ、『プロ意識』の持ち主といえる。」

 自分が「尊敬できる」人間って、「プロ意識」の強い人間、「仕事に対する使命感」の強い人間である傾向が強い、と感じてます。
 そう、シンプルに、「プロ意識の持ち主」「使命感の持ち主」って、「人間としてとても素敵である」と感じてるんですよね。



 で、春香さんの涙。それって「恐らく」の域を出ない感じですけど、

 (1)「仲間が好き、みんなが好きだから。」
 →「同じ空間で机を並べ続けた、言葉を交わし続けた仲間が、『この11人』であることが嬉しかったから。」

 (2)「故郷が好きだから。」
 →「ずっと自分自身を育ててくれた故郷(輪島、門前)に愛着があるから。」


 同じ空間で机を並べた仲間と、心を通わせられること。
 これって、「当たり前ではない」と思ってるんですよね。

 なぜって?自分自身の高校2,3年生は(私立の中高一貫校でしたけど)、

 「学校史上で恐らくワースト1の『落ちこぼれ学級』」
 「問題児が10人くらいは混ざっていた」
 「自分自身が、問題児の数人から『いじめ』られていた」
 「(3年生のときは)担任教員と折り合いが最悪だった」

 もう、思い出したくもない。ですので、「『青春』に飢える」大きな要因になりました。
 で、自分がずっと欲し続けた「心の青春」は、大学に入り直す(2回目の大学時代)、というか「東北に向き合い、いくつもの『生きた学び』『出会い』を叶えた」、「27歳以降」まで待つことになりました。
 ですので、そう、とても申し訳ないのですけど、「東日本大震災」は、

 「『自分が自分でいていいんだ』という意味で、『命を救ってくれた』。
 東北の震災がなければ、自分は『身を投げていた』かもしれない。
 そう、『いくつもの犠牲』と引き換えに、自分は自分を取り戻せた。」

 どれほど「ごめんなさい」といっても伝え足りない、が正直な感覚です。
 でもこれが、正直な感じ。それほどに、「青春に飢える」の「精神的なダメージ」は大きかったのです。

 ですので、「素敵な仲間に恵まれた」「『志』に出会えた、叶えた」子どものことに出会うと、自分のことのようにとても嬉しい気持ちになるのです。



 で、先述で、「使命」「役割」について、少し言及させて頂いてますけど、僭越な感じになることを覚悟の上で綴りますけど、


 「春香ちゃんに与えられた『使命』って、『最終的には門前に帰る』ことではないかなあ?」
 (教員の場合は異動がある訳で、「能登地域のどこか」の感じになると想像ですけど、恐らくですけど、保育所・幼稚園ならば「門前・輪島地域」を希望すれば、より叶う可能性が高いと想像になるので。)


 志望する職業の特性上、物理的に「故郷に帰る」「故郷で務める」ができない場合ならばともかく、「保育士を志望」であるならば、「故郷で務めることは可能である」こと。
 そう、

 (1)「短大を出て、(保育士の)国家試験をクリアできれば、すぐに門前に帰る」
 (2)「国家試験をクリアしたあと、外の場所(門前、能登地域から離れた場所。例えば金沢、加賀地域とか)で数年間、経験やスキルを積み上げた上で、それを活かす感じで門前に帰る」


 『誰かがやらなければいけないこと』がある。これが『その人個人がやらなくても、別の個人で替えが効く』であれば、『最終的に門前に帰る』でなくてもよいかもしれない。でも恐らく、そうではないでしょう?」


 そう、春香さんには、「最終的には、『門前で務める』使命がある」と思うよ!と伝えたい、それはなぜか。


 「東北は、『課題先進地』である。」

 「東日本大震災」の復興の過程で、東北(宮城、岩手、福島)について、この「課題先進地」という表現が、いつしか語られるようになりました。
 この「課題先進地」。そう、自分が主として向き合ってきた場所、あるいはかかわりを持ってきた人間でだと、「宮城(南三陸、石巻、女川、気仙沼、仙台)」になりますが、「宮城が直面している課題」は、「宮城に特有の課題」も勿論ありますけど、「いずれそう遠くないうちに、日本のどこかが直面する課題」あるいは「潜在的に既に、日本のどこかで直面している課題、それが宮城では顕在化していること」である、というニュアンスで語られてきた感じです。


 阪神淡路大震災(10年)
 東日本大震災(?[現在進行形])
 熊本地震(5年)


 1つは、「『見た目の都市の復興』のスピード」です。
 「都市の復興の『大枠』が叶ったとき」としてカウントしています。



 「阪神淡路」の場合、「復興の象徴」として挙げられているのが、

 「人と防災未来センター」(2002年4月。7年3か月)
 「阪急西宮ガーデンズ」(2008年11月。13年10か月)

 先程、「大枠」という意味で「10年」と表現させて頂きましたけど、「阪急西宮ガーデンズ」(この施設が「1つの街」のような感じ。「ガーデンズだけで、結構なパーセンテージの買い物を完結できる」とイメージ頂ければです)の完成まで「14年弱」を要しています。
 裏を返せば、「14年弱」(勿論、ガーデンズの建設・完成の過程で、ガーデンズがある「西宮北口駅の周辺」は、「ほぼ全面的な再開発」が決行されてます)の時間を要したのは、「都市を大幅に再開発する」ために必要であったから、ともいえます。



 実は、この「西宮北口」、自分にとっては「思い出深い場所の1つ」でもあります。買い物や塾で、とてもお世話になりましたので。
 尤も、「復興のためのほぼ全面的な再開発」と述べましたけど、駅の「北西地区」である、いわゆる「塾銀座」のゾーンは、実は震災前といまとで、大枠的な変化はあまりなかったりしますが。
 (そしてこの「塾銀座」こそ、自分が中学受験のときに通っていたゾーンでもあります。)


 「阪神淡路」の復興の大枠が、事実上完成した(1つのステージに到達できた)といえるまで「14年弱」。
 この「14年弱」、「都市を大幅に再開発する」ために必要であったからともいえる、と先述させて頂きましたけど、でも、「震災のときに生まれたら、中学3年生」という計算になる、正直これ、子どもの目線では、「とても果てしなく長い時間(と労力)」であった、といえます。
 「去らざるを得なかった」、かくいう自分がそうです、阪神淡路から5年後に、自分は家庭の事情で、西宮から大阪へと去っています。でも自分にとっては、これまでもこれからも永遠に、「『心の故郷』=『西宮』」であり続ける、ととても強く感じてます。


 あるいは、都市の規模という意味で参考になり得るのが、「熊本」ですけど、これで「およそ5年」です。
 ですけど、今回の「能登」は、震災の規模という意味で、(揺れの強さという)数字上だけでも「およそ3倍~5倍」といわれてます。いまはまだ「復旧」のステージですが、この「復旧」だけでも、阪神淡路や東北(岩手、宮城)を上回る困難さに直面していることが、報道越しにですが伝わります。

 そう、10代、高校生にとって、「(推定で)これから5年+α」って、とても長く感じるよね、1年でもとても長く感じるんだから。
 だから、春香ちゃんが「不安感を抱く」、自分が春香ちゃんの立場でも、そう感じるでしょうから。ましてや阪神淡路では、前例が事実上なかった感じですから、なおさら不安感でしたので。




 いま、リンク添付をさせて頂いた、宮城の4つの地域。
 このうち、「石巻」「南三陸」「気仙沼」の3つは、「市町村合併」を経て、震災当時(及びそれ以降)の都市形成になった「歴史的経緯」です。


 (←いわゆる「市町村合併」を取り上げている記事。「平成の大合併」も、この記事で言及されてます。)


 そう、震災から半年後(2011年9月が、初めての東北でした。「南三陸、石巻」です)、東北を訪れるにあたって、勿論、ある程度は事前の下調べはしてきたつもりでしたけど、実際に訪れると、想像以上の「カルチャーショック」でした。

 「雄勝」「北上」。「志津川」「歌津」。
 え?ここって、「石巻」「南三陸」だよね?と。
 そう、いずれも「合併前の街の名称」です。実際、特に石巻に至っては、報道でも公然と「石巻市雄勝町」「石巻市北上町」呼びなんですよ。


 「課題先進地」。東北に向き合う過程で突き付けられたことは、それこそ「たくさんある」が正直な感じです。
 東北を訪れて、自分的に最も衝撃であったのが、

 「電車の本数」→「1時間に1本もない」(石巻線、気仙沼線)

 これが自分には、特にとても衝撃でした。



 自分が、中学3年生までずっと利用し続けてきた、「阪急甲陽線」。
 駅の数、わずか「3駅」(中間駅が1駅のみ)。
 電車は「3両編成」。で、「単線」。
 「地域の生活路線」って感じで、自分はこの独特の「ローカル線」感が、ずっと大好きです。

 で、この「甲陽線」。いまは「10分間隔」(1時間に6本)ですが、自分が住んでいるときは「15分間隔」(1時間に4本)でした。
 で、関西圏に住んでいると、長くても「30分間隔」(1時間に2本)なんですよ。で、ほとんどの場合は、「15~20分間隔」(1時間に3~4本)は確保されている。

 尤も、関西圏に住む自分でも、「東京、関東圏は、正直羨ましいなあ」と感じてもいました。
 なぜって?「電車の本数」もですけど、「選べる学校の選択肢の数」「応援したい地元のスポーツチームの選択肢の数」「生鑑賞したいコンサート・ライブの選択肢の数」、これらで関東圏は関西圏をより上回るから。


 ですけど、です。東北を訪れる、東北に向き合う過程で、「直面したこと」「目の当たりにしたこと」は、

 「自分が住んでいる関西圏でも、環境的には恵まれている部類なんだろうなあ、ということ。」

 でした。

 「電車の本数が、1時間に1本もない地域が、普通に存在する」。

 「通学できる学校、診察してもらう病院の選択肢自体が、おのずと限られてる」。

 「塾という選択肢も、ないに等しい。大きな本屋もない」。
 (塾のこと云々は、近年では「衛星教育」「通信教育」が普及してきて、多少は改善されてるとのことですが。)

 「スポーツの生観戦、コンサートの生鑑賞、映画鑑賞自体が、仙台に行かないとできない」。

 「どこで買い物って?あるところで」。
 (釜石や石巻のように「ショッピングモールがある」地域もあるが、基本的にはない。で、石巻は「市の面積自体が広い」ので、ショッピングモールまで物理的に遠い地域はどうしているのか?の問題があります。)




 いま、このnoteの文章、「あべのハルカス」で綴ってます。
 そこに、昨夏(2023年7月)、「17階」に、「(実質的な)コワーキングスペース」ができたのです。「自習室」という表現もできるかなです。
 中高生から、年配の人間まで、いろいろな人間が集ってます。
 正直、「とても刺激をもらえている」、これって「当たり前ではない、とても感謝なこと」と実感しています。


 だからこそなおさら、とても考えさせられるのです。



 で、東北(特に宮城)の被災地(復興地)って、「市町村合併を繰り返してきた歴史」と述べました。それ故に、見た目の「地理・面積」が広いのです。でも一方で、
 「学校、病院の選択肢が限られてる」「大きな本屋、ショッピングモールがほとんどない」「スポーツ、音楽、映画は仙台まで出ないと無理」
 そういった問題を「構造的に抱えている」から、

 「『過疎化・空洞化・少子高齢化』のリスク」

 これに、おのずと向き合うことになります。


 で、いまリンク添付させて頂いたように、今回の「能登半島」、今回の主要な場所を抜粋させて頂くと、

 ☆中能登町
 ☆七尾市
 穴水町

 ☆※輪島市(旧門前町もここに該当)
 ☆※能登町(能登高校はここに該当)

 ※珠洲市

 主要な6市町のうち、「☆」印で表記させて頂いた4市町が、「市町村合併を経て、現在の都市になった」に該当の市町です。
 しかも、「※」印で表記させて頂いた「輪島市」「能登町」「珠洲市」の3市町は、「かつて、のと鉄道の路線があったが、2000年代に廃止されて、現在は鉄道路線自体がない」に該当の市町です。
 (後述で言及しますが、「旧門前町」に至っては、「かつて、のと鉄道の路線があった時代でも、のと鉄道の路線自体が通っていなかった」です。)




 「鉄道がない」。自分は実は、スポーツ(野球、バスケットボール、サッカー、陸上など。尤も「観る専」ですけど)と共に、鉄道も大好き(鉄道ファン)ですので、なおさら、「鉄道がない」がとても衝撃でした。
 2011年9月~2015年3月、延べ10回、東北を訪れて、しばらく「区切りをつけていた」後に、2019年9月、改めて東北を訪れる機会を得て、そこで「BRT(柳津~志津川~気仙沼~盛。盛~釜石~鵜住居は「三陸鉄道のリアス線」を利用)」に乗らせて頂いたのですけど、最初は、「鉄道ではないこと」に、寂しさが正直あったのです。
 ですけど、いざ実際にBRTに乗ると、鉄道よりも「コンパクトで、運行本数を増やせてる」である訳で、

 「このBRTという方法、勿論『ケースバイケース』ではあるけど、地方部の『過疎化リスクの克服の一助』になり得るケースもあるかもなあ。」

 と感じたんですよね。で、この「気仙沼線のBRT」の場合、特に高校の「朝の登校、夕方の下校の時間帯に、意識的に運行本数を増やせてる」メリットが伝わります。
 尤も一方で、このBRTが「南三陸・気仙沼地域が抱える問題」の克服に対する根本的な解決といえるかは「NO」かもしれませんけど、でも、「一定程度の一助にはなっている」と映る感じでもあります。

 で、能登の場合、現時点で「穴水より北側、北東側」は、「鉄道もBRTも全くのゼロ」である訳です。鉄道が現実的ではないことがはっきりしているならばなおさら、「BRT」(専用道を設ける)は「地域全体で検討する」意義はあるのでは?と正直感じます。







 (←いま示させて頂いた3つは、「東北で活動する高校生に関係するnoteページ」。「気仙沼探究LOG」は「まるオフィス」「ナミカゼ」のことと解釈して頂ければのイメージです。)


 (←東北で、子ども自身が活動する大きな後押しになっているのが、毎年3月にある「全国高校生マイプロジェクトアワード」[通称「マイプロ」]です[カタリバさんが主宰]。イメージ的には「ラブライブ、高校野球を社会活動版にした感じ」です。自分はこの取り組み、「社会の、子どもの『可能性』」を感じる、とても素敵な取り組みと感じてるんですよね。)


 (←アショカジャパンさんの「ユースベンチャラー」。コロナ前、自分は何回も、この「アショカジャパン」さんの集まりに参加させて頂いてきました[専ら「聴かせて頂く側」でしたが]。
 「マイプロ」と共に、正直「全国には、すごい10代、高校生、大学生がたくさんいるんだ」と、「生きる希望、生きる勇気、刺激」をもらえる感じなんですよね。)



 「能登は、東北と同様に、『課題先進地』である」、より深く述べれば、「過疎化、少子高齢化、空洞化のリスク」を抱えている、と述べました。
 より厳密に述べれば、これは東北に向き合う過程で学んだことですけど、

 東北は、震災以前から『潜在的に、課題先進地であった』。
 この『構造的に抱え続けてきた課題』が『震災で、顕在化された』。

 これであるように映ってるんですよね。
 「顕在化された」は「あぶり出された」と言い換えると、より伝わるかもです。


 で、そのような感じですけど、実は東北、特に「岩手」「宮城の北部」では、子ども(主として高校生)自身が活動・行動を起こしている「希望の光」が起き始めています。


 宮古(「みやっこベース」)
 大槌(「大槌臨学舎」「復興研究会」「マイプロジェクト」)
 釜石(「語り部活動」[「夢団」など])
 (←「いのちをつなぐ未来館」という震災伝承施設の開館も後押しになった感が。)

 気仙沼(「語り部活動」「まるオフィス」「底上げ」「ナミカゼ」「マイプロジェクト」)
 (←「語り部活動」は、「震災遺構・伝承館」という震災伝承施設の開館が後押しに。実際、語り部には中学生もいます。また、「気仙沼独自のマイプロジェクト」があるなど、宮古、大槌と共に「子どもによる活動が特に盛んな地域」といえます。
 で、宮城には「多賀城高校」という「災害科学科」[2016年に開設。兵庫の舞子高校の「環境防災科」がモデルになっている]がある学校があるのですが、「災害科学科」を設けていない気仙沼がむしろ目立つという「逆転現象」になっています。)
 女川(「女川向学館」「女川いのちの石碑」「マイプロジェクト」)


 こうして、東北で「子どもが実際に活動、行動を起こす」になった(できた)のは、勿論、「大人の力を借りた」「何かから影響を受けた」要素も少なからずあるかなです。ですけど、「課題先進地」のピンチから、「突破口を切り拓こう」とするヒントになってることは、伝わるかなの感じです。

 阪神淡路の場合は、都市部でしたし、最終的には「もともと持っている都市としての能力で押し切れた」感じはあります。というか、復興の象徴の1つといわれている「阪急西宮ガーデンズ」「西宮北口駅周辺の再開発」は、結局は「西宮市」「阪急」が持つ「ブランド力でゴリ押し切った」と解釈できますから。

 そう、都市部は、いわば「資源がある」ので、「活動を起こし得る人間」は「潜在的にいる」訳です(尤もこれを「後押しできる環境」に身を置けるかは、また別問題である感じですが。「親御さんの理解」も影響してきますので)。

 ですけど、「岩手」「宮城の北部」は、都市部に比してだと「資源がある」訳ではない。そのような中で、「活動を起こす子ども」を生み出せること、そして、子ども自身は勿論ですけど、「子どもの『挑戦したい気持ち』」を「応援・理解できる親御さん」が、とても素敵だなと感じます。



 で、話が想像以上に膨らんでいますけど、

 『誰かがやらなければいけないこと』がある。これが『その人個人がやらなくても、別の個人で替えが効く』であれば、『最終的に門前に帰る』でなくてもよいかもしれない。でも恐らく、そうではないでしょう?」

 ここから話が膨らむ感じになり、改めてこの「誰かがやらなければいけないこと」に、話を戻す感じになります。


 「能登」=「課題先進地」=「『過疎化・空洞化』のリスク」

 これに言及してきた訳ですけど、そう、東北の場合でだと、「活力が生み出されつつある」地域が現れてきていることは嬉しいことですけど、「そうではない」地域も、正直あるかなです。

 そう、例えば、気仙沼1つをとっても、「活力ある地域」にするために、地域の人間が「どれほどの努力を積み上げてきたか」、恐らく「すさまじいエネルギー」であったと想像です。



 で、恥ずかしながら、今回の能登の震災で、能登のことを調べる過程で、輪島と門前は、もともとは別の町であったと学びました。
 (「2006年」に「輪島と門前が合併」。門前は、輪島の西側の地域だが、「のと鉄道」が輪島まであった時期の時点でさえ「鉄道のない地域」であったとのこと。)

 そう考えると、門前は、「活力ある地域」を取り戻せるには、想像以上に大きなハードルと想像になります。
 (輪島は「名前自体は知られている」「輪島塗という切り札がある」の理由で、「何とかしよう」の動きになる可能性はより高いし、能登町は「『能登高校の、地域みらい留学』の灯を消してはいけない」の理由から、これも「何とかしよう」の動きにとても説得力になり得る。その意味で門前は「有利な要素が、少なくとも現時点ではない」になってしまう。)


 「1学年で12人、3学年で85人」。
 少人数は「絆をより深められる」意味で、「プラスであることもある」とも思いますが、「地域の活力」の意味でいえば、「ハードルはより高くなる」と考えざるを得ません。
 で、少人数ですので、おのずと「マンパワー自体に、限りがある」になります。しかも、門前は輪島の「事実上の分校地域」であると伺います。

 都市部は勿論、「(ある程度以上の)活力ある地域」になれば、「なり手が存在する」、そう、
 「Aという人間が『故郷で務める』を望まなくても、『故郷で務めたい』を望むBという人間がいる、という可能性がより高い。」
 になります(きつい表現が許されるならば、「あなたの替えは効く」ともいえます)。ですが、門前の場合、現況でだと恐らく、


 「Aという人間(春香ちゃん)が『故郷で務める』を望まない場合、『故郷で務めたい』を望む別のBという人間が見つかる、という可能性は恐らく高くない(低い)」。


 残酷な表現で、「ごめんなさい」の想いですけど、そう、

 「恐らくだけど、春香ちゃんの『替えは効かない』と考えざるを得ないんじゃないかなあ?」

 と想像するのです。


 ここで伝えたいのは、「『最終的には、門前に帰る』が、春香ちゃんに与えられた使命といえるのではないかなあ?」ということですけど、でも、誤解して欲しくないのは、

 (1)「短大を出て、(保育士の)国家試験をクリアできれば、すぐに門前に帰る」
 (2)「国家試験をクリアしたあと、外の場所(門前、能登地域から離れた場所。例えば金沢、加賀地域とか)で数年間、経験やスキルを積み上げた上で、それを活かす感じで門前に帰る」


 いま、「心のテーブル」にある道(選択肢)は「2つ」ある訳です。
 (1)と(2)、「春香ちゃんの人生は、春香ちゃん自身が切り拓くことだよ」になります。いえることは、

 『自分(春香ちゃん)自身にとって、より後悔しない道』であるのか、『春香ちゃん自身にとっての最適解』を見つけられる、短大生活の時間に絶対にして欲しいです!
 少なくとも、『揺れ、余震が怖いから』とか、『マイナスな理由』で最適解を決めて欲しくない、たとえどんな決断(結論)を導き出すにせよ、その決断は『より後悔しないと思える理由』『よりプラスな理由』の上であって欲しいです!

 このことを、「声を大にして」伝えたいんですよね。
 勿論、「春香ちゃんを応援しているからだよ!」が故であって、「こういう考えもあるよ」のニュアンスで解釈して頂ければ、ではありますが。


 そう、「最終的には、門前に帰る、門前に携わる」であって欲しい、なぜって「故郷(門前)が好きなんでしょう?より後悔して欲しくないから!」と伝えたい訳ですけど、どのような「答え(結論)」を導き出すにせよ、それが、「どんな批判をされようとも、自分自身にとっての最適解はこれだから」と、自信を持って「自分の答えはこうだよ」と思える感じであって欲しい
 この想いを込めて、まず、「卒業後、しばらく別の場所で経験を積んだ側」の実例を示すことから、はじめます。




 いま、リンク添付させて頂いた、島越彩香さん(宮古市)。
 (「彩香」と書いて「さやか」と読みます。いまは結婚して「八島」姓になってます。ですのでここでは「八島さん」表記にさせて頂きます。)
 自分もお会いさせて頂いたことがありますが、この、八島さん、歩んできた道としては、

 高校2年生で、宮古の教育団体「みやっこベース」に出会い、自分自身が大きく成長できる「きっかけ」になった。
 ↓
 「地域活動」「まちづくり」という「生きる軸」に出会えた。
 で、大学では仙台の大学へ(2014年。宮城大学。公立の大学です)。
 (この時点では「卒業後は宮古に帰る、宮古に携わる」意向だった。)
 ↓
 大学で学ぶ過程で、「最終的には宮古に帰る意向だけど、だからこそ、別の場所(丸森町[宮城の南部]→仙台)で経験やスキルを積もうと。
 どのタイミングで宮古に帰るかは、「タイミングが来たら」のイメージ。
 (「宮古からよその場所に行って、そこで学び感じたことを、いつか宮古に還元できるように、『こういう生き方もあるんだよ』という『ロールモデルの1つに』と思っていた。)
 ↓
 で、大学卒業から4年(2022年)、宮古に帰る決断を。自分を育ててくれた「みやっこベース」のスタッフになり、現在に至る。


 (←このリンク添付の時点では、仙台に身を置きながら、リモートで宮古に携わることになった時期になる。この1年後、正式に宮古にUターンすることになるが、「コロナによる社会の変化」も影響したとのこと。八島さんの場合は、それが「プラスの意味で」といえるかなですが。)



 そう、いわば、八島さんの場合は、「大学卒業後すぐに、宮古に帰らずに、別の場所で経験を積む」決断は間違ってなかったケース、といえます。
 そう、「揺れが怖いから」「何もない場所でいることが不安だから」という「後ろ向きな理由」で決めて欲しくない。短大を卒業後に、すぐに門前に帰らずに、別の場所で経験を積む場合、その理由は「より心の引き出しを増やしたい、視野を拡げ深めたい、それにより別の場所で学び感じたことを、いつか門前に帰るときに還元する」ためであって欲しい!ということを伝えたくて、それで取り上げさせて頂いた感じです。

 そう、「歩んでいく道」に、「絶対的な正解」はないのです。
 「最終的に門前に帰る、でもまずは別の場所で経験を積む」道を決断する場合、「門前に帰るタイミング」は、それこそ「先のことはわからない、こればかりは『ご縁』だから」で全然よいと思うのです(いまとりあげた八島さんの場合、「いつかそう遠くないうちに、宮古に帰るが叶えば」以上のことは考えていなかったとのこと)。

 もう少し、話を進めます。






 春香さんが志している「保育士」という意味で、

 相馬市(荒春菜さん)[大学卒業後、すぐには福島に帰らずに、最初は神奈川で保育士(のキャリア)を始めた。だけどコロナ禍をきっかけに、「自分はほんとうは地元にいつか帰りたいんだ」と気付いて、それで相馬に帰って、現在に至る。いまは「自分を育てた相馬に恩返しを」が仕事の原動力の1つであるとのこと。]
 大槌町(木村紅秋さん)[大学卒業後、すぐに大槌に帰って、子ども園に努めている〈実際、「保育教諭」と紹介されてる。つまり「保育士」「幼稚園教諭」両方の資格持ちということ〉。地元でキャリアを積む理由の1つに「好きなことでもある、民謡にかかわれるから」とのこと。いわば「自分も子どもも、共に志を追いかける」生き方といえる。]

 より細かいことは、それぞれの動画を参照されたし、の感じですけど、2人それぞれにとても素敵だなと強く感じます。


 そう、ですので、繰り返しになりますけど、春香ちゃんには、「最終的には、門前に帰る、門前に携わる」であって欲しい、でも、「短大を卒業後、『すぐに門前に帰る』にせよ、『最初は外の場所でキャリアを始める』にせよ、『よりプラスな理由』による決断」であって欲しいこと。
 「どんな批判をされようとも、自分自身にとっての最適解はこれだから」と、自信を持って「自分の答えはこうだよ」と思える感じであって欲しい。これをどうしても強調して伝えたくて、スペースを多く充てたのです。

 「揺れ、余震が怖い」、自分だってそうです。「先生だって、ほんとうは揺れが怖いんだ」、それってむしろ人間らしくて、より親近感があっていいじゃない、と。
 いずれにせよ、「短大での2年間」を、「春香ちゃん自身にとっての最適解を導き出すための時間」と思って、後悔のないように、より実りある短大生活をして欲しい!、と強く伝えたいです。



 (3)大岩紅葉さん(門前高校3年生)。


 【(2B)大岩紅葉さん(門前高校3年生)】

 まず、学年のみんなへ。
 
私は、耳が聴こえにくかったので、壁にぶつかることが多かったです。
 
最初は不安ばかりでしたが、そのような中でも、
 
みんなが助けてくれる場面が、数えきれないほどありました。
 
そのおかげで、私は、『耳が聴こえにくくていいんだ』と
 
障がいを持っている自分を大好きになることができました。
 
そして『ありのままの自分』でみんなと仲良くすることができて、嬉しかったです。
 
みんなに出会うことができて、幸せでした。

 総合的な探究の時間では、門前総持寺通り商店街のみなさんと関わらせて頂きました。私はその時間を通して、みなさんの優しさに何度も触れさせて頂きました。そのたびに心から温かくなり、この商店街をこれから先もにぎやかにしていきたいという気持ちになったことを覚えています。

 地震により、甚大な被害を受けましたが、私の門前を愛する気持ちは変わらず、これからも帰ってくる場所でありたいと思っています。
 今後も一緒につながって、復興を成し遂げましょう。

 卒業するにあたり、2007年の震災後の卒業式の答辞を読み返しました。

 【いま、日本中は大きく揺れ動いています。
 何を信じ、頼りにすればいいのか。生きる指針が定まりません。
 人間の力が及ばざる災害が起こり、私たちもその恐るべき力の前に伏し、改めて人間という存在の小ささを実感しました。
 そんな不安ばかりが募る日々に、助け合うことの大切さを学び、
 家族や友達とのつながり、絆の強さを再確認しました。
 私たちの前途は、決して容易なものではありません。
 ときには、急な坂道が待ち受け、孤独という文字が襲い掛かってくるかもしれません。そんなとき、この門前高校で育んだ、
 《
規律を守る精神、友情、感謝する気持ち
 を胸に、苦難を乗り越えていく覚悟であります。】


 このように、現代の私たちの時代にも共通する、大事なことが述べられていました。
 私たちも、先輩方と同じ決意をし、未来に向かい旅立とうと思います。
 この学び舎での3年間は、私たちの誇りです。
 長い間、ありがとうございました。」


 (【】で表記したのは、「2007年の震災後の卒業式の答辞」での言葉。)


 (←「門前高校の卒業式」、卒業生12人全員による答辞。
 「8:38~11:16」が大岩紅葉さんの答辞です。)









写真の4枚目。「今回のトップ画像の候補であった2枚目」でもあります。
答辞を読む、大岩紅葉さん。リンク添付の動画も併せて参照されたしですが、
とても堂々とした姿勢が伝わります。
実はこのnote記事を執筆の過程で、門前高校のHP、拝読させて頂きました。
入学当初は「恐らく、最後に入場してきた?」の感じだったのが、
2年生で生徒会副会長を務めるなど、大きな成長を遂げて、
最終的には「模範篤行者」「卒業式の列の先頭」「答辞のラスト」、
しかも「推薦で、地元の国立大学(金沢大学)への進学を叶えた」、
いわば「この学年のエース(中心人物)」へと上り詰めた。
そう、「この11人の級友、及び先生方に出会えたから、自分は想像以上の成長を遂げた」。
きっと、門前の級友は、あなたに出会えたことをとても嬉しく思っているはずだよ!
だから、あなたが「志」を叶える(=教員を叶える)ことを、とても応援してるはず!
だからこそ、まずは「実りある大学生活」に絶対にして欲しい!
これからの成長、温かく応援の想いです!



 最初に述べます。「生まれつき、耳が聴こえにくい」ということを考慮せずに、シンプルに、紅葉さんを「1人の人間として」です。

 『優しい心』『温かい心』及び『強い心』の持ち主。いわば『勇気の人』であると映る。
 自分が同級生の立場だったら、紅葉さんと同じ学級で学べたこと、『自分も紅葉ちゃんも共に成長し合えそう』と伝わる、『こんなに素敵な級友がいるんだよ!』と、とても強く感じる存在に映る。


 いま、まずリンク添付をさせて頂いた、卒業式の答辞の言葉。
 「目を閉じて、じっくりと聴いて欲しいです」と伝えたいですけど、そしたら、きっと気付くかなです。

 「普通に、引っ掛かりがない感じで、滑らかに言葉が奏でられている。
 『耳が聴こえにくい』って、ぱっと聞く限りではそう感じない声。」

 少なくとも、自分はそう感じます。というか、今回のnote記事のテーマを選んだ理由として、「能登のことに向き合う一環として」も勿論あるのですけど、とりわけ、この紅葉さんに「心をとても揺さぶられた」から、「紅葉さんへの、門前の12人の卒業生への、応援の気持ちを、どうしても伝えたい!」、これがとても大きかったのです。





 自分が「尊敬できると思える1人」に、「後藤佑季さん(NHKのアナウンサー)」がいます。
 「あ、東京五輪(パラ五輪を含む)のときに聴いた!」という人間も、少なからずいるのでは?と想像です(いまの立ち位置的には、「記者兼務に近いアナウンサー」と解釈ですが、むしろ後藤さんの特徴・長所を活かす感じで素敵だなと映ってます)。
 この、後藤さん、生まれつきの聴覚障がい者です、そのため「人工内耳」を着用しているとのことです。
 ですけど、声に少し引っ掛かりはありますが、後藤さんの声を聴いて感じるのは、「この人って、『魂の人』だよなあ」と、「自分が励まされる」のです。
 「生きる姿勢」「生き方」に、尊敬できる・見習いたい、そう強く感じてるんですよね。






 で、紅葉さん。まず、耳が聴こえにくい人間に生まれたことに、「悔しい」思いを、いままで何回もしてきたのでは?と想像です。直面した逆境・困難が、恐らく人一倍あったのでは?とも想像です。
 特別支援学校から、高校入学のタイミングで普通学校に進学した、それでいま、『聲の形』(ヒロインが高校入学のタイミングで普通学校に進学することからです)をリンク添付させて頂いてますし、あるいは視点を変えての意味で、『二十四の瞳』(元の趣旨は「平和の大切さを伝える」意味でですが、「地方に生きる子ども」を描いてもいます)をも連想の感じです。

 で、特別支援学校から、高校入学のタイミングで普通学校に進学した、恐らくとても大きな挑戦であったと想像です。
 で、門前高校で出会った11人の級友。「自分を特別扱いせずに、純粋に1人の人間として接してくれた」、どれほどとても嬉しかっただろうと想像すると、自分もとても心が温かくなります。

 というのも、いまの自分の「最大の心の原点」が、「阪神・淡路大震災」の被災で小学4年生のとき、「西宮→八尾(大阪府)」に2か月強ほど避難を余儀なくされたとき、八尾の級友は自分を「転校生扱い」「かわいそうな人扱い」せずに、「純粋に1人の人間として、まるで最初から学級にいたかのように、オープンに接してくれた」のです。それが自分自身の「優しさ、思いやりを第一義に大切にする生き方」を心掛けることにつながってますし、「自分を特別扱いせずに、純粋に1人の人間として接してくれた」ことのすばらしさを、自分自身が身を以て実体験してますので。


 そう、紅葉さんから感じるのは、何事にも持てる全力を尽くそうとできる「努力の人」であること、逆境・困難を成長の原動力に昇華できる「勇気の人」であること、とても素敵で応援したい!と感じるのです。



 で、最終的には、「模範篤行者」(学校の生徒の模範[お手本、ロールモデル]といえる存在)として表彰されて、12人全員による答辞では「トリ」(陸上でいうアンカー、最終走者。つまり最も大きな役割)を務めるまでに成長を遂げた。で、推薦で地元の国立大学(金沢大学)への進学を叶えた(「推薦で国立大学」って、「とってもすごいこと」!つまり、一定以上の成績は勿論だが、「人間性を兼ね備えている」ことの証明といえる)。
 どれほどとても努力を積み上げたかが、伝わります。


 うまく言葉に落とし込めないのが、正直もどかしい感じで、ですので、形容する表現が不適切であったらごめんなさい、と前置きした上での感じになりますけど、

 「『耳が聴こえにくい』という『生まれながらの逆境』を、『補って余りある資質能力』を、『人一倍のすさまじい努力』で身に付けたといえる。
 それが紅葉さんの場合は、『やると決めたら、最後まで諦めずに粘り強く取り組める姿勢』『人間(相手)の心の機敏(気持ち)をより強く感じ取れる、人一倍の感受性の豊かさ・鋭さ』であるといえる。
 いわば『逆境に負けずに、できる全力を尽くせる、【昨日の自分より今日の自分】と心掛けられる姿勢』、1人の人間として、とても見習いたい。」

 と、自分には映ってるんですよね。





 少し話を脱線させますが、自分にとって、とても心に響いた映画の1つに、『もち』(2020年。ドキュメンタリーにほぼ近い作品[実話をもとにしている]。実際、出演者は全員「その地域の人間」です)があります。

 舞台は、岩手県一関市の本寺地区(細かくは地図を参照されたしですが、かなりの山間地域。で、物語は、学校(本寺中学校。閉校当時は「全校生徒が14人」であった)が少子化により閉校(統廃合。統合先の学校はかなり距離がある場所になる)になること、で、「地域に伝統的に伝わる『もち』『神楽』を大切にしている、ある少女」(佐藤由奈さん。当時、中学3年生)を物語の軸にして描いてます。

 由奈さん自身が直面した逆境、でも、たとえ学校が閉校になっても、自分が生まれ育った地域のよさを受け継ぎたい、後世に伝えたい、の強い想い。
 一見すると素朴な雰囲気だけど、心の中に秘めるまっすぐな気持ち。ラストでの、閉校式で溢れ出る涙を含めて、とても印象的です。
 恐らく、由奈さんの、「等身大で、打算がない、まっすぐな気持ち」に、心を揺さぶられたから、いまでもとても印象的なんだなと感じてます。



 で、そう、紅葉さんから伝わるのが、

 「門前の11人の素敵な級友に出会えて、『自分は自分でいいんだ』『耳が聴こえにくい自分だから、学び感じられることがあるんだ』と気付けた。
 自分が生まれ育った門前が、もっと大好きになった。だから、門前に対する恩返しがしたい。それが自分には、『人間を育てる』ことだ!と。」

 ということ。とりわけ、

 「そして『ありのままの自分』でみんなと仲良くすることができて、嬉しかったです。みんなに出会うことができて、幸せでした。」

 「地震により、甚大な被害を受けましたが、私の門前を愛する気持ちは変わらず、これからも帰ってくる場所でありたいと思っています。
 今後も一緒につながって、復興を成し遂げましょう。」

 に、投影されていると伝わります。
 で、門前高校と同じ敷地に、「七尾特別支援学校輪島分校」があるとのことで、教員として門前に勤めることが可能であること(同じ敷地であるので、何らかの形で触れ合う機会もあったかなとも想像です)も、「絶対に叶えて欲しい」と、なおさら応援したくなる感じです。
 (ちなみに、紅葉さんが該当する「聴覚障害を対象の特別支援学校(=石川県立ろう学校)」は「金沢市」になります。ですので恐らく、中学校時代までは金沢で学ばざるを得なかった?とも想像ですが。)


 かくいう自分自身、もともとは教員志望でした(中学校の社会科)。最終的には「自分が向いているといえるのは、別のアプローチだな」と感じてでしたけど、「子どもが大好き」は、これまでもこれからもずっとですし、「子どもに携わる」仕事が、どれほど素敵な仕事かは、とても存じてるつもりです。

 恐らく、「自分は教員に向いていないかも」と、諦めてしまいそうになるときがあるかもです。でも自分は、「『人間の心の痛み・悲しみ』を知っている人間こそが、教員に向いている資質能力といえる!」と声を大にして伝えたいですし、紅葉ちゃんは、これにあてはまるとはっきりといえます。


 いわゆる「特別支援教育」。障がいのある人間を育むこと、とてもエネルギーが必要なことでもあるけど、だからこそ、持っている個性・可能性が開花するときの喜びは、なおさら大きいと想像です。
 勿論、(教えてる先生の立場は)障がいがある訳ではない人間であっても、特別支援教育に携わることに強い情熱・誇りを持っている人間が多くいることは、存じています。

 ですけど、「(聴覚障がいを持つ)当事者だからこそ感じられる」ことはあると想像の感じですし、それに現実論として、「障がいを持つ当事者である教員」は、恐らく多くはないと想像です。
 だからこそなおさら、「当事者だからこそできること」を活かせる存在になって欲しいと強く思いますし、子どもの「心の伴走者」(心に親身に寄り添える存在、共に歩める存在)に、紅葉さんには絶対になって欲しい!

 そう、紅葉さん自身こそ、「ハンディを乗り越えた、ハンディを補って余りある長所・特徴を身に付けた、子どもにとってのロールモデル」であるのだからと(勿論、「こういう生き方ができるんだよ」と、より自信を持って言える感じにできる、大学での時間にして欲しい!ことを含めてです)。
 「ハンディを持っていても、その人の長所・特徴を活かして、社会に貢献できる人間・きらりと輝ける人間を育む」、とても素敵な「使命」であると思いますし、紅葉さんには、この素敵な「使命」をやり遂げられる人間に絶対になって欲しい!と伝えたいのです。

 そう、壁にぶつかることも恐らくあるかなですけど、まず、大学生活、「理想とする教育」について、友人・仲間といっぱい語り合って欲しい(意見交換をして欲しい)、ときには弱音を吐いていい、でも、「同じ志を持つ仲間がいる空間・時間」でもある訳ですので、大学生活を、「理想とする教育者像」を、「紅葉さんだからこその使命」を、導き出せる時間にして欲しいです!と伝えたい想いです。

 (それとごめんなさい、かくいう自分は、「手話ができない」人間ですけど。でもだからこそなおさら、応援したいです!と伝えたいのです。)


 いずれにせよ、紅葉さんの中での、「軸」「こだわり」を持ち続けてもですし、特に、「想い」「情熱」を育んで欲しい、そして、教員採用試験の本番のとき、「自分は、障がいを補って余りある、こういう長所・特徴を身に付けました」と、言葉に落とし込める感じにできるように、と強く伝えたいです。ささやかながらですけど、応援させて頂く想いです!



 (4)山元浩花さん(珠洲、緑丘中学校3年生)。


 で、今回のnote記事の執筆をしている中で、とても心を揺さぶられた素敵な記事があったので、ここまで取り上げた3人よりも「3学年年下」になりますが、「応援の気持ち」から、取り上げさせて頂きます。


 (動画の1つ目は、「2分56秒」まるまる、山元浩花さんのこと。
 動画の2つ目は、後半部分である「2:27~5:44」が、浩花さんのことに該当です。
 1つ目も2つ目も、動画の趣旨自体は同じですが、話していることの抜粋部分[テレビである以上、編集がどうしても入る訳なので]に少し相違があるので、それで2つ共にリンク添付させて頂いてます。)



 (動画を実質的に文字起こしした感じの記事のリンク添付。
 添付記事の1つ目、「石川テレビ」が、動画の1つ目に該当。
 添付記事の2つ目、「東海テレビ」が、動画の2つ目に該当です。
 で、この動画及び記事は「能登の震災に被災の直後、集団避難をせずに鈴に残る決断をした時期[受験の本番直前]」になります。)



 (この記事は、「受験本番、第1志望校に合格を叶えた」で、「卒業式本番を前にして」の時期になります。)




 (「3月12日」、「中学校の卒業式本番」。動画と、動画を実質的に文字起こしした記事のリンク添付。
 動画は、「2分32秒」のうち、「0:48~ラスト」が、浩花さんのことです。)



『朝日新聞』2024年3月7日夕刊9面(社会面に相当)。
取り上げるのは、写真の左側の記事。写真が「山元浩花さん」。
(「2つ結び」、とても似合ってるよ!)
後述で言及しますけど、この浩花さん、
1月16日に、「中学生の集団避難」が大きなニュースになった際に
「集団避難をしない決断をした少女」として、話題になってました。
「絶対に看護師になるんだ!」という「志」が伝わってきてたので
「志望校に受かって、『志への大きな1歩』を叶えて!」と思っていた。
(後述で言及しますが、浩花さんの「本命校[第1志望校]」である
「田鶴浜高校」は、「看護に特化した高校」とのこと。高校の場所は七尾。)
で、この記事。「
本命校に受かって、志への大きな1歩を叶えた」。
で、
震災(被災生活)に向き合う過程で、浩花さんの「志」がより深まり、
「看護師として、珠洲に帰る、珠洲に携わる」想いが芽生えたとのこと。
記事を拝読して、「とても感動」で涙が溢れ出て、
「浩花さんの成長を、温かく応援したい!そして、
浩花さんが、いつか『看護師を叶えて珠洲に帰る』そのときを、楽しみにしたい!」
自分が、浩花さんから「励まされる」気持ちになります。
(浩花さん、「自分らしく」を育んでね!逆境に直面するときもあると想像だけど、
「志」を絶対に叶えてね!自分を含め、浩花さんを応援してる人間、きっとたくさんいるよ!)



 見渡すばかり、山ばかり。退屈な毎日……。石川県珠洲市の緑丘中学校3年の山元浩花さん(15歳)は将来の夢に向けて受験勉強をしていたが、これまで故郷で働きたいと思ったことはなかった。でも、地震が起きて考えが一変した。第1志望の高校に合格し、12日、卒業式を迎える。

 元日の夕。山元さんが自宅で社会科の参考書を開いていると、激しい揺れに襲われた。勉強机の下に潜り、悲鳴を上げながら収まるのを待った。
 自宅は近くの港から2kmほど。テレビで津波警報が出たので、近所の人の車で急いで内陸に逃げた。初詣に出かけていた父の車と合流して車中泊し、翌日自宅に戻った。
 勉強は1月5日から再開。停電していたので、日中は日光を頼りに机に向かい、日が暮れると車の後部座席で問題を解いた。

 (珠洲)市内では同21日から中学生の集団避難が始まった。希望すれば施設で共同生活して勉強できる。
 ただ、第1志望校に合格したら寮生活になる。今回の地震で家族を失った人のことを報道で知るたびに、家族がそばにいる大切さを感じていた。
 少しでも長く両親と一緒にいたいと思い、悩んだが、珠洲に残った。同じく地元に残った親友とLINEでやりとりして、励まし合った。
 第1志望は県立田鶴浜高校(七尾市)の衛生看護科。5年制で、修了時に看護師の国家試験の受験資格が得られる。

 看護師の夢を抱いたのは、小学3年生のとき。集団登校中に転んだ1年生の男児に、ばんそうこうを貼ってあげた。「ありがとう」。そのたった一言がうれしかった。
 祖母は元看護師。命と向き合うやりがいのある仕事だと教えてくれた。

 第1志望には推薦入試と一般入試で挑むことにした。まずは2月6日の推薦入試(注1)。面接と作文の試験に、これまでの努力の成果をぶつけた。
 3日後。推薦内定書を学校で受け取った。「あきらめなくてよかった」。祖母に報告すると、「私を超えるステキな看護師になって」と、涙を流して喜んでくれた。
 看護師の夢がかなったら珠洲を離れるつもりで、地元で働こうとは全く考えていなかった。

 だが地震後、珠洲の人たちの優しさに触れた。
 自衛隊が提供する風呂が混雑していて順番待ちしていると、先にシャワーを使っていた30代くらいの女性が「良かったら一緒に使いませんか?」と誘ってくれた。コンビニやスーパーの休業が続いておなかをすかせていたとき、近所のパン屋に行くと男性店長が「困ったときはお互い様。代金はいらないよ」と、パンを無料にしてくれた。
 苦しい時も他人を思いやる。その姿を見て「自分もこういう大人になって珠洲に恩返ししたい」と思うようになった。

 4月からは高校近くで暮らす。卒業後は大学に進み、助産師の資格を取る目標もある。
 珠洲に戻るのはしばらく先になるかもしれないが、必ず戻るつもりだ。

 小学生の頃から何度も訪れた地元の観光名所・見附島は一部が崩れた。祖父母の家は傾いて住めなくなった。今回の地震で失ったものが多いと思っていたが、地震を通じて気づいたことがある。
 「珠洲はどこの地域にも負けんくらい良いところ」。

 (注1)推薦入試は、当初は「1月30日」とのことであったが、震災の影響を考慮して、「2月6日」と1週間後ろ倒しになったとのこと。
 (『朝日新聞』2024年3月7日付夕刊、「全員そろった、12人の船出 門前高校卒業式、言葉に思いあふれ」より。)


 今回のnote記事、「4人目」。
 「山元浩花さん(15歳、中学3年生、珠洲市)」です。
 実は、今回の能登の震災の一連のことで、最も気に掛かっていたのが、この、浩花さんのことでした。

 今回の「能登の震災」。自分が、1人の人間として、特に心を痛めたことが、「中学生の集団避難」でした。
 この「中学生の集団避難」、「ベストとは思えないが、でも、やむを得ない決断であった」、そう理解できます。そう、自分自身が、阪神淡路のとき(小学4年生、西宮)、震災の翌日から2か月強、(母方の実家がある)八尾に避難(疎開)せざるを得なかった経緯があるから(そして自分の場合は、この「避難生活」の経験が、「防災」「社会貢献」「誰かの役に立ちたい」の意識を特に強く抱く「心の原点」になってます)、があります。

 なぜ、「集団避難」の決断をせざるを得なかったのか。理由はいくつかあるかなですが、最大の理由は「ライフラインが止まっている(機能できていない)」からでしょう。
 でも一方で、「家族が大好き」「故郷が大好き」という子どもも、恐らく多くいると想像です、修学旅行での3~4日間程度ならばともかく、恐らくの「数週間単位」で、家族や故郷と離れる、子どもにとって「どれほどの、とても大きなストレスになるだろう」になると想像です。


 「集団避難」を決断せざるを得なかった、「行政、学校」。
 「集団避難」を【する】と決断した「子ども、親御さん」。
 「集団避難」を【しない】と決断した「子ども、親御さん」。

 どの決断をするにせよ、その決断をするまでは、恐らくすぐにはできなかったと想像。そう、「とても悩んだ、とても苦しんだ、とても熟考した」、特に中学生にとっては「いままでで、恐らく最も難しい問い」に直面だったのでは?と
 だからこそ、集団避難を「する」「しない」、どちらの決断も最大級に尊重されて然るべきと強く感じる訳で、中学生にはあまりにもむごい…と、とても心が痛むこと、と正直強く感じてます


 そう、自分は、「集団避難」という決断、「どれほど重い決断だろう…」と「心がとてもきゅっと痛む」が正直な感じでした。特に、この浩花さんの記事や動画に出会って、「涙がぼろぼろと溢れ出てきて、しばらく止まってくれない」が正直な感じでした
 その一方で、社会的な雰囲気としては(相対的にという意味で)、この「能登の震災」のこと、とりわけ「集団避難」のことについて、「あっ、そう、ふーん」という「まるで『他人ごと』の雰囲気」を感じていました。
 (実際、当時のツイッター[X]のトレンドには、集団避難は「下位にどうにか載っている」程度でしかなかったですから。)


 ですけど、自分が、浩花さんの記事や動画、とても強い印象を抱いたのは、「能登の震災のこと」が「阪神淡路と同等以上の被害の規模」であることも勿論ありますし、浩花さんが直面している状況の「壮絶さ」(家族や自宅は無事であったが、「受験勉強に集中できる環境とは、とてもいえないよなあ…」が正直伝わること)も、勿論大きいのですけど、


 「『逆境』(「とても」がいくつもつくレベルの)に直面しているのに、『逆境に対して、自分なりに精一杯、逃げずに向き合おうとする姿勢』が伝わること。」
 (自分が浩花さんの立場であるとき、「逆境に立ち向かえるか?」って、「頭ではわかっていても、実際にできるかといえば『わからない』から。)

 「『家族といることが、自分の一番の、いまの幸せなんで。震災の心の傷は消えませんけど、家族の存在で補っているって感じですね。』
 『家族を亡くした人とかも見て、私に両親がいるのは当たり前のことじゃなくて、限りある時間を両親と過ごしたいなと思ったので、珠洲に残りました。』
 という言葉に象徴されるように、『ありのままの気持ち、飾らない気持ち』が伝わること。言葉や振る舞いの端々から、『優しい』『賢い』雰囲気が伝わること。
 これと共に、机の真正面に置かれている、『第1志望校のポスター』。『自分には、【看護師に絶対になりたい】という【志】が明確にあるんだ!』という『想いの強さ』がとても伝わること。」


 そう、自分の場合、「防災・復興」「社会貢献」は、「1人の人間として、ずっと向き合い続けてるテーマ」であり続けているので、勿論、「能登の震災」のことは、ずっと注視し続けてますけど、浩花ちゃんのような立場の人間を、自分が「励ます側」であるはずなのに、「励ましたい」はずが、これと共に、「浩花ちゃんの志や姿勢に、自分が励まされてる」、不思議な感覚があったんですよね。

 (ちなみに、浩花ちゃん、「賢い」雰囲気をしているなあと、集団避難を【しない】決断の際の動画や記事から漠然と感じていましたけど、今回、こうしてnote記事を綴らせて頂く過程で調べたら、「地域の作文、ポスターで、賞を何回も取っている」とのこと。ああ、「賢そうな人間だなあ」という直感、間違ってなかったんだ、の感じです。)


 (←浩花さんが中3のとき、地元の新聞[北國新聞]の感想文コンクールで最優秀賞を取った文章のリンク添付。能登半島の中でも、珠洲市は北端にあり、とりわけ日本海に近く[かつ、七尾・輪島から最も遠い場所になる]、「震度6弱以上の大地震」を「2022年6月」「2023年5月」、そしてこの感想文の発表後の「2024年1月[今回]」と、「わずか1年半で3回も」遭っていることの悲しみが、この文章から伝わります。)



 で、浩花ちゃん、記事や感想文の中で、「震災以前は、自分が珠洲で働くことを想像できなかった」という趣旨のことを述べています。この感覚、自分も「とても理解できる」が正直な感じで、
 「自分が浩花ちゃんの立場でも、恐らくそう感じる可能性が高いよ。なぜって、都市部の方が、『仕事とプライベートの両立』もだし、『子どもの教育(【選択肢をより用意できる】という意味で)』の面でも、都市部の方がよりメリットがありそうだもんね。」
 これがまず正直あります。それと、

 「きっと、故郷(珠洲)にはこんな素敵な特徴があると実感できる『きっかけ』に出会えなかっただけなんだよ。『きっかけ』を心のどこかで探していて、でも出会えなくて、きっと寂しかった(悲しかった)んだね。」

 と、自分には映るのです、あくまでも記事越しとかですけど。

 そう、自分自身が歩んできた道の実感としてですけど、自分がこうして、1人の人間として大きく成長できたと実感できてるのは、これまでも、そしてこの記事でも言及しているように、「東日本大震災を通して、東北に向き合うようになってから」です。で、東北に向き合う過程で、いくつもの学びや出会いをさせて頂いて、自分が学んだことの1つがあります。


 「人生には、どこで、どのようなタイミングで、どのような『きっかけ』『出会い』があるのかわからない。
 転機になる『きっかけ』『出会い』は、あるとき突然やってくる。でもその『きっかけ』『出会い』は、こつこつと努力できる人間にしかやってこない。」


 そう、自分の場合は、いわば「転機になったきっかけ」は、「27歳」、つまり「大人になってから」でした。いまの自分は、「伝える人間の末席」の感じであり、いわば「末席、端くれ」を卒業することが直近の現実的目標ではある訳ですが、ですけど、「心の充実感」は、「東北に向き合う以前」と「以後」では、「全然異なる」と断言できます。


 浩花ちゃんが「珠洲の特徴・魅力」に出会えた「きっかけ」は、とても悲しいこと(=震災)であったかもしれない、でも「きっかけ」に出会えたのは、浩花ちゃん自身が気付けてなかっただけで、浩花ちゃん自身の心の奥底では、「自分の故郷(珠洲)の特徴・魅力に出会いたいと探し続けていた」、だから、「きっかけに出会うチャンス」がやってきた、それをつかめたんだよ!

 と、自分は伝えたいのです。


 「誰かの役に立てる」「『いのち』に携われる」
 この両方ができる意味で、浩花ちゃんの「看護師」という「志」、「とても素敵だよ!」と感じます。ましてや「いつの時代でも必要であり、今後なおさら必要になる」仕事である意味でも。



 「地震とかもたくさんあって、大変な状況でしたけど、いろんな人の支えがあって、無事卒業できて、とても晴れ晴れしい、嬉しい気持ちです。
 陰で支えてくれた両親をはじめ、さまざまな人にお世話になったので、これからは自分が、将来珠洲で仕事(=看護師)に就いて、恩返ししていきたいな、と思ってます。」


 いま、リンク添付をさせて頂いた動画の「1:42~2:07」の部分を抜粋させて頂きましたけど、この言葉を話しているときの浩花さん、「真心による言葉」がとても伝わり、「とてもきらきらしている」と映ります。
 浩花ちゃんが「珠洲で看護師として携わる」ときが叶うことを、とても楽しみにしてる!と、なおさら応援の想いです。



 いま、珠洲は、ライフラインが未だに影響が大きくて、断水は(ほとんどの地域で)5月頃まで続くのでは?と伺っています(阪神淡路のときは、2か月半後にあたる3月末の時点で、水道やガスはほぼ復旧できていた)。
 そう考えると、

 で、進学先の高校(田鶴浜高校)のHPを拝読させて頂くと、そもそも奥能登地域からの進学者は例年「数えるほど」とのことです(「輪島、珠洲、穴水町、能登町」を合算すると、例年「4~5人程度」、それも「健康福祉科を合算しての数字」でです。珠洲市からの進学者に至っては「1人程度、0人の学年もいる」とのこと)。
 勿論、「普通科の高校から大学・専門学校で看護師を目指す」という道で志す人間も恐らくいるでしょうから、一概に言えないことを考慮の必要はありますが。

 そう考えると、浩花ちゃんは、奥能登地域の地元の人間で「医療の世界を志すと明確にしてる人間」の意味で、「とても貴重である」といえます。
 そう。いま、地方部の構造的な課題の1つとして、よくいわれてるのは「医師不足」ですけど、自分は、「医療そのものの不足感」があるのでは?と漠然とですけど映ってるんですよね。地方部の場合、「公立の総合病院」が存在してますので、それによる必要最低限の対応はなされてるといえますが(ごめんなさい、表現が不適切かもですけど…)、自分が感じてるのは、

 「医師」「看護師」「薬剤師」「臨床検査技師」
 →「総合的に、足りているのだろうか…?」
 (「臨床検査技師」とは、いわゆる「技師さん」のこと。
 採血とかをするのが「技師さん」。)

 ということです。自分は大阪(都市部)で、特に大阪は、都市部の中でも医療面は充実している部類といわれていること、とりわけ自分の場合、ビッグネーム的な大病院(名前を出しますが、「大阪赤十字病院」「大阪大学附属病院」)に掛かっていたり、それと、いまの仕事場でもある「あべのハルカス」、クリニックゾーンがある(自分も掛かっている。薬局もある)、ですのでなおさら、「都市部の医療的な資源(リソース)の充実さ」を実感する、これがあるのかなではあるのですが。

 「課題先進地」、東北でも能登でも、「震災以前から潜在的に抱えていた課題が、いくつも存在していた」。そう、この医療の問題も、震災で「顕在化する」ことになると想像です。
 それで特に、感じることがあります。



 いま、浩花ちゃんは、現時点でだと、高校の衛生看護科(5年制。高専のような感じ)を修了した後に、大学で助産師の資格を取得する意向である、つまり「最短で7年後(2031年春)」ということになります。
 これから、どのような道を歩んでいくのか、切り拓いていくのかは、「浩花ちゃん自身の努力によること」になってきますけど、いま言及させて頂いたように、とりわけ珠洲は、地理的な位置関係上の不利さ(能登半島の中でも、最も奥側になる)の影響もあり、しかも、純粋な奥能登の人間

 で、日本の場合、「医師不足」がとりわけいわれていますけど、そうなっている原因・理由はとても複雑ではありますが、理由の多くは

 「大学受験での医学部への入学のハードルが、あまりにも高すぎる。
 実際、『医師になりたくてたまらない』のに、『医学部への入学』を叶えられずに断念に追い込まれるケースが、毎年たくさん起きている。」

 (尤も近年では一方で、社会人を経て医師を、医療の道を志す人間が増加傾向であるとも伺う。直近でも、島津有理子さん[元NHKアナウンサー]が医師国家試験に合格したことが話題になってましたが。)


 自分は、「『いのち』に携わる人間」(教育、医療、福祉、防災など)は、とりわけ「とてもリスペクトの存在」であるとずっと感じてますけど、そういった「『いのち』に携わる仕事」は「絶対に携わりたい人間」こそが携わって欲しい、と強く感じてます。
 ですので、「医療の課題を、どのようによりよくできるのか」は、とても考えさせられる1つです。正直、「医学部への入学のハードルが高すぎることは、いますぐにでも改善して欲しい!」が本音です(尤も一方で、「いのちに携わることの重み」を考慮すると、医学部の入学のハードルの高さ自体は、「ある程度は仕方ない」とも思いますが、それでも現況は「程度問題をあまりにも超えている」と感じるのは、自分だけでしょうか?)。


 で、そのような中で、こうして「能登が抱えている課題、あるいは能登が今後顕在化するであろう課題」を自分なりに調べる過程で、「医療の課題を少しでも改善できるために」という意味で、突破口の1つになり得るのでは?と考えることが、


 「『ナース・プラクティショナー』制度の実現。
 イメージ的は『大学院修士相当まで修了した看護師が、【まちの診療診療所】を開けるシステム』。『医師』と『(一般的な)看護師』の中間に位置付けられる存在、あるいは『手術行為以外ならできる医師』のイメージ。
 薬剤師が6年制になって、薬剤師の地位が向上していることを参考にして、もあるけど、この『ナース・プラクティショナー』が制度化されれば、特に『地方部・過疎地域での医療不足・医師不足の改善』に大きく寄与し得るのでは?と想像だが(とりわけ『小児科・産婦人科・精神科などでは、ニーズがあるといえるのでは?』)。」


 (「ナース・プラクティショナー」は、日本では「診療看護師」と称されており、現況では「民間資格としては存在するが、正式な制度化はされていない」。)



 (←「2001年~2005年。全9回」に、『火曜サスペンス劇場』[日本テレビ系列]で放送されていた。いわゆる「まちの診療所」を描いていて、自分はとても大好きなシリーズでした。いまも時折、再放送されてます。)


 いま言及させて頂いた、「ナース・プラクティショナー(NP)」
 仮に制度の実現が叶えば、「能登の医療の課題の改善に、少なくともある程度以上は寄与し得るのでは?」と自分は想像しています。尤もその場合、想定されるのは

 「高校の衛生看護科(5年)+大学(3年次編入、2年)+
 NP取得のための大学院(2年)」
 (→最短で「9年後(2033年春)」。尤もそのときにNPの制度かが叶うのか?の問題がある訳ですが…。)

 になりますし、浩花ちゃんが「どのような看護師像を志すのか?」になるので、それ次第にはなってきますが。
 ですけど、「地域をよりよくできる」意味では、「地域(この場合、珠洲)への愛着がより強い人間が携わる」ことがより望ましいですし、ましてや恐らくの現況でだと、「純粋な奥能登地域の出身の人間による医療(これは看護師、薬剤師、技師とかを含めて)の絶対数自体が足りていないっぽいような…?」であることをも照らすと、浩花ちゃんが充分なスキル(「技術レベル」は勿論、「人間的な心の引き出し」を含めて)を身に付けて、満を持して珠洲に帰還を叶えるとき、地域の人間の立場的には「おかえりなさい」は勿論ですけど、そのとき、浩花ちゃんの「使命」は、恐らくとても大きいのでは?と想像するのです。

 あくまでも、浩花ちゃんがどこまでを望むのか、志すのか、それ次第であるという注釈付きではありますが、「純粋な珠洲の人間による医療・看護」は恐らくとても貴重であると想像ですので、「自分で『まちの診療所』を開業できる」になれれば、珠洲にとっても大きなプラスになり得るのでは?と想像なんですよね。




 あるいは、「保健師」。いまリンク添付させて頂いたのは、生まれ育った女川で保健師になった、木村絵美さんです。
 よく日本では、「行政に携われれば(=公務員、あるいはそれに準ずるとか)、安定しているから」、確かにそれもありますが、「役所に就き、かつ保健師」、それこそ「いつの時代でもは勿論、これからなおさら必要」でありますし、「自分を育ててくれた町に恩返ししたい」をまさしく体現できる意味でも、理に適っているといえます。

 で、先述の「ナース・プラクティショナー(NP)」だと「修士が必要」になりますが、この「保健師」は「学部でも可能」です。ですが、この「保健師」、ここで取り上げた木村さんも「修士を経て」と言及してますし、自分の小学校の1年後輩が、「1浪してまで大阪大学の保健学科に進んだ」のですけど、その理由の1つが「保健師を視野に入れて」と伺います。そう、いわば、「保健師」も「修士までいければ、より望ましい」になりますが、「珠洲に恩返しがしたい」の意味では、有力な選択肢の1つといえます。


 いずれにせよ、そう、浩花ちゃんならば「珠洲に光を照らす存在」に絶対になれるよ!と伝えたいのです。だからこそまずは、これからの高校生活。
 「能登の看護に携わりたい!」という「同じ志を持つ人間と、5年間、同じ空間で共に高め合える」、これって「当たり前ではない、とても素敵なこと」と想像ですし、だからこそ「濃密な5年間に絶対にして欲しい!」と強く感じます。
 だからこそ、です。「同じ志を共に叶えられる、最高に素敵な学級」を叶える、そのために浩花ちゃん自身にできることは?になってくる、だからこそ、「浩花ちゃん自身から、行動(アクション)を起こしてみようよ!」と伝えたいのです。「ほんのちょっとの勇気、浩花ちゃんならば、きっとできるよ!」と。

 そう。例えば、学級委員長(学校によって表現が異なるので一概にはいえないが。自分の学校では「級長、副級長、学級委員」の順でした)を務めるチャンスがあるならば、勇気を振り絞って、「やらせて頂きたいです」とチャレンジしてみようよ!と。
 なにも、学級委員長を務める場合、「みんなの先頭に立つ」にこだわることはないと、自分自身の経験から感じてます。そう、例えば、「学級の仲間の1人1人がそれぞれに輝ける環境をつくる、のために汗をかく」とか、「みんなの『輪』をつくる、その中心になる」とか、そのような方法もあると自分は思うのです。


 いずれにせよ、浩花ちゃん、これからが「ほんとうのスタート」だよ!と伝えたいですし、これから恐らく、「逆境に直面する」ことが、「自分は看護師に向いていないのかなと感じる」があるかもしれないと想像ですが、「自分自身のため」に、まずは「濃密な高校での5年間を叶えて欲しい、1つでも多くのことを意欲を持って学んで欲しい!」と強く伝えたいです。

 そして、浩花ちゃんが「看護師を叶えて、珠洲で看護師として携わる」ことが叶うときを、とても楽しみにしてますし、そのとき、珠洲が「復興のかたちの大枠が見えてきた、さあ、スパートだ」となっていて欲しい、そして浩花ちゃんが「震災以前の珠洲よりも、もっと素敵な珠洲を叶える」一助になることを含めて(浩花ちゃんならば、なれるよ!)、ささやかながらですけど、応援の想いが伝わると、とても嬉しいです。



 (5)大畠梨紗子さん(珠洲、宝立小中学校9年生)、エピローグ。




 【5】大畠梨紗子さん(宝立小中学校9年生)
 (小中一貫教育[義務教育学校]のため、「中学3年生」相当。
 「大畠」と書いて「おばたけ」と読む、とのこと。)

 「残り少ない中学校生活を、1日1日、大切に過ごそうと思っていた矢先、元日に、能登半島地震が発生しました。
 
全国から駆け付けて、支援にあたって下さっている方々、被災しているにもかかわらず、珠洲市の復興のために、頑張ってくださっている方々の姿に、元気と勇気をもらいました。

 いつもそばで見守ってくれた、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、
つらいことがあっても、乗り越えてこられたのは、家族の支えがあったからです。
 
同級生のみんなへ。共に過ごした日々は一生の宝物。それぞれの道に進んでも、ずっと友だちです。

 
私たちは、1人ではありません。
 
私たちは、たくさんの人に愛されていること、支えられていることを、この9年間で、強く実感しました。
 
私たちが、ここまで大きく成長できたこと、みなさんのおかげです。
 ありがとうございました。」


 (答辞の言葉は、関係する動画を総合して、この順序で話したと判断で綴ってます。)


 そして、今回のnote記事、ラストの「5人目」。
 「大畠梨紗子さん(15歳、中学3年生、珠洲市)」です。
 宝立小中学校の卒業式、答辞の言葉。
 「まっすぐで、真心がとても伝わる、とても素敵な言葉」に心を惹かれたので、どうしても伝えたい、と判断で綴ってます。
 惜しむらくは、この、梨紗子さんのことを掘り下げた記事が見つからなかったので、恐らくさらりとした感じにならざるを得ないことですけど。

 どうしても取り上げたい、と感じた、特に印象的な言葉。

 「私たちは、1人ではありません。」

 この言葉、この気持ちが出てくること。梨紗子さんの、「とても素敵な感受性」が、「優しい心の持ち主」であることが伝わります。というか、自分が中学3年生のとき、「私たちは、1人ではありません」を、言葉に落とし込めてたかといえば「できなかった」ですので、なおさらとても素敵です。
 震災で、つらい思いを少なからずしただろうと想像ですが、それでいて、「感謝」と「思いやり」が伝わる(周りの人間を、御世話になった人間を思いやれるという意味を含めて)、なんと素敵な人間だろう、と感じます。


 「つらいことがあっても、乗り越えてこられたのは、家族の支えがあったからです。」
 「同級生のみんなへ。共に過ごした日々は一生の宝物。それぞれの道に進んでも、ずっと友だちです。」

 この宝立小中学校、卒業する「9年生(中学3年生)」は「10人」。学年の絆も恐らくとても深いと想像ですし、
 「共に過ごした日々は一生の宝物。それぞれの道に進んでも、ずっと友だちです。」
 この言葉に、とても強い説得力が伝わります。

 基本的に、恐らくですけど、答辞という「大役」を務める、いわばこの学年の代では梨紗子さんは「自分たちのエース」の感じが伝わります。「賢さ」がとても伝わる意味でも。
 それに、「出会った人々に、家族に、級友に支えられた」、優しい人間性がとても伝わります。

 だからこそ、梨紗子ちゃん、「あなたらしく輝いて!」。
 そう、「長所を伸ばす」「1つでも貪欲に学ぶ、チャレンジする」。それが「はばたいていく」ことに、「家族、級友への『ありがとう』の恩返し」に、そしてそれが「どのような形であれ、珠洲に貢献することにつながる」と思いますから。
 そう、これから、逆境に直面することがあるかなと想像ですけど、そのようなときこそ、家族や級友のことを思い起こして!と。たとえそのときいる場所は離れていても、同じ学級で9年間を過ごした級友との絆はずっと存在し続けるはず、きっと級友が、梨紗子ちゃんのことを応援してるはずだよ!と伝えたいのです。
 「あなたらしく」を追い求める、そうすれば、道は切り拓ける(見えてくる)はずだよ!と。




 …と、こうして綴ってたら、ようやく末文になりますが、とても素敵な記事が飛び込んできました。





 いまリンク添付をさせて頂いた1つ目が、矢部寛明さん(気仙沼などで活動してる「底上げ」の創設者)、八島彩香さん(宮古で活動する「みやっこベース」の職員。先述で門前のことを綴った際にも言及した)らのインタビュー[対談]のnote記事です(←とても濃密!)。
 で、リンク添付の2つ目が、八島さんの「歩んできた道、そしていま」を振り返るインタビューのnote記事です。

 彩香さんのことは、先述で言及させて頂いてるので、の感じですけど、矢部さんは、いずれ別途の機会で言及する機会があるかもだったりですが、出会った人間の中でも、「自分の生き方、価値観が大きく変化するきっかけの1人」とはっきりといえる、「とても強烈」な存在です。
 矢部さんから学ばせて頂いたことはいろいろとありますけど、その中でも、矢部さんの「座右の銘」といえる「行動はメッセージ」は、とても奥が深い、自分自身、ずっと問い続けていることです。


 ですけど、いえることとして、いま、気仙沼や釜石では特に、「知らない世代に震災のことを伝える(伝承する・語り継ぐ)」取り組みの芽が既に芽生えていますし、気仙沼では「100人ほど語り部がいるが、そのうちのおよそ80人が中高生であり、この中高生上がりのOB・OGが、大学生・社会人になっても語り部を続ける意向の動きが既に芽生え始めている」とのこと。
 あるいは、気仙沼、大槌、宮古では、「自分たちの地域を、どのようによりよくできるか」が、高校生が自ら「できること探し」の動きを起こしています。先述の八島彩香さんは、いま、この宮古での「高校生の『地域活動』」に携わる立場として、ずっと「志を追いかけ続けている」といえる訳です。




 で、この「行動はメッセージ」を最もダイレクトに示しているのが、いま、動画を4つリンク添付させて頂いてますけど、前回のnote記事で取り上げさせて頂いた、気仙沼で、中学2年生から語り部活動(その後、探究活動も)に取り組み続けている、岩槻佳桜さん(動画のリンク1つ目。動画は2023年3月なので「高2」であるが、「現高3、今春から大学進学」とのこと)、あるいは、佳桜さんをはじめとする気仙沼の語り部や探究活動の同志・仲間たちといえます。

 (とはいえ、佳桜さんももともとは「巻き込ませて頂く側の立場」からスタートしていた[これが「動画リンク3つ目」。「気仙沼にはそもそも『中高生の語り部活動』を重要視する雰囲気づくりが生み出されていた」ことが言及されている]。
 「動画リンク2つ目」は、気仙沼出身の大学生の「震災伝承の卒業研究」[はがき、絵手紙を活用した震災伝承]。
 「動画リンク4つ目」は、気仙沼は「街ぐるみでの高校生の活動応援」に取り組んでる、ということです。これは「都市部によくある、既存の塾ではできないこと」という意味でも、「能登の復興」云々は勿論、「地方部での地域づくり」の「1つのよきヒント」になり得る、と自分は映ってます。)



 そして、もう1つ。宮城県山元町の語り部、千尋真璃亜さん(22歳。震災当時は9歳、小学3年生)。2年前から語り部を始めて、いまは看護師をしながら語り部をしているとのことです。ですけど、いまは語り部をしているけど、震災に向き合えるまでには結構な時間を要したとのこと。
 (それと、宮城でいえば、どうしても北部側・東部側[仙台から見ての方向として]のことが近年は目立ちがちでしたので、こうして南部側のことの話題を聴けるのは、とても有難い感じです。)

 かくいう自分もそうです、自分の場合、阪神淡路の被災経験に「ほんとうの意味で、向き合えるようになった」までは、実は「10年」を要しました。ですので、いま、東北で若い世代が語り部に、あるいは防災の活動に取り組んでいることは、「とても励まされる、プラスなこと!」と強く感じます。

 それと共に、能登の若い世代(今回こうして取り上げた子供を含めて)に伝えたいことは、自分の場合、いまでこそこうして、人一倍、「防災」のことに向き合い続けている、発信し続けている立場ですけど、でも、自分だって「向き合うのが怖かった期間が長かった」し、いまでも実は「揺れ自体は、ずっと怖いまま」なんだよ、ということです。
 ですので、いま「向き合えていない」と思っていても、自分は

 「いま、(能登の震災のことに)向き合えていなくても全然いいんだよ、『向き合おうと心掛ける』こと自体に意味があるんだよ!
 いつか向き合えるときは、絶対に来るから!そう、『時間がきっと解決する』、自分がそうだったから!」

 ということ。それこそ「向き合える時間」は、「100人いれば、100通り」ある訳です、だから向き合えてないことに、下を向くことは全然ないと伝えたい。それと特に、

 「『つらい』『悔しい』『悲しい』『怖い』と感じたら、
 『つらい』『悔しい』『悲しい』『怖い』といっていいんだよ!
 『つらい』『怖い』の気持ちは『生きたい』という証明なんだから!
 だから、泣きそうになったら、『いっぱい泣いていいんだよ』!
 自分がそうだから!『涙の数だけ、人間は成長できるから!』」

 と伝えたいのです。

 そう、「立ち止まる必要がある」と感じたら、「立ち止まって全然いいんだよ!」と伝えたい。それこそ、「生きるペース」は「人それぞれ」であると自分は感じてますので。
 大切なことは、「いつか、何らかの形で、能登(故郷)の役に立てる人間になりたい」の気持ちであり、「能登の役に立てる(貢献できる)ために、自分に何ができるだろう?」の気持ちです。そう、ありきたりかもですが、

 「微力だけど、無力じゃない。」

 これに尽きる、と自分は思ってるんですよね。


 で、思えば、いまの自分がいるのは、あの「東日本大震災」のとき。
 当日(2011年3月11日)、予定があって、それでちょうど、19時前、梅田にいたのです。
 (このときのことは、いずれ別途で言及させて頂く機会があるかなですが。)



 阪急梅田駅の「ビッグマン」。「大阪、関西圏を代表する待ち合わせスポット」であり続けていますが、当時は「NHKニュース7」が映っていました(いまは流さなくなっているが)。

 19時。冒頭で流れた、閖上(宮城県名取市)の津波の映像。このときの衝撃は、ずっと心に焼き付き続けるでしょう。ざわついていた「いつもの雰囲気」が、その映像が流れた瞬間、「独特の凍り付いた感じ」になった。
 「何かしたい、いや何かしなければ」。まず最初に抱いた感情は、それでした。そう、自分は、小学4年生のとき、「阪神淡路大震災」の被災経験が「心の原点」になっている、あのとき、たくさんの人間が自分を支えてくれたから、今度は自分が支えたい、と。そう。


 2011年~2015年の自分(「阪神淡路」でもらった『心のバトン』を、「東北」に渡したい)。
 いま(「東北」で育まれた『心のバトン』を、「能登」に渡すとき)。



 そう、岩手・宮城は、「見た目の復興」という意味では、「大枠のかたち」が見えるところまで来た、と映ります。その意味でもなおさら、「心のバトン」を届ける(渡す)ときが来ている。そして、この「心のバトン」を能登に渡す役割こそ、「東北の若い世代」だよ!と自分は感じるのです。つまり「能登の若い世代」に「心のバトン」を渡して!と(「心のバトン」を「分かち合う」が、より適切な表現かもですが)。

 ですので、能登の若い世代、ここで挙げた人間でならば、「浩花さん」や「梨紗子さん」が、「東北の若い世代と交流を直接持てる話」がもし来たら、そのチャンスをつかみに行って欲しい!と伝えたいのです。それで、東北の若い世代との交流で学び感じたことを、地域・学校に帰ってシェアをする(分かち合う)、今後に活かす、とできるとより素敵だよねと。

 というのも、東北でだと、気仙沼では「中高生や大学生による語り部活動が盛んである」ことを先述しましたけど、女川では(特に駅や町役場の周辺の「きれいに整備された街並み」や、いくつもの場所にある「女川いのちの石碑」が象徴的ですが)「若い世代が主導になってのまちづくり」を実現させた、と伺います。

 その意味で、「能登の若い世代(高校生・大学生とか)が、特に夏休み期間というまとまった時間を活かしてとかで、東北の若い世代と直接交流を持てる『場』を持てる」が叶えば、きっと大きなプラスになるはず!と。

 そして、「能登(珠洲、輪島、門前、能登町とか)の復興のかたち」を、「若い世代(これは10代を含めて!)のアイデアを積極的に活用する感じで描いて欲しい」と、1人の人間として感じます。能登が「課題先進地」を乗り越えていく意味でも、「若い世代」の積極的な参画がとても大切になると強く感じる!と。




 そしてもう1つ、末文にて。


 「『好きなことを伸ばす』『得意なこと・長所を伸ばす』、これこそが『その人自身をより輝かせる原動力』になるんだよ!
 何か1つ『特徴がある』『長所がある』人間は、その特徴・長所こそが、たとえ逆境になってもその人自身を支える一助になる!
 そして『好きなことを伸ばす』『得意なこと・長所を伸ばす』ことで、『自分自身の特徴・長所をより最大級に活かせる道』を見出せる一助になるから!
 だからこそ伝えたい、『何か1つ、好きなこと・得意なこと・長所を伸ばそう!』そうすることで、ゆるぎない『自分の軸』が生まれるから!」
 (「2023年春、「好きなこと・長所を何か1つ育むこと」で社会に貢献できる一助になれると最高に素敵!そのためにはまず「優しさ・思いやり」を育むことから始めようよ!」[2023年3月31日]より引用・抜粋。)


 「好きなこと」「得意なこと」「長所・特徴」を伸ばして欲しい、育んで欲しい。人間が生きていくにあたって、自分だけではできないことは現実論として少なからずありますけど、でも、「好きなこと」「得意なこと」「長所・特徴」を育むこと自体は、あなた自身の努力でできることだよ!と伝えたいのです。
 そういったことを含めて、能登の子どもや若い世代の成長を、温かく応援したい、見守りたいと、正直強く感じます。



 今回取り上げた、5人の少女(女性ばかりで、ごめんなさい!)。

 「あなたならば、『能登の復興の一助に』は勿論、『能登を、いまよりもより特徴・魅力が伝わる感じでの【+α】を生み出せる一助になれるよ!』と感じるから!」

 (その意味で、今回、5人のうち3人が「教育者志望」ですけど、教育者の存在意義ってその意味でもとても大きくて、「人間を育てる」、より深く述べれば「人間の個性・可能性を育む」という、「とても素敵な道」であると思ってるんですよね。特に紅葉さんが象徴的で、「ハンディ[逆境]を補って余りある特徴を育むことができるというロールモデル」に自らがなれてる意味で、なおさらと。
 「きらりと光り輝く個性・可能性を持つ」「社会に貢献できるために、自分が持っている特徴・長所を活かそうとできる」人間を育てる、そう、「教育」って「人間を生み出す営み」といえる訳で、これからの「紅葉さん、春香さん、咲菜さん」が、どのように成長を遂げて、どのように能登に貢献するのか、とても楽しみ!の感じです。)


 かくいう自分は、東日本大震災のときとは立場が変わったこともですし、日程・資金的なこととかをも含めて、勿論本音は、「いつか能登を訪れたい」のですけど、輪島や珠洲となると、「移動手段という面で、程なくしてというのは想像しづらい悔しさ」があります。
 だからこそなおさら、「能登のために、自分にできること」として、「応援する」「伝える」「自分ごととして知る・向き合う」、これならばできることなので、と感じてます。

 自分のいまの最大の分野(フィールド)は「スポーツ」ですけど、東北のことに微力ながら向き合い続けているように、これからも、「東北」「能登」のこと、取り上げる機会を持ちたいと強く思ってます。


 そう、1人の人間として、「かつての被災者」として、「能登」のことに向き合い続けたいし、「能登の子ども・若い世代」を応援したい!(「ちゃん」を多く用いたのも、「応援の気持ち」のニュアンスと解釈頂ければです。)
 今回のnote記事、想像以上にとても長くなりましたけど(いつも以上に、脈絡がない感じになったかも…)、「趣旨」「想い」「気持ち」が伝わると、とても嬉しいです。

 そして末文にて。咲菜ちゃん、春香ちゃん、紅葉ちゃん、浩花ちゃん、梨紗子ちゃん、「自分らしくを追い求めてね!それが、自分自身を、能登の活力を生み出す原動力になるから!」。ずっと、応援させて頂きます!


 【社会貢献#8A】【エッセイ#29A】

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