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「チュニジアより愛をこめて」 第9話

 スークの人波の間から、頭ひとつ飛び出た長身の人物がこちらに向かってやって来る。その人は、真っ直ぐ私の方に、近づいて来る。彼だ。相変わらず背が高い。同じ人とは思えないくらい日に焼けていて、カナダにいた頃とは比べものにならないくらい肉付きが良くなっている。あの冬の黎明れいめいのようだった暗い目はすっかり精気を取り戻し、活き活きと輝いていた。故郷であるチュニジアの空気と太陽は、枯れかけていた植物のようだった彼を、根元からしっかりと蘇生させたようだった。スッと通った鼻筋と意固地そうな薄い唇だけが、あの頃と変わらない。
 三年ぶりの私を見て、彼は何と感じただろうか。「すごく元気そう」彼の様子を見て、私の口からは思わずそんな言葉がこぼれた。心のこもった声だと伝わったのだろう、彼は嬉しそうに微笑んだ。「ようこそチュニジアへ。とうとう来たんだな」と、腹から出る張りのある声で彼は言った。その独特の声が好きだったことを、その時私は思い出した。
 メディナの真ん中でハグをすることははばかられたので、私達は少しの間、笑いながら見つめ合った。あの頃、目をらすことができないほどかつえたような鈍い光を放っていた緑色の瞳は、チュニジアの太陽の光を映して美しくきらめいていた。彼はますます自分の手の届かない存在になった、と感じた時、不意に胸が締めつけられた。
 彼はただ純粋に、遠い国からはるばる私がやって来たことが嬉しいようだった。三行半みくだりはんとも言える激しい言葉を投げつけて去った私に怒りをぶつけるでもなく、まるでそんなことは何もなかったように微笑んでいた。そして、私と同じように三年分歳を取り、あからさまに肉がついて恰幅かっぷくが良くなった彼は、アラブの人情味がにじみ出てくる年齢にさしかかっているように見えた。
 遠来の客をもてなすのが彼等の流儀、彼は早速私を誘って、スークの中にある彼のお勧めのチュニジア料理店へ連れて行ってくれた。私達はそこで、昔彼が好物だと話していた野菜を焼いて作るサラダ、メシュイヤを食べ、魚貝をメインに使ったトマトソースをかけたクスクスを食べた。ハリッサと呼ばれるトウガラシ入りのペーストをかけ過ぎて私が苦しんでいるのを、彼は笑ってからかった。
 店を出て、スイーツ屋さんでピスタチオのお菓子を買って、歩きながら食べた。それは彼のお気に入りのスイーツで、頬張りながら彼は上機嫌だった。
「ホテルのね、ラグジュアリースイートに泊まってるのよ。部屋を見に来ない?」
 私は前方を見つめながら言った。彼は賛成した。三年ぶりに会うのだ。こんな短い面会で帰ってしまうわけがない。私には、彼がついて来ることがわかっていた。
 
 
 私の宿泊している部屋に入った時、彼は息を呑んだようだった。確かに、海外からの観光客でもない限り、地元民はわざわざこんな豪華なホテルに泊まることはないだろう。けれど彼はそんなことを口にするどころか、おくびにも出さなかった。彼独自のプライドがそうさせないのだ。高級品や質のいいものに目がないくせに、それを人に指摘されたり、察知されるのでさえ、品の悪いことだと思っている。彼にはそんなところがあった。
 私は、彼がこの部屋を気に入って良かったと思った。確かに、彼にはこのような上質なスタイルや、伝統的な美しさを持つ調度がよく似合う。彼の持つこのある種の気品に、私は惹かれていたのかもしれなかった。――これから先の自分の記憶の中で、彼の姿がこの部屋のイメージに加わり、豪奢ごうしゃな装飾の一部になっているのを私は想像した。
 
 
 
 ――あと少しだ――。
 私の中の、不気味な修羅、、が、抑揚のない声でそう言った。でもその時、私は何か違和感のようなものを覚えていた。陰影とはまるで無縁の、まばゆい日差しが支配するこの国で、一体私は何をしようとしているのだろう。一瞬、そんな思いが頭をよぎった。それはまるで白昼の悪夢のように、ひどく場違いなもののようにさえ思われた。
 けれど、それからの私は冷静だった。その瞬間を乗り越えると、自分でも戸惑ってしまうくらい、次の行動に移ることにおいて、私の心は決まっていたのである。
 
 
 部屋に入って落ち着くと、私はすぐに「お茶を入れようか?」と言った。ベッドの脇にある、緑色のびろうど張りのソファに、今彼は座っていた。両手を広げて背もたれの上に乗せ、満足そうに脚を組むと、目を輝かせて「うん」と言った。――モントリオールでともに過ごした日々を、私はふと思い出した。彼はお茶が好きだった。あの時も彼は台所に座って、私がお茶を入れるのを嬉しそうに眺めていたのだった。
 部屋には備え付けの茶器があった。速沸式の湯沸かしのスイッチを入れ、銀器を真似て装飾を施してあるステンレス製のポットに茶葉を入れながら、私は聞いた。「今はどうしてるの?」彼は伸びかけた頬髭を触りながら、「まあ、色々とやってるよ。商業的なリサーチとか、あと、親父の会社の手伝いも少し」と答えた。彼の父親は、六百人ほどの社員を抱える配送会社を経営していた。チュニジアでは相当に裕福な家庭で、それが彼のお坊ちゃん気質を育て上げたのは間違いなかった。私はいつかどこかで、アラブでは遊牧の伝統から、長男ではなく末の男子に跡を継がせるということを読んだことがあった。長男には、家を離れて独立し、別の土地で新たな一族を増やすという使命が与えられていた。そして、父親の築いた財産を継承し、守っていくのは末の息子の仕事だということだった。彼は末子で、長兄は既に移民としてカナダに渡っていた。ならば父親は今の会社を彼に継がせるつもりなのだろうかと私は憶測したが、彼が幼い頃から後継者として育てられたというような雰囲気はなかったし、またかつて彼が移住を希望してカナダに滞在していたことを思い出すと、その可能性はないように思われた。あるいは父親は彼に見込みがないと思っているのかもしれない。自立できればと思いカナダに渡らせていたのだが、諦めて帰って来たのでいずれやる気と実力を見せるかどうか、少し会社の仕事をさせてみて様子を見ている、とでもいったところだろうか……。
 彼を見つめながら、色々と推測してみたが、相変わらず彼は具体的なことを多く語らなかったので、結局私の考えは想像の域を出ることはなかった。けれど、彼ののんびりとした様子からは、今父親の会社を継ぐべく教えてもらいながら日々勉強中であるといった気張りのようなものが全く伝わってこないのは確かだった。

 シナモンとカルダモンとクローブのフレーバーティーが香りを立て始めたので、私はそれを二つのティーグラスに注いで、彼の前のテーブルに置いた。そして、「ねえ、」と言うと、テーブルを回って彼の近くに行き、ソファの隣に腰かけた。「アラビア語の書き方を教えてくれない?」無邪気な様子で、彼の腕に身を寄せる。彼の体が、少し身じろぐのを感じた。「例えば、どんな言葉を?」彼が言う。「そうねえ……。簡単なのでいいんだ。そうだな、 〝ありがとう〟 と 〝さようなら〟 にしよう。私ね、この部屋をチェックアウトする時、ボーイさんをクスッて笑わせたいの」私の言葉につられたかのように、彼はクスッと笑った。それは鼻先を少しだけ鳴らして笑う、私の好きな仕草だった。
 ホテルの備え付けの便箋に、彼はペンで書きつけた。 〝ありがとう〟 は 〝シュクラン、、、、〟 、 〝さようなら 〟 は 〝マアッサラーマ、、、、、、、〟だ、と、紙面の几帳面な文字を右から左になぞりながら、読み方も教えてくれた。
ありがとうシュクラン
 私が早速発音して礼を言うと、彼は満足そうに「Good.」と言った。
ペンを置いた彼の右手の上に、私はそっと自分の手を重ねた。三年ぶりに感じる、彼の肌の感触。熱いティーグラスを持っていた後の私のてのひらは、何かそれ以上のものを伝えようとする熱を放っていた。王様然とふんぞり返っていた彼が少し姿勢を変えて、こちらに胸を開くのがわかった。
「また会えて嬉しい」
 彼の腕に頬をぴったりつけて、私は言った。自分で驚いたくらい、それはシナリオを超えた、素直な気持ちだった。……何秒かの間、私は私自身と闘わなければならなかった。彼の腕に寄り添った途端、彼のつけている香水の匂いが漂ってきて、心が揺れ始めたのだった。――嗅覚は記憶を呼び覚ます場所と、強力に結び合っている――。彼との様々な思い出が、猛スピードで駆けてきて、鼻腔を貫いていった。それは、切なさと興奮と後悔と失望の入り交じったとてつもない気持ちを私に投げつけていった。
 ――その時私は少し涙ぐんだのかもしれない。優しく慰めるように彼の大きな手が伸びてきて、私の頬を包んだ。
「そんなに俺に会いたかったのか?」
 泣くほどに――。彼は私の手を取り、ベッドの方にいざなった。

 私はその間、何か未知のことを行おうとする時に味わうほとんど全ての感情を味わっていたかもしれない。彼の息づかいに悦びを、彼の手の温もりに危うさを、そして彼の体の重みに、最大の恐怖心を。

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