するりと起きても愛されますよ
目覚めた瞬間になだれ込んでくる思考は、夢見たことの続きなのだろうか。それとも秩序の世界に戻った瞬間、抽斗の一番手前に入っているものなのだろうか。
久々にするりと起きることができた。随分と長い間、床につくと1日を取り返したくなるように脳味噌がしゃんとして、目覚めると夢現の夢の方へと舵を切り布団に抱かれていた。天邪鬼に惰眠を貪る日々に、春眠暁を覚えずだの三寒四温で自律神経がどうのこうのとかばいながらも厭うていたのだった。
先週あたり、(きっと私は、うまく起きられないだめな自分を作り出したいのだ)と、アドラー心理学に倣って観念した。自分をおとしめて責めて苦しみたい。かわいそうな自分で居続けて守られたい。そうした目的があるのだろうと認めると、ようやく許してあげたくなる。(するりと起きても、愛されますよ)。そうした心持ちでいると、快く朝を迎えられた。
ヒーリング音楽とやらを枕元で夜通し流してみた。普段より睡眠時間は短いのに、脳が澄んでいる感覚がある。今朝は、目覚めるや否や「私はだめな自分を蔑みたいのだ」、「するりと起きても愛される」と呟いてから体を起こした。抽斗手前のがらくたが、寝床に散らばる前に。
昨晩はたっぷりとカレーを作ってもらい、心がひたひたと満たされている。「人にご飯を作ってもらうのは、こんなに心満たされるものなのね」とつぶやくと、「それが僕のいつも味わっている気持ちだよ」と贈り物みたいな言葉をもらった。生活は、意義あることを意味のないもののように感じさせてくるのが怖い。何度でも、(私は意義ある活動をしているのだ)と見つめ直して認めてあげないと、簡単にずるずると落ちてゆく。
私は今日、するりと起きた私を愛せている。大げさに愛でて、こういう日を増やしてゆこう。体より、心より、言葉から。眠れない夜に。起き上がれない朝に。「私はするりと起きても愛される」
一晩寝かせたカレーから、隠し味のセロリが香ってきた。
生きる糧