
貧しいから(合理的判断ができず)愚かになる、、、という事だそうだ
以前プレジデントオンラインに「本人は節約のつもり…貧困層がスーパーの特売ではなく「コンビニのカップ麺」を平気で買ってしまう残酷な理由」というタイトルで書かれている記事を読んだ。
お金の教育のサービスを開発しつつ、お金の教育に関係する情報を発信する為、様々な記事に目を通しているが、この記事のタイトルを読んだ時に、お金を「使う」というテーマで何か学べるかな、と感じ記事をブックマークしておいた。
しかし内容を読み進めると、お金を「使う」という事よりもお金がない状態が更にマイナスな状況を生み出してしまう可能性もあるという記事の内容であったため、少々驚きをもって記事を何度か読み直したのである。
【貧しいから愚かになる?】
記事には次のように表現されていた。
ようするに「愚かだから(合理的判断ができず)貧しくなる」だけでなく「貧しいから(合理的判断ができず)愚かになる」という機序も明確に存在して、貧困層をますます貧しくしてしまうのである。
このような状況を作り出してしまうのは貧困からくるストレスが原因となるようだ。なぜならば、「(貧しい)人は脳内の認知的リソースのほとんどを「生活を無事にやりくりするリスクマネジメント」に割かなければならなくなる。(よって)ほかのことを考えられなくなって、非合理的な判断に奔ってしまう。」という事だ。
このことを具体的には次のように説明していた。
語弊を恐れずに言えば、貧困層がしばしば非合理的な行動――たとえば、スーパーでなくコンビニに行って特売でもないフルプライスのカップ麺やレトルト米を節約しているつもりで値札もろくに確認せず購入してしまうような行動――をとってしまうのは、かれらが逼迫した生活を送っていることによって脳内の認知的リソースの余裕がなくなり、その結果として「バカになってしまっている」からだ。
また、経済的に余力がある人は逆に、お金が与えてくれるゆとりから経済的に賢明な選択肢を模索し、より豊かになる事ができるという事も言えるそうだ。それを次の通りに説明していた。
高所得者は賢いから高所得者であるだけではなく、高所得であるという状態そのものが認知的リソースの余裕を生み「より賢明で合理的な判断」を生活上でも安定的に維持しやすくして、大切な財産を無駄遣いから守り、所得をさらにブーストさせているということだ。
私が投稿した記事には貧しい状況から抜け出し、豊かな経済力を手に入れた方について触れたこともあるので、この記事に書かれていた貧しい人全員に当てはまるわけではないだろう。また、この説をどのように受け止めるかも人それぞれ異なるだろう。
しかしながら、私はこの記事の中に書かれていた、「(貧しい)人は脳内の認知的リソースのほとんどを「生活を無事にやりくりするリスクマネジメント」に割かなければならなくなる。」ことについて立ち止まって考える時を持ったのである。
なぜならば、日々の生活を無事にやりくりできるかどうかというストレスは決して小さなストレスではなく、このストレスとの戦いは大きな体力を消耗させ、記事の中で書かれていたように、経済的にゆとりのある人たちが手に入れられる「より賢明で合理的な判断」に至ることは体力的な勝負という側面があるだろうと感じたからだ。
以前GAZKID$のコンテンツサイトで「お金ってどうして大切なの?」という記事を投稿したことがある。
その中でお金が生活を守るツールとなっており、お金は我々に衣食住の安定、さらには娯楽や交際費をもたらしてくれると書いた。そして衣食住や娯楽・交際費は「命の営み」すなわち「人が生きる」事を意味しており、少し極端だが、「お金は命を守ってくれるツール」であると表現した。
お金で幸せや愛という感情は買えない。しかしながら、生活の安定は得られるのである。生活の安定が失われると、幸せや愛、友情などは二の次になり、やはり貧しさの中で幸せを見出すことは不可能ではないが、決して簡単な事では無くなってしまうのである。
【お金がないからできないという苦しみ】
少なからずの人はお金がなくて何かを諦めたという経験があるだろう。お金持ちではない限り、経済力にはそれなりに限界があるため、やれる事とやれない事を経済量の制約が決めるという訳である。
しかし、衣食住の安定が得られないような状況だと経済力の制限は「やれる事とやれない事」との選択ではなく、生活の安定そのものが天秤にかけられ、生活の〇〇の安定と〇〇の安定のどちらかを選択するというような状況になってしまう。私の頭の中では例えば、洋服か食料か住まいか、、、という事である。もし住まいを選択するのであれば、当然洋服と食料は諦めなければならなくなるという事である。少し大げさな例えかもしれないが、生活の中から諦めるものを選択するというイメージを同じ様に持ってもらえたら幸いである。
このように、貧しさは生活の中から「諦めるもの」を選択するよう、人に迫るのである。
衣食住の中から「諦めるものを選択する」事は決して簡単な事ではない。なぜならば、人々の生活の営みそのものを意味し、生きる事を意味するのが「衣食住」であるからだ。
なので、例えば食費を我慢して空腹をしのいだり、着るものを買えずにずっと同じものを着続けたり、さらには住むところを追われるような経験というのは、命の営みが脅かされ、やはりその苦しみが大きいことは想像にたやすいのである。
あらためて考えると、貧しさを抜け出し、経済的な豊かさを手に入れる為に必要な体力は計り知れず、今回の記事が説明するように、貧しさが人の体力そのものを奪ってしまうという事は確かに間違いとは言えないのである。
【経済については準備ができる】
お金の教育に取り組む保護者の願いの一つは子供たちに「より豊かな人生を実現させる為の経済的な知識を身に着けてもらいたい」という事だろう。
この世の中が資本主義経済を中心に回っている以上、子どもの幸せを願う親には「お金」の事がついて回る。より豊かな人生の実現は、やはり生活の安定の上にあるからである。
お金の教育に取り組むとお金持ちでも「いつもお金がない」という不安を持っている人がいることも知る。記事などの情報媒体を通じてである。
しかしそれはお金の「使い方」の知識がないだけであり、お金を「使う」事が学習テーマとなるお金の教育の視点からすれば、「いつもお金がない」という不安から抜け出すにはお金の教育を受けることが解決策となる事が分かる。
簡単に言ってしまえば、お金持ちであるという事はお金を平均的な水準よりも「稼いでいる」のだから、支出を平均的な水準に戻せばそれだけで「いつもお金がない」という不安は解消される。
それができないと言うのであれば、それはもう本人の問題となるが、お金の現実から見れば、支出が所得を上回ってしまえば、いくらお金を「稼ぐ」事ができても「いつもお金がない」状態となってしまう事は原則ルールになるのである。
お金を「稼ぐ」事が上手でも、お金を「使う」事が上手でなければ、生活は「いつもお金がない」「今月もぎりぎりだ。」というストレスにさらされてしまう。
お金の能力と知識にはバランスが必要なのである。
しかしながら、お金の教育に取り組む事で子供たちは早期にお金を「稼ぐ・使う・貯める・運用する」という事を学ぶことができ、お金に関する能力と知恵をバランスよく身に着けることができるのである。
子どもの将来の幸せには「お金の事」がついてくる。
そうであれば、出来るだけ早い内からお金の能力と知識をバランスよく育むのも、学歴社会で生き延びるための取り組みに加えてもいいのかもしれない。
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