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教会の問題

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キリスト教会はとても居心地のよいところです。でも、満点を期待してはいけないでしょう。たくさんの問題を抱えています。とくに内側にいると見えないものを、なんとか見ようとするひねた者が…
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#信仰

語る者のことば

語る者のことば

説教塾ブックレット。21世紀になってから、「説教塾紀要」の一部を一般に広く知ってもらうために、というような形で発行されたシリーズがある。その第11弾として、2012年に『まことの説教を求めて』が発行された。副題に「加藤常昭の説教論」と付いており、著者は藤原導夫牧師である。説教塾の一員であり、要でもある。
 
今回は、その書評のようなことをするつもりはない。ただ、そのごく一部から励まされた点を証しし

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『信じる者は破壊せよ』(キャスリーン・ニクシー;松宮克昌訳・みすず書房)

『信じる者は破壊せよ』(キャスリーン・ニクシー;松宮克昌訳・みすず書房)

これはキリスト教全体に関わるような批判の書である。キリスト教が、ギリシアやローマの文化をいかに破壊したかを示す。
 
もちろん、ローマ帝国の許で、キリスト教は不遇な扱いを受け続けてきた。だが、ローマ帝国自体の弱体化もあり、その他多くの事情が重なって、ついに帝国公認の宗教となる。つまり、権力者がこの宗教をメインに扱うようになったのだ。
 
権力を有するようになったキリスト教会が破壊をした――のかどう

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見えざる教会

見えざる教会

聖書を直接読めるということは、古代においては特別な能力の持ち主であっただろう。殆どの人にとって、聖書は「聞く」ものだったと思われる。いまでも、礼拝説教を私たちは「聞く」。
 
音声は、時間と共に一方向に届けられる。絵画と違って、音楽はその芸術性において、どうしても時間性が関わってくる。音声も同様だ。聖書を目で読むとなると、1行前に戻ることもできるが、聞くとなると、そうはいかない。つまりは、ぼーっと

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安息日とは何か

安息日とは何か

安息日とは何だろう。ずっと気になっている。そもそも「安息日」の「日」は何と読むのがよいのだろうか。聖書により、「び」「にち」「じつ」と、なんと3種類あるのだ。
 
もちろん、それは「休みの日」である。キリスト教徒は、日曜日を安息日だと呼ぶ。元々は、旧約聖書の時代に、神が世界を創造したときに7日目を休んだことから、7日目を人間も安息せよと命じたことに基づく。但し、このときには土曜日が安息日であった。

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授業のたとえ

授業のたとえ

これは学習塾の話である。教師の立場の話である。子どもたちに、受けてよかった、と思われることを語りたいと思っている。言うまでもないが「ウケて」ではない。
 
テキストを解説するのは当然。書いてあることが分かる。もちろん。それを基にして、問われてきた問題に解答することができるようになる。そうありたい。その連続が、入試合格へと導くことになる。それが目的だ。
 
だが、それで終わりなのか。それが目的かもし

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聞く耳をもって聞く

聞く耳をもって聞く

信仰は一つ、と聖書の中に書いてあるからと言って、誰もが同じ信仰をもつべきだ、と言い始める人がいるから、厄介なことになる。否、古来キリスト教会の歴史は、そのようなことを根拠にして、強大な権力を保ってきたのが実情である。人間たるもの、権力欲が善意の陰に働くことを抑えることは、できなかったようである。また、それを見抜く目、意識する反省概念を持ち得ない、というのがその本性にあるのかもしれない。
 
なんと

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言葉の通じない相手

言葉の通じない相手

事細かに描写はしないことにするが、電車や駅で、ひどく不愉快に感じる事態に出会うことがある。小さな不愉快は日常茶飯事だが、これほどは、というものだ。若い人だと、絡んでくることはまずないが、年配の人のほうが、より鈍感で、厚かましいことがある。口で言ってくるからだ。
 
いや、それはおかしいですよ。私も、昔ならば言ったかもしれない。だが現実には、逆ギレされたという報道が頭を過り、口論はしないほうがいい、

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聖書を説かずして聖書が命となる

聖書を説かずして聖書が命となる

イエス・キリストだったら、何と言うだろうか。どうするだろうか。キリスト者は、しばしばそれを考える。答えが出るわけではない。それはこうだ、と決めつけてしまうことはできない。だが、そうすることが、信仰のひとつの原点であると言えるだろう、とは思う。
 
「十字架につけろ」と叫んだ人々のあの熱狂は、エルサレム入城から一週間と経たなかったときに燃え上がったが、現代の情報過多の中で、人の性がかつての時代と変わ

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本質が露呈し始めているために時代は急に変わる虞がある

本質が露呈し始めているために時代は急に変わる虞がある

日に日に情況が変わる。感染症と医療の現場、また経済的目論見。大切にしなければならないものが、たくさんある。それらをどう成立させていくか、そこに政治的手腕が発揮されようが、民主社会であるならば、一人ひとりがそれを担っているはずである。都合の好い時だけ、政治が悪い、と言い放ち、自分が正しいというテリトリーを守ろうとすることが、知識人の中にも蔓延している。これではむしろ、ただのガス抜きを演じているだけと

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聞くに堪えない

聞くに堪えない

隠退(引退)牧師たる加藤常昭氏へのインタビューが、NHKラジオR2で2週にわたって放送された。私の場合は録音させてもらったが、6月半ばまで、ウェブサイトで聞くことができるので、関心をもたれた方は、直接アクセスできる。加藤氏は哲学を学んだ方でもあり、その話は、明快で、筋が通っている。評価はいろいろあるかもしれないが、今日の日本の教会の説教に多大な影響を与えた人の声を、一度受け止めるとよろしいかと思う

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仏教の魅力

仏教の魅力

「お説教」という言葉がどこからどのように発生したのか知らない。「お」は多分、意味を低く下げるときの一種の揶揄として(「坊ちゃま」より「お坊ちゃま」のほうが悪いニュアンスになる)付けられたのではないかと推測するが、別に「説経」とも書くところをみると、仏教の伝統の中での用語ではないかと思われる。意味は、仏の教えを説くということのはずである。
 
近ごろ、僧侶が震災のときに人々を苦労して助け、慕われた場

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教会への思い

教会への思い

教会に文句を言ってはならない、という人もいる。特に牧会している立場からすれば、それは極悪のように感じるかもしれない。理念としてはそうである。ただ、組織としての教会は完全なものではないのだから、それに対してものが言いづらい人たちの代わりにと思い、私は、言うべきことがあれば言いたいと思っている。
 
また、教会組織に属するが故に、気づかないような問題点には、気づいた者が指摘する義務があると考えている。

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好感の背後を思えば

好感の背後を思えば

たとえば少年時代に、少年院に行った者もいるくらいの不良仲間に入り、盗みを働いたことがあったとする。こうした経験が人生を狂わすというばかりでなく、その後キリストに立ち帰ったというのならば、これは神の業として、証詞をする時に触れないではおれない出来事となるだろう。洗礼を受ける前に、キセル乗車をしていたことを電鉄会社に告白して、許しを受けた私のような者もいる。駅長さんは渋い口調だったが、もういいから、と

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人間のにおい

人間のにおい

教会に清さを求めて来る人はいまもいる。特に日本でつくられたテレビや映画では、教会に対するステレオタイプな描写が多いから、それを見て教会のイメージをもつしかない人は、ますますそういうところだと思う可能性があると言えるだろう。
 
もちろん、キリスト教を毛嫌いする人もいて、そうした人は、SNS関係から、教会に行く人の見にくい発言を見慣れているということで、教会とは醜いところだと思い込んでいる場合もある

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