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本質が露呈し始めているために時代は急に変わる虞がある

日に日に情況が変わる。感染症と医療の現場、また経済的目論見。大切にしなければならないものが、たくさんある。それらをどう成立させていくか、そこに政治的手腕が発揮されようが、民主社会であるならば、一人ひとりがそれを担っているはずである。都合の好い時だけ、政治が悪い、と言い放ち、自分が正しいというテリトリーを守ろうとすることが、知識人の中にも蔓延している。これではむしろ、ただのガス抜きを演じているだけとなる。
 
政治と宗教との関係が、広く知られるようになってきた。これも、必要以上に声高に叫ぶのは、えてして、いま初めてこれを知った者か、これまで知っていて問題視することのなかった者である。地道にそれに対する活動をしていた人は、冷静に、語るべきことを語っている。正義面を派手に演ずる者ほど、実は恐ろしい。風向きが変われば、また別の方面で正義面をするからである。つまり、つねに自分が正義なのであって、イデオロギーも世論も、自分に仕える道具として利用するばかりなのである。こうして、世の中はいくらでも変わっていく。
 
それが、戦争一色に染まっていった歴史である。これからもそうなりうる、ということである。時代の空気は、リバーシ(オセロ)の如く、あっという間に一つの色が多数になる。それまでいくらカッコいいことを言っていたとしても、自ら喜んで「転向」するというのが、大衆の特徴であるとも言えよう。
 
そうした人間の性を知るために、たとえば心理学というものがあってよいし、あったはずだ。そうした人間の実験例のようなものが、歴史の中に現れているとすれば、私たちは歴史を学ぶ意義が、そのためにこそある、と言ってもよい。
 
勘違いをしたくないが、信仰をもっているからとか、聖書を読んでいるからとか、そんなことは、これらの事態の特権には、殆どならない、という点を弁えておかなければならない。教会の中にも、世と同じように、上記の誤りがたくさんある。頭がよいとか、社会的地位があるとか、そんなことも、全く関係がない。むしろ、ファリサイ派の人々の例が示すように、エリート意識がある故にこそ、大きな力を有するために、危険である。教団のリーダーや大学教授こそ、教会全体をねじ曲げる潜在的な力を有していると警戒したほうがよいくらいだ。
 
人間を見て、あの人がそう言うなら私も、というような者が、いくらでも右へ左へと動いていく。風に揺れる葦である。そしてそれは、世の終わりまで混在しているということも、イエスが予告している。私たちは、聖書の言葉によって、生かされるはずだ、信徒の頼るべき中心のひとつは、そこであろう。聖書の言葉を、自分流に解釈して理解するという点にあるのではない。
 
信仰を、スピリチュアルな飾りとステイタスのようにしか考えられない人が、説教をしている教会があるだろう。それは、神道だとか仏教だとかと言いながら、その意味を知らず、習俗として身に着けていることと比較できる。それらの教義や意味をよく知る人が少数いるのは確かだが、少なからぬ人々にとって、習俗に過ぎない可能性がある。キリスト教会も、同じである。習俗と趣味とがその本質であるようなところは、少なくとも、聖書の歴史が刻んできたような命と、つながるようなものをもたないであろう。
 
私もまた、そう言っていながら、巻き込まれていくようなことにはなりたくないものだ。そのために、自分に注視するのではなく、天を見上げて、命の言葉を、今日もまた受けようと求めている。わが思いでなく、主の心が成るように、と祈りつつ。

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