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聖書を説かずして聖書が命となる

イエス・キリストだったら、何と言うだろうか。どうするだろうか。キリスト者は、しばしばそれを考える。答えが出るわけではない。それはこうだ、と決めつけてしまうことはできない。だが、そうすることが、信仰のひとつの原点であると言えるだろう、とは思う。
 
「十字架につけろ」と叫んだ人々のあの熱狂は、エルサレム入城から一週間と経たなかったときに燃え上がったが、現代の情報過多の中で、人の性がかつての時代と変わらないのだとしても、暴力的な言動や、感情の暴発が、加速することは十分考えられるだろう。引き返せないスイッチを、一気に押してしまうようなことも、きっと予想するよりも簡単に起こるだろう。
 
問題は、その「起こる」が、自然に起こるかのように、日本人は思い込んでしまうということだ。自らが「起こす」のではなく、自然とそのように「なる」というのが、日本の言語のひとつの特徴だ。ひとは言語により思考する。言語のもつ性質は、言論の表現を支配し、行動を決定する。怖いことではあるが、誰も責任を負うつもりはない、というのがこの国の常態である。政治家然り、民衆の一人ひとり然り。
 
イエスが、汝らのうち罪なき者石を擲て、と告げたときに、ユダヤのカッカきていた男どもが、よくぞ自制したものだと思う。これが現代の世界なら、次々と石が飛んだのではないかと想像する。
 
力をもたない者、弱い立場の者、そこにイエスは近づいたのは確かだ。そのために、癒しという業も用いた。病気を治すのが最終目的ではないはずだが、それは神の業を示し、人々の社会復帰をもたらした。それは、この世界で「生きる」ことを可能にした、と言ってもいい。
 
イエスは、どんな先駆者も、預言者も、偶像にはしなかった。ただイエスだけに、人々は着目すればよかった。モーセだとか、エリヤだとか、人々はイエスに期待した様子も見られたが、イエスはただイエスだけであり、それでよかった。イエスこそ、という見方を、私たちはしなければならないのだ。政治的にも、宗教的にも、圧迫されていた弱い立場の人々が、命ある者だとして自らを認めるためには、それが必要だった。
 
それに引き換え、生ぬるい地上の現代の教会では、没落し、未来も失せようとしている教会組織をどうしようかともがいている。もがくくらいならば、まだよい。自己義認に邁進し、挙句は「牧師」という偶像を飾り、拝むようなことを繰り返していることがある。さらには、それに気づかないというのが、帰り道のない一本道を、誤った方向に突き進む姿にしか見えないことがある。どんなにひとは、偶像を求めるものか、イスラエルの歴史から、学び損ねたのだ。
 
アブラハムも、間違っていた。アブラハムも、人間であった。アブラハムをすら、偶像視しない聖書の読み方を教えられる。そして、「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない」という、聖書ではない言葉を挙げることによって、聖書の、より深いところへと、私の魂の、より深いところへと、そっと諸刃の剣を差し入れられる経験をした。
 
ただ聖書の言葉を並べて、さも聖書を語ったかのように錯覚している偶像と、なんと違うのだろう。政治を批判することで、さも自分が正しいかのように錯覚している偶像と、天地ほどの違いがあることは、明白である。
 
何度傷つけられても、イエスはそこにいる。何度打ちのめされても、イエスがそこにいる。私たちが「向きを換える」ことによって、そこに待ち受けるイエスに会うことができる。なぜなら、イエスはつねにすでに、そこにいるのだから。
 
神の救いの業と祝福の心は、私たちがつい思い描くほどには、小さくはない。徹底的にひとの力の無さを思い知らされた魂ならば、まだまだそこから、旅立つチャンスが与えられている。このとき、聖書の叙述は、なにも説明などされなくても、すべてが生き生きと、私の中で浮かび上がり、輝くのである。

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