『信じる者は破壊せよ』(キャスリーン・ニクシー;松宮克昌訳・みすず書房)
これはキリスト教全体に関わるような批判の書である。キリスト教が、ギリシアやローマの文化をいかに破壊したかを示す。
もちろん、ローマ帝国の許で、キリスト教は不遇な扱いを受け続けてきた。だが、ローマ帝国自体の弱体化もあり、その他多くの事情が重なって、ついに帝国公認の宗教となる。つまり、権力者がこの宗教をメインに扱うようになったのだ。
権力を有するようになったキリスト教会が破壊をした――のかどうかは知らない。一般人が、偶像を破壊せよということがキリスト教の教えだと知ったとき、暴力的に振舞うことが公然と認められるとあっては、楽しくて仕方がなかったのかもしれない。暴動というのは、大抵そういう心理が働くものだろう。「やっちゃえ、やっちゃえ」と。
どう弁解しようとも、文明を破壊したのはキリスト教の責任である。ギリシア彫刻の多くが首を斬られているのはそういうことに基づく。額に十字を刻まれた像もたくさんある。もし遺されていたら、どんなに素晴らしい美術作品をいま私たちは見ることができたであろうか。
もっと残念なことがある。古代の文献が焚書の目に遭ったのだ。確かに私たちは、それなりにギリシア哲学や文学の文献を手にしている。だが、引用でかろうじて知られるとはいえ、原典を永遠に紛失したものも数多い。著者によると、もう殆どの文化的研究や文書が、キリスト教側の攻撃により、この世から消えてしまったのだ、という。もしもそれらが遺されていたら、私たちは危機における知恵や記録を、数多く知ることができたことだろう。
こうした点を、歴史的な足跡を辿り踏みしめながら、著者は各地での出来事を記述してゆく。特に、ヒュパティアについては、同じ女性としての思い入れもあるのか、非常に詳しく語っている。また、後々の文章においても、ヒュパティアのことを思い出して触れるような書き方をしている。ヒュパティアというのは、5世紀初頭、エジプトのアレクサンドリアで女性哲学者として活躍した人物である。その知恵は、映画『アレクサンドリア』でも同情的に描かれている。彼女についての文献も、歴史上実に少ないとされるが、著者はもちろんそのすべてに目を通している。私もこの映画のことで彼女を知り、研究書も読んだ。実に惜しい人であった。なんの謂われもないようなことのために、彼女は、キリスト教徒により、言葉にするのも酷いくらいに惨殺されたのである。
こうして紹介してくると、まるで著者が、キリスト教の罪を暴きセンセーショナルに本を売ろうと喚いているかのように聞こえるかもしれない。だが、そうではないと思う。
その「イントロダクション」の最後に、本人は注意書きを置いている。著者自身は、善良なキリスト教信仰の恵みに与る一人である。そういう人々を攻撃することを意図した本ではない。そうは受け止めないで戴きたい。ただ、かつてどういう事実があったか、それを知ることは大切だ。正確ではないが、およそこのようなことを告げているのだ。また、これは通俗的であるが、豊富な文献と注釈が付せられている。索引と文献や出典などだけで50頁以上を使う。本文が260頁ほどなので、なかなかの量である。歴史的事実を述べるのに、相当の根拠を以て記しているというわけだ。果たして歴史的にそれが真実であるのかどうか、それは私には判断できない。ただ、根拠なき指摘ではない、とは言えるだろうと思う。
むしろ、キリスト教側からすれば、あまりにこうした過去の歴史について、明らかにしてこなかったのだ。偶にその過ちを指摘する声が出たとしても、多勢に無勢ということで、その声を圧殺してきたような形になっていたのではないか。大陸の発見とか、大航海時代とか、体の良い表現で、その背後でやってきたことを隠してきた。南米の文明を滅亡させたことについてさえ、なにか正当化するような論理で以て、必要以上に騒ぎ立てないようにしてきたのではないだろうか。
私は時折述べてきた。私は、こうしたことをやってきたキリスト教を信仰している。どうぞ憎んで戴きたい。そして、私はそうした歴史を抱えるこの信仰の先達の中に自身を重ねて、悔い改めたい。これは、とても恥ずかしい宗教なのである。敬虔なクリスチャンであるとか、世の中を善くしてきたキリスト教であるとか、そんなことは少しも思わないし、そうした態度でいてはならない、と固く信じている。
そのため、本書の著者の姿勢には、たいへん共感を覚える。私にはできないような、文献をきちんと辿り、根拠を以て、キリスト教がしてきたことをフェアに提示する。「古代ギリシア・ローマ、キリスト教が招いた暗黒の世紀」というサブタイトルで、本書の性格を明らかにしている。逃げも隠れもしないということだろう。
宗教にまつわるスキャンダラスな言及は、原理主義者にとっては悪魔のように見えることだろう。そして、スキャンダルを世に明らかにしたような者は背教者であり、それを殺しても正義である、と思いこむ者が必ず現れる。キリスト教ではないが、そうした本の作者は襲撃もされているし、日本語訳者は殺害されている。キリスト教でも、そうした頭に血が上った者が危害を及ぼさないとも限らない。勇気ある著作だと、敬服する。
もとより、そのような危険があるということ自体が、本書の内容を証明することになるはずである。キリスト教は、そんなことを教えてはいない。キリスト者は、悔い改めるということを知っている。個人としても、かつての自分が如何に悪と罪の中にあって、そこから救われたを知っているのが、キリスト者というものである。そうでない者がキリスト者の名を騙っていてもゆるしてしまうのは、決定的に拙い。大いに悔い改めようではないか。掲げる宗教の犯してきた罪を知り、それを確かなものとして受け容れた上で、その先に注がれる恵みを受けようではないか。
もしも、そうしたことをごまかしてきた時代だったからこそ、キリスト教が文明や文化の最先端を走り、支配的になってきたのだとすると、私はそこにこそ問題があった、と考えてよいと思う。教会の発展と教勢の拡大などということを考えること自体が、間違ったことであり、とんでもない勘違いではないかとさえ思うのだ。
生きることへの希望と、そのための命としての愛、そのことを信じるという営みの中に、道を見出すなどというと、何を寝ぼけたことを、と言われそうである。だが、本書が指摘しているようなことから学んだ人は、そのように考えることの意義を、理解してくださるのではないか、と期待している。
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