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#眠れない夜に

檸檬

檸檬

わたしがいつからここにいるのかはわからない。キョウコが十五歳で、初めて恋をしたあたりだろうか。相手は塾の先生で、十歳年上で、彼女が中学校を卒業してから付き合い始めた。まだ子供だったから、淡い付き合いだった。春の夜、ドライブの帰りに夜景を見に行った。男と二人で宝石箱をひっくり返したような夜を見下ろした。その時初めて、彼女は心の中でシャッターを切った。網膜に焼き付けるように。この記憶を文章に落としこん

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短編小説|東京幻想

短編小説|東京幻想

 ビルの隙間に照りつける強い日差しを避けながら、長財布とスマートフォン、コンビニのアイスコーヒーを片手に信号待ちをする。隣に立つサキが大きく伸びをした。
「あー、暑くてやってらんない。早く帰りたいわぁ」
「ほんとだねぇ」
 タスク管理のアプリに残る未着手のマークのついた今日中に片付けねばならないあれこれを思い浮かべるとうんざりするが、長谷川ナツミは同期とのランチを終えた後のこの弛緩した時間が嫌いで

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散文 夏色に乞う

散文 夏色に乞う

進行方向に向かって座ったまま何キロで進んでいるかも分からないで、目的地に行こうとする。そんな私と同じようにスマホをいじるだけの乗客もみな、いつの間にか半袖に衣替えをしていた。

世界には黒と白しかないのかと思うぐらい彼らの服装は無彩色であった。色があるのは私だけなのか。多数に流される方がきっと楽だ。でも、私は色が好きだ。夏の毒々しいほどの名前の知らない赤い花とか、遊びに行くからと玄関に投げ捨てられ

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月と地球のペリドットパフェ

月と地球のペリドットパフェ

煌々と光る水の球。

暗闇に映える地球の青い光は、月の住民にとって神秘の象徴だ。特に、今日のような満地球は。

誰もが地下コロニーの外に出て、満地球を鑑賞している。もう十分鑑賞した私は、地下コロニーの出入り口であるハッチを開けて、自分の部屋に戻った。

満地球の日には、普段控えている甘いものを食べても良い日にしているのだ。今回は、あの地球をイメージした鉱物パフェを作ろうと計画していた。材料はバッチ

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短編「暮れなずむ朝顔列車 if・怪談」

短編「暮れなずむ朝顔列車 if・怪談」

※この短編は「暮れなずむ朝顔列車」のアナザーストーリーです。#眠れない夜に と云うものに相応しい物を描いてみ見ようかなと初めて怪談めいたものを描きました。先出の短編のイメージを保ちたいと思われる御方はお読みになられない方がよろしいかと存じます。あっちはあっち、これはこれと面白がって頂けるのであれば幸いにございます。果たして怪談と呼べるものか分かりませんけれど・・・。先出の短編を未読の御方は、是非と

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代理人

代理人

「ああ、本当にいたのですね」

 病室に入ってきたその人を一目見た瞬間、一度も会ったことが無いにもかかわらず、ぼくには彼がずっと探していた『その人』であることがすぐにわかった。

「はじめまして。こんばんは」

 彼は見た目通りの柔らかい声でそう言うと、軽やかな風を纏いながらぼくの方へとゆっくりと近付いてくる。どこかで嗅いだことのあるような、懐かしい甘いニオイと一緒に。その匂いを感じた瞬間、ぼくの

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狒々の山

狒々の山

 「怖い話って言うか笑い話なんだけどさぁ」

 二杯目まではビールで。三杯目をハイボールにかえたあたりから、頭が心地よい酩酊にふわりふらりと揺れていた。
 居酒屋特有の誰とも分からない話声、笑い声がどっと溢れたかと思えば、意識の外に消えていく。カランっとグラスのぶつかる音、ホールから聞こえて来る何かを炒めるジャッジャっという香ばしい音。そんな様々な音が、橙色のライトにまじりあって、ほどよく意識を鈍

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