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小悪人として

兄の人生から姿を消すと決断した数日後。
会社を休んだ俺は西岡家のリビングにいた。

「娘が、ピアノに興味が無い?」

西岡瑞樹の母親は首をかしげる。俺は今日、隣家の家庭事情に首を突っ込みに来た。

「そのようですね、どうやら。見ていて心苦しいものがあります」
「そんな筈は…娘はピアノ一筋で今まで…」
「当人は親の意向に応えていたつもりらしいです」
「ですが、あの子はピアノが好きです。それは確かに。幼い頃、あの子が言ったんですよ、『将来ピアニストになる』って」
「いつ頃の話ですか?」
「確か、五歳くらいの頃」
「当人は忘れてるんじゃないですか」
「……」
「一度、本人とゆっくり話し合った方がいいんじゃないかと。今日はその事を伝えに来ました」

西岡瑞樹の母親は動揺している。

「いえ、あの子はピアノが好きなんです。間違いありません」
「何を根拠に?」
「あなたこそ、何を根拠にそのような事を?」
「本人に直接伺いました。彼女はご両親の意向を息苦しく感じているようです」

言うと彼女は冷たい怒りを露にした。

「適当なことを言わないで下さい。娘の事は肉親が一番理解しています」
「ですから、何を根拠に?」
「あなた、失礼ですよ。それも凄く。自覚あります?」

家庭事情に首を突っ込みに来た、もとい、俺は今日失礼をしに来た。その方が正確だ。

「血がつながっていようと、他人は他人です。あなた方の考える娘の幸福と、当人の幸福は必ずしも重なりません」
「他人じゃありません、私の大切な娘です」

彼女はきっと『いい母親』なのだろう。俺は何も彼女の思考を矯正しようなどと考えていない。この家族の幸福を願ってすらいない。ただ俺は小悪人として、西岡瑞樹に仕返しをしたいのだ。だから俺は言葉を尽くす。

「私は、兄の人生を台無しにしました。あなた方と同じように、私の幸福論を兄に押し付けたからです。私は兄の事を、家族の在り方を誰よりも深く理解している…その傲慢が不幸を招きました。歪ですが私なりの愛情と言うやつが、兄にとっては苦痛になったのです」
「だからなんです?お宅の家庭の話は知りません」
「そうですね。大切なのはあなた達親子のこれからです。瑞樹さんはまだ若い、悩みも多い年頃です。彼女と本当に腹を割って話したことが、あなたにはありますか」
「勿論です、母親ですから」
「それは、瑞樹さんにとってもそうでしょうか?彼女は心からの本心を、あなたに打ち明けたことがあったのでしょうか?」
「あります。間違いありません」
「でしたら一つ教えてください。瑞樹さんがピアニストとして、一番好きな曲目は?」
「…モーツァルト、でしょうか」
「答えは『エリーゼのために』です。あなたが最後に聴いた瑞樹さんのエリーゼは?」
「……」
「エリーゼがどんな曲かもわかりませんか?作者の名前も」

彼女は沈黙している。

「ピアノ、お借りしてもいいですか?」
「え…はぁ」

ピアノが置いてある部屋は乾燥していた。ピアノは仄かに埃を被り、楽譜は不自然なほどに整頓されている。俺は蓋を開けて、指を鳴らして演奏した。ベートーヴェン作曲『エリーゼのために』…それは下手糞どころのクオリティじゃなかった。演奏と呼べる代物でもない。ただ、音を鳴らしているだけ…。俺は程々に演奏を中断した。

「ヤバイ、僕下手過ぎますね」
「……」
「これじゃ何の曲か分かんないな…もう少しいけると思ったんですが」
「はぁ」
「一度、瑞樹さんにお願いしてみたらどうでしょう?『あなたのエリーゼを聞かせて』って。僕より確実に良い演奏をしますよ。それだけです。僕がお伝えしたいのは」

彼女は訝しい目をしている。

「ちなみに今日は私の一存で来ました。兄は関係ありません。娘さんも関知してません。ご留意下さい。本日はどうも失礼しました」

失礼しました、人生で一番しっくりくる使い方をした。俺が玄関で靴を履くと、彼女は震えた声で尋ねてきた。

「瑞樹、才能無いんですか」
「無いですね、微塵も。断言します」

さて、仕返し終了だ。この家族の後の事は知ったこっちゃない。

そして、俺は兄の人生から姿を消した。

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