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社会人小説記録

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午前2時の女たち

午前2時の女たち

耳の中でパァン、と乾いた破裂音がした。それは普段の私とは全く無縁で、テレビドラマなんかでしか聞かないものだったが、この歌舞伎町という街によく合っていた。ぎらついたネオンなんかより、むしろこっちが本当なのだろう。常に危ない匂いを肌では感じるものの、実際に何かが起こることはないから、いつしかその刺激にさえ慣れた猛者のように振舞っていた。ただ平和ボケしていただけだということも知らずに。

 持っていた漫

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準備は念入りに

準備は念入りに

「あたしさ、ヤったんだよね」
 朱華にそう告げられたのは、高校二年生の夏休みだった。確か終わりの方だったと思う。当時の私はインターハイや選抜で毎年成績を残している強豪ソフトボール部に所属していて、日々練習に明け暮れていた。おかげで夏休みらしい夏休みはほとんどなく、彼女の家で宿題を写させてもらうことに楽しみすら覚えていた。
 部員の愚痴、顧問の愚痴、最近ハマっているドラマの話……いつもと変わらないは

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気の置けない仲人

気の置けない仲人

「だからね、思うのよ。恋人と賃貸マンションは一緒だって」
 ドン、とビールジョッキをテーブルの上に置き、私は鈴鹿に言い放った。彼が悪いわけでは決してないのに、男というだけで今は腹立たしかった。理不尽な敵意を向けられた彼は驚きながらも、可笑しそうに喉奥を震わせた。
「意味分かんない。どういうこと?」
「そのまんまの意味よ。じゃあ逆に訊くけど、鈴鹿はどうして今回のマンションに住むことにしたの?」
 テ

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知らぬが仏、言わぬが花

知らぬが仏、言わぬが花

 カーテンの引かれた窓ガラスを叩く微かな音が聞こえてくる。また雨が降り出したようだ。俺は小さく息を呑んだ。
 落ち着いていた心拍数がゆっくりと、確実に上昇していくのを覚える。内側で煮え滾った熱は行き場を失い、皮膚を生温く湿らせた。そのうち、それは首筋を伝ってTシャツの中へ滴り落ちた。
 浅い呼吸を繰り返しながら、俺は必死でキーボードを打ち続けた。そうでもしていないと、迫り来る不安と恐怖に飲み込まれ

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私のリョウくん

私のリョウくん

 私のリョウくんは、世間的に見て影の薄い人間だ。彼と面識がある人の中で、彼の顔をちゃんと覚えている人はそれほど多くないだろう。今だって、かけている黒縁の分厚い眼鏡に印象の全てを奪われてしまっている。どこかのメーカーが作った付属品にさえ負けてしまう男。それがリョウくん。けれど、そんなところもたまらなく愛おしい。
「……つまんない、かな?」
「え?」
 何度か瞬きをした。いつの間にか、隣で映画を観てい

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愉しみ

愉しみ

 ラミネーターの排出口から書店配布用のポップが少しずつ顔を出す。熱で硬化したラミネートフィルムは厚さを帯び、蛍光灯をキラリと反射させた。印刷して余分なところをカットしただけのコピー用紙には到底思えない。端までしっかりと加工されてから、ポップは黒い受け皿の上に落ちた。
 私は角を摘まんだ。軽く振る。『この本、売れてます!』という真っ赤なゴシック体がぴらぴらと揺れた。もちろんこれは販促ツールなので、書

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ひつようあく

ひつようあく

 白く曇った窓ガラスを通じて、夕暮れの景色がふわりふわりと移ろいでいく。平凡な街並みは親元を離れる前と大して変わっていない。このまま眺めていたら座席下のヒーターの熱も相まって眠ってしまいそうだ。久しぶりにマスカラで伸ばした睫毛の重みとコンタクトの乾きに耐え兼ねて瞬きを繰り返しながら、私は車内を見回した。それぞれの長椅子に乗客がまばらに座っている。立っている者は誰もいない。それもそのはず。多くの人は

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シロかクロか

シロかクロか

 大人の世界はグレーだ。
齢二十四歳、社会人になってたった数ヶ月しか経っていない私でさえ、それをひしひしと感じる。学校生活が人生の全てだった高校生の頃は早く大人になりたいと切に願っていたはずなのに。大学生になってアルバイトを始め、酒の味を覚え、他人と肉体的な関係も人並みに嗜んだことで大人の階段を呆気なく登ってしまい、気づいた時にはもう社会という大海原へ放り出されていた。小さな船の一クルーとな

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