愉しみ
ラミネーターの排出口から書店配布用のポップが少しずつ顔を出す。熱で硬化したラミネートフィルムは厚さを帯び、蛍光灯をキラリと反射させた。印刷して余分なところをカットしただけのコピー用紙には到底思えない。端までしっかりと加工されてから、ポップは黒い受け皿の上に落ちた。
私は角を摘まんだ。軽く振る。『この本、売れてます!』という真っ赤なゴシック体がぴらぴらと揺れた。もちろんこれは販促ツールなので、書店に並ぶのはまだ先だ。気泡が入っていないのを確認し、既に出来上がったポップの山の上に置いた。透明フィルムを手に取る。カットしたコピー用紙をその中に挟むと、再びラミネーターにセットした。
挟む。入れる。出来る。置く。たったこれだけをひたすら繰り返す。週2日、私がこの中小出版で編集アシスタントとしてアルバイトをする中で最も楽な作業だった。普段はSNSの更新、POSの取得、発送物の郵送など、編集部員の手が回らない雑務をメインに行っている。やり始め当初は、もっと編集部の仕事にかかわれないのかと不満に思ったりもしたが、大学3年生の私に他の編集部員と同じ仕事を任せられるはずもない。1年が経過した今では、これで良かったと思っている。むしろ、私はこの単純作業に密かな愉しみさえ見出していた。
加工したポップをまた一枚積み上げる。顔を上げ、大きく首を回した。
パソコン作業が必要な時、アシスタントの席は一番奥の窓際なのだが、こういった手作業の場合はこの『特等席』に座ることとなる。特等席、と言っても、デスク環境は向こうより最悪だ。書籍やグッズの入った段ボールや梱包材で雑然とし、何とか作業スペースを保っているレベル。おかげで何だか埃っぽい。それでも、私はこの席を気に入っていた。なぜなら、ここだけがワンフロアの編集部をごく自然に見渡すことができるからだ。
編集部はいくつかの島に分かれている。私のすぐ左隣がBL編集部で、目の前はコミック編集部。その向かいはライトノベル編集部。そして、通路を挟んで右側が営業部である。
編集部と聞くと漫画やドラマのイメージで常にバタバタしているように思えるが、実際は違う。時折談笑している以外は、基本的に静かだった。皆、パソコンに向かってそれぞれの業務を淡々とこなしている。そんな穏やかでゆるい空気の流れる編集部だったが、一企業であることもまた事実だった。
「すみません。赤城先生の原稿、6ページが抜けているみたいなんですけど」
BL編集部の三木谷さんが斜向かいに座る和田さんに声をかけた。三木谷さんは中途で最近入社した女性だ。マツエクでキャバ嬢並みに伸ばした睫毛とモスグリーンの特大カラコンが気にはなるものの、気さくで良い人だ。彼女の言葉を耳にし、BL編集部長の和田さんがキーを叩く手を止めた。小さくため息を吐く。
「あー、それ、松本さんが担当している作家さんなんですよねえ」
和田さんは困ったというように、ふっくらとした頬に手を当てた。
松本さんとは和田さんの同僚だ。私が入った当初、BL編集部はまだ立ち上がったばかりの部署で、編集部員はその二人だけだった。仲良くやっているようだったが、女性同士ということもあり、色々と不満も出てくるのだろう。ただでさえ口数の少なかった松本さんは、そのうち和田さんとほとんど喋らなくなった。そして、それを察した和田さんも距離を取るようになった。
そんな時、松本さんがデキ婚した。結婚しただけなら良かったが、子供ができてしまったとなると話が変わってくる。しかも既に4か月目だったらしい。翌月から松本さんは産休を取ることとなった。
松本さんが仕事に復帰するまでBL編集部は和田さん一人になってしまうことになる。しかし、数人の担当作家さんを抱える中、いきなり2倍の仕事量になるのは無理な話だ。ましてや責任感が強く、ストレスを溜めやすい和田さん。最悪の場合、過労死しかねない。そこで急遽三木谷さんが採用されたというわけだ。
「あー、そうなんですね。どうしましょう?」
「うーん……今日入稿でしたっけ?」
「そうです。今日の17時までです」
「17時、かあ」
和田さんは腕時計を見た。私はデスクの上のデジタル時計に目をやった。それぞれのデスクにはオフィス用の置時計が備え付けられていた。どうやら、今は15時過ぎらしい。
「あと2時間もないですね……ひとまず松本さんに電話して確認してもらっても良いですか?」
「分かりました」
三木谷さんは頷いて、席に戻った。和田さんは大袈裟に頭を抱えた。
性格上、彼女はわざとやっているわけではない。けれど、その姿は周囲には少し皮肉めいて見えてしまう。デキ婚して仕事を放り出した同僚に悩まされ、「私って、可哀想」と自己憐憫に浸っている……と言ったら言い過ぎだが、この状況に首を突っ込む者はいなかった。
唯一の女性部署だから男性陣が反応しづらいものあるだろう。女性社員がいるとはいえ、男性の方が多い。特に、ライトノベル編集部はいかにもヲタクという風貌の方々ばかりだ。皆、気づかない振りをしてパソコンに向かっている。ただいつも以上に息を潜めているせいで、重たい空気がフロアに沈殿していく。
200枚のラミネート加工を終えた。空気をかき乱さないよう、私はそうっと席を立った。
営業部の島へ向かう。書店や外での仕事が多い営業部のデスクにはほとんど人がいなかった。
「綾部さん、すみません。今、いいですか?」
小さく声をかけた。私に呼ばれた女性が振り返った。右耳だけ付けていたイヤフォンを外す。
「ポップ作り、終わりました」
「本当? ありがとう~」
綾部さんは半音高いトーンでお礼を言った。柔らかく微笑む。微笑む、と言っても口角が上がっているだけで、黒縁眼鏡の奥のつぶらな瞳は全く笑っていない。彼女はこの出版社ができて間もない頃からいる大ベテランの営業事務員だった。ポップ作業は彼女から依頼されたものだ。
「二宮さんって、今日就業時間何時まで?」
「あ、19時までです」
「じゃあ、もう一つ仕事頼んでも良いかしら?」
「もちろんです」
私はにっこりと作り笑いを浮かべた。
綾部さんと特等席へ行く。彼女は完成したポップの束とラミネーターを回収し、一度自分の席へ戻った。座って待っていると、再びこちらにやってきた。
「ごめん、そこの段ボール開けてもらってもいい」
「はい」
指示された段ボールのガムテープを剥がす。先ほど作っていたポップの旅行本が入っていた。
「見本誌作りって、前にやったよね?」
そう優しく尋ねながらも、眼鏡の奥の瞳はまた教えるのは面倒だと語りかけてくる。はい、と私は頷いた。
「じゃあ、ここから30部お願いしても良いかしら?」
「分かりました」
「ありがとう~」
見本誌に必要な道具を一式デスクの上に置き、彼女は去っていった。
私は渡された道具を作業しやすいように並べ替えた。右から、『見本誌』と刻印された赤いスタンプ、『この本、売れてます!』の赤文字と『見本誌』の青文字が印字された表紙用のA4ラベル用紙、『ここに注目!』とピンク文字で書かれた内側用のA4ラベル用紙、各章のタイトルをすぐ開けるようにするカラフルなインデックスラベル、そしてA5サイズの透明ブックカバー。先ほどのポップより工程が多いのは明らかだ。私は大きく腕まくりをし、ペン立ての中から大きなハサミを取った。
まず旅行本の小口と地にスタンプを押す。それから表紙用のラベルをカットし、表紙の左上と裏のバーコードに張り付ける。『この本、売れてます!』は帯が外れないよう、やや斜めにして右側へ貼りつけた。内側のラベルとインデックスは綾部さんから預かった見本を参考にカットして貼り付けていく。最後に透明フィルムを被せて完成だ。
作業自体は簡単。しかし、カットするものと貼るものが多い上、狭いスペースが散らかりがちなので、なかなか時間がかかってしまう。
小一時間ほどかけて7冊ほど作り終えた。ふう、と息を吐いた。まだまだ道のりは長い。続きをやろうと背筋を伸ばした時、入口の扉が開いた。背の高い若い男性と対照的に小柄な女性が入ってくる。ライトノベル編集部の吉木さんと営業部の有村さんだ。
「はあ~、面白かった。またご飯食べようね」
「はい、ありがとうございました」
吉木さんが会釈した。有村さんはひらひらと手を振って、自分の席に座った。吉木さんもライトノベル編集部の島へ戻っていく。その横顔はまんざらでもなさそうだった。おい、吉木。何をほだされているんだ。手を動かしながら、私は心の中で突っ込んだ。
吉木さんは今年入社したばかりの新卒社員だ。歳が近いという一点で、社内の恒例行事であるお花見の席では近くに座ることとなった。就職を機に京都から上京した彼は、実は内定をもらった後もギリギリまで悩んでいたようだ。理由を尋ねると、学生時代から付き合っている彼女と遠距離恋愛になってしまうからということだった。
さらっと言ったその台詞に私は感動せずにはいられなかった。これからも彼女を大切にして欲しいし、ピュアな恋愛観に自分も憧れる。だから、一時の感情で爛れた東京の空気に染まらないで欲しいと思った。
吉木さんが席に着くと、コミック編集長の浅利さんがふらっと立ち上がった。ゲラを持ってコピー機へ向かう。印刷をしている間、浅利さんは右後ろの有村さんに自然な様子で話しかけた。有村さんも吉木さんに話していたのと同じテンションでにこにこと応対していた。
ブスではないが美人過ぎない有村さん。それでいてちょうど良い明るさと元気さを兼ね備えている。男性が好意を持つのも当然だ。そして、それを彼女も分かっている。分かった上での計算だ。女性の中でトップの営業成績はダテじゃない。
そんな彼らの様子を見ながら、私、いや、全員が思った。
「浅利さん、お前は既婚者だろ」
と。彼は最近一回りほど年下の女性と結婚したばかりだ。けれど、当然のことながら、大手を振って彼にそれを言う者はいない。何せ、彼はこの出版社の中で唯一のヒットメーカーだ。右肩下がりの出版業界でヒット作を出すというのは大手でも難しくなっている。そんな中、彼の手掛けたファンタジー色の強いコミック作品は、5日で重版がかかり、あっという間にアニメ化へ漕ぎつけた。彼の作品が会社の売り上げへダイレクトに貢献している面もある。そういうわけで、彼に嫌われるとなかなか厄介だ。……そういえば、そのことで思い出したが、吉木さんも夏には部署がコミック編集部へ早くも異動になるようだ。
それからの約3時間、私は作業に没頭した。時間を気にしてはいたものの、就業時間内に終わらず、結局終わったのは19時半過ぎだった。綾部さんに「遅くまでありがとう~」と相変わらず半音高いトーンで感謝された。けれど、いつも学校で10分ほど遅刻して出勤しているし、綾部さんの目が最後までやるのが当たり前だろという調子で笑っていなかったので、ちゃんと終わらせて良かったと心から思った。
私はデスクの周りを片付け、私は帰る支度をした。お先に失礼します、と挨拶をすると、数人から小さな「お疲れ様です」が返ってきた。私は編集部を後にした。
いくつものオフィスが入っているビルのエントランスを通り、表参道の夜道へ出た。だだっ広い歩道は帰宅する人々が忙しなく行き交っており、左右に並んだビルたちがそれを煌々と照らしている。
小さな達成感を噛みしめ、私はゆっくりと歩き出した。お腹空いたなあ、と小さく漏らす。何か食べていこうかと思案しながらも、頭の片隅で今日の些細な出来事を振り返り、にやにやせずにはいられなかった。
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