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言葉にできない「     」

皆さん、こんばんは。綺羅です。

今日のnoteをご覧いただき、ありがとうございます。


今日、関西圏の緊急事態宣言が解除されました。

行動しやすくなるので、素直に嬉しいとは感じますが、ここで羽目を外しすぎて「感染爆発の再発」という事態は、なんとしても避けて欲しいと思う次第です。


皆さんは、家でお野菜を育てられたことはあるでしょうか?

私は、小学校低学年以来の、家庭菜園にはまっているわけなのですが、これも新たな感覚に触れられて、楽しく取り組んでいます。

お花の手入れをすることにも、似たような感覚になる瞬間があるのかもしれないですが、「自然」を直に感じ取る事ができ、自然も「生きている」ことを、感覚として感じ取れるからです。



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遠退いていた「生きている」

皆さんの中には、小学校の「生活」の時間で、お野菜またはお花を育てられたことがあるという人が、いると思います。

ちなみに私は、学校でホウセンカを植え育てた記憶があります。


今から思えば「生活」の授業では、そういった植物や動物を、自分で育てる心を醸成するとか、季節の恵みや旬に親しみ味わうといったような教育目標があったのだろうと思いますが、当時は違いました。

例えば、お野菜の収穫になると、誰か一人が

「僕(私)の方が、○○ちゃんのよりも大きい!」

と言い始めて、それを聞いた○○ちゃんは言い返すか、不満を持ったまま、淡々と収穫を続けるという出来事がありました。

先生たち的には「野菜の大きさは関係ないよ!」と、言いたかったのでしょが、そうした問題ではありません。

「その瞬間」に自分の収穫した野菜は、大きかったか?綺麗だったか?実をたくさんつけていたか?ということが、最大の関心事でした。

ですので、私は、毎回そんな雰囲気になる、収穫の時間が嫌でした。

誰かと競争するために育てているわけではないのだから、そんなやり取りを毎回聞かなければいけないのならば、先生が収穫してよと、思っていたのです。

そんなことを思っていても「生活」の時間は、小学校2年生までであったのと、3年生からは「理科」という授業に変わっていくので、ただ植物を育てるということは、なくなってしまいました。


それ以来の、家庭菜園であるため、苗をちょっと触るのも、土に触るのも、草を引き抜くのも、虫を野菜の葉っぱからどかせるのも、数十年振りです。

むしろ、はじめてまともに家庭菜園に興味を持ち、取り組みはじめた、と言ってもいいかもしれません。


ではここで、家庭菜園の中間報告を、させていただきたいと思います。



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家庭菜園中間報告

まずはジャガイモから。

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4月から、私が手入れをしています。

当時、ジャガイモの周囲には、ドクダミが大量発生していました。


ドクダミは繁殖力が強い上に、根も固く、深く地中に張っています。

観察用に少しだけ、遠慮気味に生えていてくれるのが理想なのですが、ドクダミとしては、そうもいかないのでしょう。

ですが、繁殖の猛威を放置しておけば、育つジャガイモも育たなくなってしまいます。

なのでまず、ドクダミを取り除くことから始め、今日やっと、畑の上全体から見て、ほぼなくなったという所まできました。


授業として、お野菜やお花に向きあうのではなく、自分のために植物と向き合う時間は、まるで自分自身を手入れするような感覚です。

変かもしれないですけれど、お野菜の居場所を「手入れする」というよりは、「メイクアップ」するという感覚の方が、強いです。

そのメイクアップの成果なのか、ジャガイモ様はご機嫌でいらっしゃいました。

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もう咲きそうです!

明日ぐらいには咲くのかなぁと、楽しみにしています。



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続いては、きくなです。

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ここにもドクダミはいましたが、できる限り取り除いて、現在はこんな感じです。


周りの草を取り除くだけでも、少しずつ大きくなるものですね。

「ただ植物を見るだけ」という視点に立っているのですが、

昨日よりも一回り大きくなった、

葉っぱがより美味しそうな色になった、

茎がよりシャッキリして歯ごたえがよさそうになった、

ということが、

植物も「生きている」という、感覚としてわかるのです。



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言葉にできない「生きている」

こうして「生きている」ことの表現を、言葉だけの表現に限定してしまうのは、なんだか、もったいないように思います。

「生きる」という単語・文字として、共通に理解できる手段がありますが、実際に一人ひとりの「生きている」については、様々な表現があります。

中には、ある行動自体を「生きている」と捉えている人、もしくは、言動にはできない何らかの感覚を「生きている」と捉えている人もいるでしょう。


言葉にできない感覚が、あってもいいと思います。

言葉にできない感覚こそ、可視化や言語化ができない分、大切に感覚として持っておきたいですし、ゆくゆくは、その感覚が、将来の自分の困難を切り開く「感覚」になる可能性もあるわけです。

ただ植物を見つめ、自分も植物も「生きていること」が意識できると、同じ地球に生きている同志のように思えてきて、心強くなります。

あなたも私も、ここで一緒にいるという、感覚です。


きっと今頃、お野菜たちも、私の噂をしていることでしょう。

やたら見つめてきて、話しかけてくる人間だ、と。

「よしよし、なんなら付き合ってやろうではないか」と、言ってくれていたら嬉しいな、と思います。



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トップ画像は ざがねarwisroly様 からお借りしました。

ありがとうございました!


それでは、今日はここまでです。

皆さん、美味しいお野菜との出会いを。

クリエイターの活動費として、使わせていただきます。 また、日本を中心とした、伝統文化を守り後世にも残して参りたいですので、その保護活動費としても使わせていただきます。