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アルコール依存症闘病記

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32歳から40歳くらいまでのアルコール依存症の闘病記です。 40歳以降の話は別に書きます。
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記事一覧

22.そしてアルコール依存の果てに

22.そしてアルコール依存の果てに

AAのハンドブックの「第三章 さらにアルコホリズムについて」で次のように書かれてある。
「私たちアルコホーリクは、飲酒をコントロールする力をなくした。本物のアルコホーリクは、決して飲酒に対するコントロールを取り戻すことはない。(中略)飲むことにコントロールをなくしている人が、回れ右をして紳士のように飲むようになったら、私たちは彼に脱帽しよう。確かに私たちも、辛すぎるくらい辛い努力を、たっぷりと、長

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21.閉鎖病棟

21.閉鎖病棟

岸和田の久米田病院の私が入院した病棟は、今まで入院したアルコール病棟のように開放病棟ではなく、閉鎖病棟だった。だから出入り口が常時施錠され、病院職員に解錠を依頼しない限り、入院患者や面会者が自由に出入りできない構造になっている。
閉鎖病棟への入院患者は、原則として精神保健及び精神障害者福祉に関する法律に基づく措置入院や医療保護入院などにより、強制的な入院形態で入院するものとされているが、私の場合は

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20.5回目の入院

20.5回目の入院

大阪府心の健康総合センターに通院しながらも飲酒行動は続いていた。断酒はしていない。しかし、当初は、親に車の免許を取ってくれと頼まれたこともあってドライビングスクールに通って実地教習を受けていたし、そこへの行き帰りや通院も暑い夏の季節にも関わらず自転車で通っていたこともあって、生活に支障をきたす飲み方はしていなかった。
また、免許を取った後は、以前働いていた会社の社長に誘われて岩手や熊本、東京の測量

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19.アルコールから向精神薬へ

19.アルコールから向精神薬へ

小杉記念病院からは受診拒否を受け、そこに代わる病院探しを行ったが、なかなか受け入れてくれる病院がなかった。私がアルコールの問題だけ持っていれば受け入れてくれたのだろうが、薬物の問題もある。両方の依存は対処しきれないのだろう。その中でも、少し相談に乗ってくれた病院のケースワーカーが、
「薬物の問題があるなら大阪府心の健康総合センターに相談したらいかがですか?」
と親切に言ってくれた。そして住所と電話

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18.ドラッグ事件

18.ドラッグ事件

Yちゃんを自転車の後ろに乗せて釜ヶ崎に行くのが習慣化していた時期が数カ月続いただろうか、小杉クリニックの担当のケースワーカーから年末年始の過ごし方を聞かれた。そして、Yちゃんと一緒に過ごしたことが分かった途端に病院は大騒ぎになった。
私は見ていないのだが、Yちゃんのカルテには私とドラッグパーティーを行ったと書かれていたらしい。しかし、それは事実ではない。病院側の一方的な判断で結局処分されることにな

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17.小杉クリニックデイケア

17.小杉クリニックデイケア

DARCの中での人間関係がおかしくなった時、私はDARCへの通所を辞めた。他のメンバーのように通所が義務付けられているわけでもなく、辞めるのは私の自由だ。そこで問題が発生した。昼間の時間をどう過ごしたらいいのか決められなかったのである。それに、DARCに通っているからと言って主治医にマイナートランキライザーを切られたのだ。これには参った。全然眠れない薬を処方されたのである。
小杉クリニックはアルコ

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16.DARCでの生活

16.DARCでの生活

大阪に帰ってきてからの私はしばらくDARCに通所していた。DARCとはDrug Addiction Rehabilitation Centerの略である。以前通っていたアルコールリハビリセンターと同じように午前と午後にミーティングをする。そして夜はNAである。またしても3ミーティングの生活だ。NAへの参加は義務付けられている。病院に関してはDARCに通いながら天王寺の小杉クリニックに通院することに

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15.4回目の入院

15.4回目の入院

この病院はもう入院3回目である。勝手知ってしまっているので緊張感はまるでない。また来てしまったのかという無念さだけを感じていた。とりあえず、何も食べられないので点滴と、これからの人生を考え直すための休息がほしかった。
お馴染の個室で横になっていると、顔見知りの看護師たちが私を見舞いに来た。しかし、婦長だけは違った。私に対して、AAの祈りを言い聞かせるように説教を始めたのである。ちなみにAAの祈りは

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14.アルコールケアセンターに通って

14.アルコールケアセンターに通って

3度目の退院の後、断酒が本当にできるのかどうか試してみる気になった。そこで、しばらくは仕事よりも回復を優先し、AAミーティングに参加することが自分の仕事であると考え、AAハンドブックの第6章「行動に移す」の冒頭に「この行程を労を惜しまず念入りにやっていると、半分も終わらないうちに、あなたはびっくりすることになる」とあるように徹底してやってみようと思い、昼間は川崎の高津区にあるアルコールケアセンター

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13.3度目の入院

13.3度目の入院

11月の末にインドから帰国して、しばらくは職探しやAAミーティングへの参加、実家での休養を経て、社会復帰する自信がつき、1月の半ばから横浜の建築設計事務所にアルバイトの形で働くようになった。使用していたCADは初めてのものだったが半日でマスターし、その日のうちに設計実務をやることになった。
しかし仕事を始めると、設計事務所と言う職業柄残業も多く、AAミーティングからは足が遠ざかってしまった。それで

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12.インドでの平穏な日々

12.インドでの平穏な日々

退院は7月の半ばだった。インド出国は8月の終わりである。その期間は慌しく過ぎていった。会社の退職手続きを7月中に終わらせ、8月中、昼間はインドへ持っていく新規CADシステムの練習をし、夜は極力AAのミーティングに通った。その間は一切酒を口にしていない。おそらく、インドに行くという明確な目標が断酒生活を支えていたのだろう。それまではなんとしてでも飲んで潰れるわけにはいかない。計画を潰してはいけないと

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11.2度目の入院

11.2度目の入院

クリニックで紹介された病院は東京の多摩市にある桜ヶ丘記念病院だった。わざわざ奈良から両親が横浜まで来てくれて、車で病院へ向かった。2度目の入院というのはかなり精神的に落ち込むものである。車窓の風景は不思議とモノトーンの風景に見えた。
病院に到着すると、持ち物検査から病棟での規則、アルコール治療の方法などの細々とした説明を受けると、ナースステーションの隣にある個室へ通され、点滴が始まった。東京方面の

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10.職場復帰

10.職場復帰

3か月の入院で学んだことは、抗酒剤、通院、自助グループの参加が断酒の3本柱だということであった。シアナマイドやノックビンなどの抗酒剤は大阪の病院では入院中には患者の自主性に任せていて飲んでいなかったのだが、大阪の病院で紹介された横浜の病院では抗酒剤の服用が義務付けられていた。初めてのシアナマイド。薬瓶にははっきりと劇薬と書いてある。これを服用しなければ通院できないらしい。
通院は、アルコールを含ん

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9.初めての入院

9.初めての入院

横浜の大学病院の精神科で初めてアルコール依存症と診断され、断酒を勧められた時には私は全く飲酒をやめる気になれず、病気だから飲酒を繰り帰すのが当然と考えていた。それは当時かかっていた病院がアルコール依存症の専門治療を行っていなかったことと、主治医もアルコール依存症の専門家医ではなかったからである。だからアルコール依存症の病気の説明もほとんどなく、私が自主的に断酒することが唯一の治療と考えていたきらい

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