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#エッセイ
記憶の繋ぎ方で過去の恩人に出会えた日
何を買いに来たのか分からなくなった。一体、私は何を買いに来たのだろうか。足は真っ直ぐにコンビニへと向かっている。頭の中はグルグルと忘れたものを思い出そうと思考を回転させている。頭の中では時間を巻き戻している。そこにありそうでなさそうな記憶の扉には、まだ手が掛からない。
私は今、思い出そうとしているんだ。
思い出そうとしている自分を冷静に見つめてみた。そうするとすぐに別の頭の中で一つの囁きに気付
私達は、誰かの日常になっている。
仕事で車に乗り、現場へ向かう途中のことだった。少しだけ遠回りをして昔住んでいた家の近くを通ることにした。何かを思い出したワケでもなく、単なる思い付きだった。馴染みのある狭い路地から大きな通りに当たる角に差し掛かった時に、ある記憶が甦った。
その角にある大きな家には庭でゴルフの素振りをしているおじいさんがいた。だいたい素振りをしている。私は素振りをしている姿しか見ていないので、そのおじいさんがだい
本音を忍ばせるには、総じて覚悟が必要になる。
彼が意識してないとしても、誰か他者に向かって何ごとかを訴えているんで、訴えているかぎり、彼は絶望者であるとはいえないわけだ。だから、絶望という名の希望をどこかに持っているんだということになる。
ということを読んでいた。
私が書きたい理由に自分の表現を追い求めて「本当のこと」を書きたいということがある。根底にあるのは、今ある事実は、他者から見た事実とは違うということだ。
目に見える現実と頭の中
友人の孤独を陽気な天秤にかける。
久しぶりの休日に友人の仕事を手伝うことにした。集められたのは別の友人と私の計二名だ。大きな工場の大きな音がする機械の試験を兼ねたメンテナンスをするという。私はもちろん機械を操作するでもなく、その試験の行方をもう一人の友人と精一杯声を出し応援する係だった。
応援とはいえ、時に囁き、時に叫び、時に頷くなど多種多様なリアクションを全力で空気を読み集中しなければならない。今どき「応援に来てくれ」と言われ
僕は「お兄さん」の達成を祝う日にすることを決めた。
そうだとしても、これは実に厄介な問題だった。事実を事実として受け止めるには、誰だってきっかけが必要だからだ。
この日、僕は友人の誕生日を祝うことにしていた。とはいうものの、お互い仕事だからメッセージを送信するだけだ。「今は簡単にメッセージを送信出来るので楽になったもんだ」と口に出してしまう僕は「おじさん」なのだろうか。僕の高校一年の時代の時はポケベルだった。二年でPHS。三年で携帯だ。進化の翻弄
拝啓 読書様。これが私の遊びで、続く葉脈になります。
私が貸した星野道夫の「旅をする木」を手に持ち、後輩が私のもとにやって来た。
「お返しします」
私は、この後輩を密かに読書好きにさせるように遊んでいる。遊んでいるというよりかは、遊んでもらっているのかも知れない。本に興味があると言った後輩は、彼女が読んでいるという伊坂幸太郎を好きかどうかを私に聞いてきたことが始まりだった。
私は、朝会社でわざと読書をしている。わざとだ。いつか「窓際の読書さん」
神保町で「遥か高み」を追いかける決心をする。
文体を変換し、皆の共感を得るのは新生活が始まる今がチャンスだ。きっとそれこそが私を「遥か高み」へと誘うものだろうと考えていた。
「一つ聞いてもいいかい?なぜ私の好感度は高止まりなのだろうか。そこには、もう一段上があるはずなんだ。君は、その答えを知っているはずなんだ。そろそろ僕と君は会わなければならない機会だと思う」
自分の好感度ほど「自分調べ」で良いものはない。自分で高いと思えば常に私は幸せで
そして私は行列に並んだ。
行列に久しぶりに並んだ。待ち時間は一時間以上だという。三列にキレイに整列して並び、誰一人文句も言わずに指示に従っている。知らない人と横に並ぶ不自然さを隠すために、私は先日購入した短編集を鞄から取り出した。
この本の作者は、書くことが好きなのだと伝わってくる。どの短編もとても物語に誠実だ。真っ直ぐに文体に表現される誠実さは、私が書こうにも書けるものではない。ひん曲がった性根の私には、キレイな文章に
語るを騙る大人を知った経験を真面目に語ったが、自分が騙ってないだろうかと不安になる
会社を辞めようとしていた後輩と一年ぶりに遠い現場に行くことになった。前回の経験から私は、運転席にあらかじめ座っている。
彼は、私が運転席に座っていることに違和感を感じることなく自然に助手席に座ってきた。余りにも自然な助手席の座り方に一年の経験値を感じた。そして、それと同時に私が彼を乗せて運転した一年間の総距離を知りたくなっていた。
「コニシさん。どうぞ」
彼は、温かいブラックの缶コーヒーを私
公開された地図を頼りに後悔することなく航海する方法論
「お父さん。やっと茅ヶ崎に帰ってきたね。やっぱり落ち着くわ」
坊主は私にそう告げた。駅のホームで両手を拡げて深呼吸し、声のトーンが疲労を遠ざけた安堵からなのか少しだけ高くなる。
東京へ向かう電車に揺られて片道一時間と少し。乗り物に酔いやすい坊主は、無理矢理寝ようと頭をあちこちに傾けながらどうしたって寝れないみたいだった。
大きな音や人混みに敏感な坊主は、電車が近付くと耳を塞ぐ。私は、それを「
「すごい」の寿命を知りたい語り。
今年一番始めに「スゲーな」という言葉を心から発したことがある。
友人が同じ施設で三度男子トイレに間違えて入り、娘に怒られたというのだ。「今年はもう絶対に間違えない」と決意のメッセージを聞いてもいない僕に送ってきた。
僕は純然たる心からの「スゲーな」を送ったのだが、一つの違和感を感じたことを書き残したい。
心から「スゲーな」と人は皆感じて発しているのだろうか。
「スゲーな」の実際何割を本当に
四十二歳の戯れ言を、いつか真実にすることが楽しい道。
息子が干支にちなんだ龍を、樹脂粘土で作ると言った。
「お父さん。隣で見ていて欲しい。誕生日だからあげるよ」
と言いながら、新聞紙の上に材料を広げている。私は促されるように向かい合う形でテーブルに座り、小さな手で黄色の絵の具を粘土に混ぜ込む姿を、薄ぼんやりと見ながら思量することにした。
息子は自分の軀の中に外見上では全く判断出来ない「あるもの」を抱えている。それを「病」だとか「疾患」と表現した
410-10-40ということで
今年一年、『厄年男が躍年男に変わるまで』をテーマに一年間のドキュメンタリー形式で記事を書き、その生き様をお伝えしてきましたが、皆様におかれましては本当に一年間お付き合いいただきましてありがとうございました。
年末年始に読みこむ本が揃いましたので、SNSからはしばらく距離を置きます。
毎年、年末年始は更新しないのですが、やっぱり自分がSNSに向いていないのをよく理解しております。どこかで疲弊した