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「紫陽花は鎌倉。六月の鎌倉なのよ」と愛知のコユリは言った。

木曜日のことだった。私は有意義な読書会を堪能した。正確には有意義だったということがハッキリ分かったということだ。谷崎潤一郎についての読書会ということで参加したのだが、ほぼ覚えていない。緊張で何を喋って何をしたのかほとんど忘れてしまっていた。それを吉穂みらいさんという稀有な記憶力の持ち主がいてくれたおかげであの日確かに私は読書会に参加していたことが分かった。

どうしてその木曜日の出来事から話さないとならないかだ。それは金曜日の話をしたいからだ。木曜日の次は金曜日と決まっているから私は今でもこうして生きている。

「愛知のコユリか」私は携帯の画面を見ながら呟いた。愛知のコユリから残されたメッセージには、こう記されていた。

「明日、東京のJと湘南のIと私こと『愛知のコユリ』が鎌倉で紫陽花を見るのよ。あなた知ってたかしら。紫陽花は鎌倉。六月の鎌倉なのよ。それははじめから決まっていたことなの。花が咲く季節が変化してしまったのなら、私はいったい何を楽しめば良いのか分からないわ。それより問題なのは『あなたが私達に会うのか、会わないのか。それだけよ』安心して。この問題には二択しか存在しないわ。それに私とは物理的に明日しか会えないのよ。あなたどうする気になったの?」

愛知のコユリは急な連絡を誤魔化すように私に矢継ぎ早に用件を伝えてきた。私は用件よりも「愛知のコユリ」という呼び方は私が名付けたものとばっかり思っていたのだが、本人も「愛知のコユリ」と名乗っていたことを知り、オリジナルでなかったことに愕然とした。だが、それよりもどうして愛知から来るのに前日の夜に連絡してくるのか理解が出来なかった。照れ屋にもほどがあると大人として注意した。

「なぁ。愛知のコユリ。僕にも家庭があり、仕事もあるんだ。急に来て明日会えるのかというのは、なかなか難しいと思わないのかい?」

私は、社会人として努めて冷静に状況を説明した。

「あなたのことを忘れてたとは言わないわ。あなた知ってるかしら?人って突然来るものなのよ。突然来ないと物語なんて生まれないわ」

「忘れてただけなのか」と傷ついたのだが、それを追求するにはあまりの恥ずかしさから、頭の中で瞬時に「誘い文句としては悪くない答えだ」と考え直すことに成功し「愛知のコユリは私を行く気にさせた」と変換した。

私の頭はやはり優秀だ。私は時間有給を取ることにした。

金曜日の18時。私は藤沢駅に降りた。

待ち合わせに現れた三人と会うのはいつぶりだろうか、東京のJとは半年振りくらいだろうか。湘南のIと愛知のコユリとは二年振りくらいになる。

一目で三人だと分かった私は三人と握手をした。私の頭によぎったのは「何も変わってないな」だった。駄菓子菓子、私のこの表現は本当に正しいのだろうかと感じていた。

何も変わってないワケがない。

当然、二年の歳月をお互いに重ねている。女性の二年間を私は「何も変わってない」で済ませて良いのだろうかと思っていた。常々、女性が歳を重ねると増すのは魅力だと私は書いている。

だとしたら、気の利いた「華やかさが上がったね」くらいの軽い台詞で魅力がアップした変化をスマートに伝えるべきなのではなかろうかと考えていた。そっと私は話しかけた。

「今日は暑かったよね」

自分でもビックリした。四十年以上経過して人生で一番面白くない自分に出会ってしまったのだ。「今日は暑かったよね」久しぶりに会ってこんな三文芝居は小説ですら出てこない。やはり女性三人の女子会に私が参加するというのに知らずのプレッシャーを私は感じていたのだろうか。

予約されていた居酒屋の座敷に通された。湘南のIが予約してくれたのだという。

「あなた、昨日の今日よ。週末で予約が出来なくて四、五件断られたわ。大変だったのよ」

今、湘南は景気が良い。週末は人で賑わっているのは当たり前だ。よく予約が取れたものだと私は思っていた。

「あなたが突然来るって言うから私から予約をお願いしたの」

愛知のコユリは、まるで私が返事をするのが遅かったせいみたいに会話を繰り広げているが、そもそも私としては昨日の夜にすぐに返事をしたはずだ。駄菓子菓子、それを伝えるほど私は野暮ではない。私が悪ければ良いのだから。

「今日から夏だね」

元気が良い店の主人が話しかけてきた。この日の暑さは、今年の暑さを予言するような暑さで夏の開幕戦みたいな日だった。テーブルに運ばれてきたお酒で私達は久しぶりの再会を祝い乾杯をした。

「レモンはね。皮を下にして搾るのよ。そうすると香りの成分が一緒に落ちていくの」

と、東京のJがレモンを搾りながら私に伝えてきた。

「忘れると思うかい?私は毎回女性とお酒を呑むときはその台詞を使わせてもらっているよ」

東京のJから教えて貰ったことを、私はすでに自分の知識としてこの半年間に十回は使っている。十回ともそれぞれの女性の反応は好評だ。女性はその事を知っていてもいつも知らないフリをして私を盛り上げてくれる。それも蝶の大事な仕事だからだ。

「ところでどうして紫陽花を見たくなったんだい?」

私は、愛知のコユリに聞いた。

「昔から鎌倉の紫陽花を見てみたかったの。そして、会いたい人達にも会えると思ったから動いただけよ。今の職場は融通が利くのよ」

彼女達三人がどういうきっかけでここまで仲良くなったのかは知らないが、私と関係することとなると、彼女達三人は私が企画した一昨年のイベントへ実際に時間を作って来てくれた人達だ。私にとってその事実は何をおいても覆らず、会いたいと言われれば会う。貰ったものを返すべき人達だった。

「どんな職場なんだい?」

私は、興味本位で聞いた。愛知のコユリは目を輝かせた。

「上司の愛人だと思われてるのよ」

なぜ、こんなに嬉しそうなのか分からない。愛知のコユリはニコニコしながら話を続ける。

「人生で初めて愛人や色恋沙汰で噂になれたのよ」

愛知のコユリの人生を詳しく知っているワケではないが、娘と母と仲良し家庭だった気がする。

「私の家系は寿命が長いのよ。だからたぶんあと半世紀以上生きると思う。別に結婚しようとかそういうことを考えてるワケではないけど、湘南のIみたいな寄り添い方をする夫婦を見ていると誰かいても良いかなと思う」

上司の愛人について、掘り下げる気満々だったのだが、愛知のコユリが言うことは素直に入ってきた。湘南のI夫婦は、確かに支えあっているのが分かる。

「色々あるけど良い人なのよ。子供達も嫌いになんてなれないって言ってくれるしね」

家族であるかぎり何かしら起きる。起きた時にどうやって対処して生きていくかだけの違いだ。湘南のIが生活で感じた閉塞感や壁を打破してくれたのがSNSだったという。

「私が本当にキツかった時ね、本当に急に連絡が来たのよ。SNS経由でね。東京のJからよ。何もアポもなくよ。すぐ近くにいるから会えないかって」

東京のJが話を引き取る。

「アポは取るだけでも負担になってしまうし、すぐ近くと言っても電車乗って最寄り駅に行くまでの15分前よ。私、どうしても海が見たかったのよ。私自身にも色々あって。その時なんとなく感じたの。湘南のIに連絡するだけしようかなって」

その日、湘南のIと東京のJは真冬の寒空で会ったのだと教えてくれた。湘南のIはその時の感情が甦ってきて涙が溢れていた。

「こんな人いないわよ。感謝してる」

「勝手に行っただけだから」

と、東京のJも溢れていた。私は、何が起きててその時に二人で何が話されたのかは何も知らないが、人の感情が溢れてしまうほど、その人にとっての大事な瞬間を作れる人を素敵な人だと思っていた。女性達のこういう気の回し方と付き合い方は私ではなかなか出来ない。なんとなく、女性特有の友情みたいなものを感じて羨ましく思っていた。ただ「本が好きだ」という一つの共通項でここまで深くなれるのも、やはりSNSの良いところでもある。

私は愛人疑惑の、愛知のコユリの反応を伺っていた。

「あなた知ってるかしら?人って突然来るものなのよ。突然来ないと物語なんて生まれないわ」

と、勝ち誇った顔で愛知のコユリは笑っていた。悔しいが何も言えなかった。

なんのはなしですか

「愛知のコユリ。愛人の件俺書くからな。俺、あれからもずっと書いてるんだからな」

この日、三人の女性に言われた事がある。

「知ってるわよ。長くてあまり読まないけど、あなた変わらずに本当に本気でずっと貫いてるじゃない」

読まれてなくとも、なぜか泣きそうになった。







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