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記憶の繋ぎ方で過去の恩人に出会えた日

何を買いに来たのか分からなくなった。一体、私は何を買いに来たのだろうか。足は真っ直ぐにコンビニへと向かっている。頭の中はグルグルと忘れたものを思い出そうと思考を回転させている。頭の中では時間を巻き戻している。そこにありそうでなさそうな記憶の扉には、まだ手が掛からない。

私は今、思い出そうとしているんだ。

思い出そうとしている自分を冷静に見つめてみた。そうするとすぐに別の頭の中で一つの囁きに気付いた。そっと私の話を聞いた。

「お前は、思い出そうとしている自分と今初めて出会っているのではないか」

確かに頭の中の私はそう言っていた。その言葉の意味を確かめるように私は歩くのをやめた。ただそれは、買うものを思い出してしまう危険性を感じるまでの間だけだ。

時間にすると数十秒かも知れない。私は行動を止めた。周りの景色も時間を止めたように動かなくなる。音だけが動いている。私の頭の中ではそれでも全力で記憶の扉を探っている。この記憶を取り出してしまったら私は普段の自分を取り戻してしまうことになる。

もしここで何かの弾みで取り戻してしまったのなら、思い出そうとしている今の自分とはサヨナラしなくてはならない。そして、私は何を買うのかを理解してしまう。

私は、何を買うのか思い出そうとする自分に、何を買うのか忘れてしまった自分を戦わせなければならなかった。忘れたままの私をどれだけバランスよく長く維持出来るのかが勝負だった。私は、思い出そうとしている自分でいたいのだ。

私に起きる普段の生活で、思い出そうとしている自分に出会ったことはない。正確に言えば忘れて思い出すことは日常的にある。だがそれは無意識の行動だ。現在は思い出そうとしている自分を認識している初体験ということだ。これは私にとってのチャンスだ。私はまた未知の自分に会える。それは今までの知らない自分だ。

立ち止まって数秒が経過した。それだけでも記憶の扉が開く音がしそうになった。優秀だ。私の中の私達は本当に優秀なのだ。それを初めて私は実感した。思考しなくとも探すべきものを探そうとしている。

根っからの狩人だ。

でも今はどんなに優秀な狩人でも自分を取り戻すのはやめて欲しかった。取り戻してしまったら今の思い出そうとしている自分にはもう会えない。会うには、次に何かを忘れるしか方法がない。

私は思い出すことがないように、さっきまでの自分と同じ行動をしようと歩きだそうとした。さっきまでと同じ行動ならば、忘れたままの自分でいられるはずだと考えたからだ。

思い出さないように歩きだすことを始めた時に、普段は考えたこともないことが頭の中に浮かんだ。

私は、右足と左足どちらから一歩を踏み出すべきなのだろうか、歩くとはどうやって歩いたのなら正解なのだろうかと。これは新鮮な感覚だった。歩こうとしたのに身動き出来ない自分に出会ったのだった。駄菓子菓子だがしかし、身動きが出来ない自分というものには、私の軀は覚えがあった。覚えがある限り、簡単に頭の中はその記憶の扉を開けてしまう。

それは、仕事でぎっくり腰を発症し、早々に仕事を切り上げなければならなくなり、痛みに耐えながら運転をし、何とか家にたどり着いた日のことだった。軀中から望んでもいない汗が滲んでくる。どんどん滲んでくる。軀の至るところから少しでも動かすなと信号が出ていた。早く家で横になりたい。私の頭の中はそれだけだった。それだけで一杯だった。家に到着し、私は車のエンジンを切りドアを開けた。

信じられないことが私の軀に起きた。

「車からの降り方が分からない」

そんなはずはないのに、軀がまったく動かずに車からの降り方が分からなくなっていた。

「どうやって降りるんだ」

私は、その台詞を何度も実際に口に出してみた。だが誰もその答えをくれなかった。誰もいないからなのだが、誰かに話し掛けないと冷静でいられないのだ。何をしても痛いというのが頭の中の優先順位にあるので軀が動くことを拒否したのだ。

「このままお前は車の中で暮らすのか‼️」

と叫んで自分を奮い立たせた。運転席のドアの横の手摺りを握り、腕力だけで座ったままの体勢で降りられないか試してみた。手摺りを握り、反動をつけてブランコの要領で外に出ようとした。その瞬間私の中の私が全力で叫んでいた。

「外に出たら足を付かなければならないぞ」

ダメだ。そんなことをしたら私は壊れる。考えるほどに私は身動きが取れなくなった。玄関が見えるのに、軀は何一つ動こうとしない。それなのに頭の中だけは冴えている。目から見える情報は、玄関までの道を照らしている。私は座ったままの姿勢で軀を90度回転させ、車のドアを開け放ち外を向いた。口からはそれだけの動作なのに「フーフー」と息を吐いている。「フーフー」と実際に声を出しているのだ。信じられないが声を出して息を吐かないと呼吸まで止まりそうだった。

「どうやって立つ」
「どうやって立つんだ」
「どうやっても立つんだ‼」

と、三度叫んだ勢いで手摺に体重をかけ軀を無理矢理立ち上がらせた。

「ハウアッ」

生まれて初めて「ハウアッ」と叫んだ。間違いない。自分の口からは四十年間聞いたこともない「ハウアッ」て声が出たのだ。「ハウアッ」なんて発した記憶は過去に一度もない。私の頭の中は痛さと「ハウアッ」さで一杯になっていた。どうにか痛さを逃したい。逃したい一心で頭の中では「ハウアッ」を人物に仕立てあげていた。

「ハウアーさん」

私は、痛さをこらえるために「ハウアーさん」なる外国の方を思い浮かべることに成功し、一歩ずつ目の前に見える「ハウアーさん」に向かってゆっくりと歩を進めた。「ハウアーさん」は笑っている。麦わら帽子を被り笑っている。何とか一歩進み「フーフー」の代わりに「ハウアーさん」と息を吐くタイミングで口に出し、少しずつ玄関に近づいていた。そのうちに、にこやかに私に向かって笑う「ハウアーさん」の本名は何だろうかと考えていた。軀は痛いが頭の中の「ハウアーさん」はずっと笑っている。麦わら帽子を取ろうとしている。私は「ハウアーさん」に名前をつけてあげたい。

玄関に上がる前に一段段差が存在した。これを上がれる自信がなかった。しかし上がった先にしか私の暮しはなかった。行かなければならない。「フーフー」と声に出し息を吐く。意を決して段差に左足をかけ一気に上がった。

「ベッケンハウアーさん」と叫んでいた。

私は名付けてあげたのだ。玄関の前で取っ手に触れた時、ベッケンハウアーさんは笑って麦わら帽子を取っていた。ありがとうと本気で挨拶をした。

私は「ベッケンハウアーさん」を取り戻すことに成功した。何を買うのか忘れてしまい、思い出そうとする自分に出会い、思い出すのをやめようと記憶を繋いだ結果、あの日以来の「ベッケンハウアーさん」に出会えた。

もう何も買わなくても良いと思えた。本当に私が買いたかったのは、失っていた記憶だったのかも知れない。

なんのはなしですか

皇帝ベッケンバウアーさんと私のベッケンハウアーさんとの血縁関係は不明です。




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