n-bunaさんの『月を歩いている』の歌詞についての想像

n-bunaさんのアルバム『月を歩いている』について考察したことを書きます。
『月を歩いている』(初回盤の内容含む)のネタバレになっています。ご注意ください。
※『』はアルバム名や曲名、「」は曲の歌詞に付けています。


アルバム名『月を歩いている』は、月(への道)を歩いているとも取れます。かぐや姫が月へと帰る道、というような。
また、初回盤の童話のカエルから、カエル→帰る、と連想しました。

日進月歩にも掛けてる気がします。
日進月歩は技術などが絶え間なく進歩することで、
童話モチーフである、過去を振り返ったり、ゆっくり一歩ずつ歩いている雰囲気の『月を歩いている』と対極的に思います。
ヨルシカで、生まれ変わりがモチーフのアルバム名をあえて『負け犬にアンコールはいらない』にするような感じかなと。

ルラ

2曲目『ルラ』の「アイスクリイム並みの幸せ」は、シンデレラの童話の魔法使いがかけた、いつかは解ける(=溶ける)魔法だと思いました。

「再会にだけ君が見えたみたい」の再会=最下位かもと思います。「星座は天秤」とあるので、星座占いかなと。
ガラスの靴を落とすような不運によって(天秤座の最下位によって)、君と再会できたのかなと想像しました。

最後の歌詞「冷めぬ魔法を見た私はシンデレラ」の魔法だけは、魔法使いによる魔法ではない、恋心のことかなと思います。
冷めぬ魔法=覚めぬ魔法=目覚めることのない夢
とも思えます。
自分がシンデレラになった夢を、いつまでも見ているのかもしれません。

「気付いたら残り二分」という歌詞の、ほぼニ分後に、この曲自体も終わります。

三月と狼少年

3曲目『三月と狼少年』は、
「また明日」なんて嘘をつく、狼少年だ
という歌詞で終わります。
明日狼少年は居ないのでしょう。
三月の次の日は、四月一日(エイプリルフール)です。
みんなが嘘をつく日を境に、少年は嘘をつくこと(狼少年)を辞めたのかなと思いました。

歌う睡蓮

4曲目『歌う睡蓮』の「白い絵の具でキャンバスに乗せようとする」から、睡蓮の絵→モネの絵、と想像しました。
「掠れるセイレーン」から、掠れる歌声、掠れる記憶、掠れる絵、と連想できます。
曲名の『歌う睡蓮』は、睡蓮が枯れる事と歌声が枯れる事を繋げていると感じました。
「心臓に杭を打たれた」と『白ゆき』の「心臓に残ってる毒」に、対応を感じます。
また、「白い絵の具」は『白ゆき』の「咲いて snow white」と同じものなのかもと思いました。
『カエルのはなし』の「白い花」だったり『ルラ』の「心が真っ白けっけ」だったりと、アルバム内に白色が何度も出てきます。

花降らし

5曲目『花降らし』の「タッタラタ、ラッタッタ」は、たたらを踏む(余分に数歩歩く事)に掛けていると思いました。
月を歩く事を余分な歩みとすると、『花降らし』の「私」もまた、月を歩いているのかもしれません。

「舞った一足のサンダル」からシンデレラのガラスの靴を連想しました。『ルラ』に「舞踏会」が出てきますし、『花降らし』と『ルラ』は関連した歌詞が多いと感じます。

落花

落花は、俳句では桜が散ることです。
『落花』は人が亡くなるのを散る桜に喩えてると思いました。
前曲『花降らし』に「桜」「あなたの葬式」とあります。「宙に浮いて飛んでしまえたら」は飛花で、合わせて飛花落花になる気がしました。
次曲『泣いた振りをした』の落ちた花で押し花を作る話は、亡くなった人を、涙の代わりに作品で悼むことに思えました。

泣いた振りをした

7曲目『泣いた振りをした』の「君」は、こどもの頃の「僕」、または素直な気持ちを出せる自分だと思いました。
「絵本の中の僕みたいに生きていけたら」とあるので、振りじゃない泣いたり笑ったりができる「君」が羨ましいのかなと。
「僕の弱さ全部絵本に閉じ込めただけ」から、絵本を描くことは泣くことの代わりなのかなと思います。

「祖父が死んだときでさえ泣いた振りをして」は、『花降らし』の「あなたの葬式を見た」「形だけ何か述べて通り過ぎ行く」と同じ場面だと思います。
「君がノートの上踊るのさ 嘘みたいな陽気で」の君は、絵本の中の僕であり『花降らし』の「私」でもあると思います。
泣く代わりに絵本を描くと君がその上で踊った、となるので、『花降らし』の踊りは泣くことの代わりだと思いました。
泣けない(雨が降らない)から、花を降らし、花と一緒に舞うことで涙の代わりにしたのかなと。
おとぎ話の青空が「アメを降らせた」のも、涙の代わりなのかもしれません。

『花降らし』のモチーフ、アンデルセン童話『赤い靴』の主人公は、黒い靴を履くべき場所で赤い靴を履きます。それは場違いとされる事で、祖父の死を泣けない事に、少し似ていると思いました。

猫のお爺さんに「跳ねて届けば会えるらしい」という物語は、
俯かずに上を向いて踊れば祖父に会える、という願いなのかなと。
『花降らし』は一人俯いて終わります。
祖父に会えない事をやっと実感して、ようやく泣く事ができたのかなと思いました。

『赤い靴』は割とバッドエンドなので、
泣いた振りをしたの「本当は僕は、こんな絵本を描くことが夢だったんだ」は、『赤い靴』をハッピーエンドにしたかったという意味に感じました。
そうして「僕」は『花降らし』を描いたのかなと。
春を待ってたら、春を舞っている君がいたのでしょう。


『泣いた振りをした』歌詞中の鉤括弧で囲われた4つの断章全て、17曲目の『カエルのはなし』に繋げられると思います。
雪に青空が恋をした話のアメは、カエルを優しく濡らし、
押し花の話は、カエルが枯れた花の種を頭に植える話と解釈でき、
雲の上まで越した猫のお爺さんのもとへと、カエルが跳ねれば会えそうです。

白ゆき

8曲目『白ゆき』の最後の詞「毒を吐き出すように」は、毒吐く→独白、と連想でき、11曲目の曲名『白ゆきの独白』に掛かっている気がします。

『白ゆき』の「ゆき」は行きや逝きに掛けてあると思いました。
行きは、「もう一歩だけ歩いてみれるかな」という歌詞が終盤にあり、
逝きは、「毒を飲む」という描写があるからです。
黒檀という語が出てきます。黒檀は仏壇に使われる印象があるので、黒を死とすると、白は反対の生になります。
「毒を吐き出すように」で終わることからも、
毒を飲んで逝くのではなく、毒を吐いて行く(生きる)ことを選んだ曲なのかなと思いました。
「あの人の顔だけ覚えてる筈が胸に霞んでいく」や「貴方の記憶なんか笑って手を振れよ」から、
貴方の記憶が白くなって、遠くへ逝ってしまう、という意味も『白ゆき』に込められている気がします。
「咲いて snow white」とあるので、
咲く≒生きる という連想から、生きると白を繋げられます。
「春の河原の前を歩いたあの日は、夜を忘れるような陽の射す朝で」から、
黒(夜)ではなく白(陽の射す朝)を行く、と受け取れます。
真っ黒な夜に一つだけ光る、真っ白な月を歩いている情景を連想しました。
白ゆきのMVに出てくる駅名が「月白」なので、月のように白い世界をゆく、とすると、アルバム名『月を歩いている』に繋がります。
また、毒吐く=独白とすると、
「毒を飲み込む」ことは、孤独を飲み込む(孤独な気持ちを抱え込む)ことでもあると思いました。
「毒を吐き出すように」は、孤独を吐き出せるようになった、と取れます。
孤独を吐き出した息は、雪のように白いのでしょう。

『三月と狼少年』の「淋しいなど人に言えるもんか そんな嘘つきが心の中悲しいと毒を飲んでるんだろう」からも、
「毒を飲み込む」=孤独な気持ちを抱え込む と思えます。

「snow white」はそのまま白雪姫という意味らしいです。「咲いて snow white」とあるので、『カエルのはなし』の「白い花」は『白ゆき』なのかもと思います。



白雪姫といえば毒林檎です。
ニュートンの林檎、万有引力の逸話を連想しました。
「肥大した自尊心」、大きくなった己自身の孤独の引力に飲まれる事を「毒を飲み込む」と表現してるのかなと。
「最低だ」は、己の孤独の引力で底へ沈んでいると取れます。
雪が降るのは星に引力があるからです。
己の毒(孤独)が月の引力や貴方に引き寄せられ、「毒を吐き出すように」歩いていくのかなと思いました。
(谷川俊太郎さんの『二十億光年の孤独』に影響を受けた考察です。)

ラプンツェル

9曲目『ラプンツェル』の「春を待つ胸が苦しい」は、恋が叶うのを待つ場面でもあると思います。恋が実ったことを春が来たとも言いますし。また、恋は盲目という言葉があります。「僕」は恋によって「盲いた目」になり、恋をした相手である「君」さえも見えなくなってしまったのかな、と想像しました。
「その罪が僕の罰だ」の罰で、目に✕(バツ)をされて盲目になったのかなとか思います。
「花は時雨」の花は、「語れば花が咲いた」の花だと思います。かつて君との会話に咲いた花を「僕」は今も見ているのでしょう。
「花は時雨」は花降らしに似た情景だと思いました。


「盲いた目をしている」は、夢見る力を失った、という意味に取れます。
「子供の頃は月だって行けた 夢の中なら空だって飛べたんだ」とあり、昔は夢を見る力があったと。
この曲の「君」は空想(夢)の中にいる人で、
夢を見れなくなったから「僕の目に君が見えない」のかなと。

「苦し紛れの縹だ」の縹は涙に思えます。
縹は薄い藍色のことで、露草色という別名があるからです。
縹には月草色という別名もあり、子供の頃行った月の残滓を見ているようにも感じました。

童話のラプンツェルでは、ラプンツェルの涙で王子の視力が回復します。
「心ってやつを一本垂らして」の心は、ラプンツェルの髪とするのが自然ですが、
涙を垂らして、と解釈してみると、
夢見る力(視力)が涙で回復して君に出会えた、と取れて素敵だなと思います。
涙という梯子を登って、瞳という窓に君が飛び込んできたのでしょう。
「窓のない砂漠」が、その一滴の涙で潤ったのかもしれません。


『ラプンツェル』の「僕」は、王子だともラプンツェルだとも解釈できます。
塔の外を知らない→何も見えない
と連想すると、王子に会う前のラプンツェルは、「盲いた目をしている」とも思えます。
王子(君)と離ればなれになって、再び盲目になった(塔に閉じ込められた)気分になったのかなと。
春を待つ=王子との再会を夢見る
とすると、原作通りだと再会できるはずなので、良かったなぁと思います。

「窓のない砂漠」に涙(雨)が降って緑が育ち、花が咲くことを春とするとしっくりきます。
「語れば花が咲いた」は、二人が出会うことで(涙で)視力が元に戻ることだと思えるからです。
「花は時雨」も花と雨を同一視してるように取れます。


ラプンツェルの涙についてです。
「春を待つ胸が苦しい」とあるので季節は冬でしょう。
冬の氷が春に解けて水(涙)になる
つまり、
凍った心(胸)が春に解けて、涙になるのかなと。
『泣いた振りをした』に「春を待ってたら君がいて」とあります。
このアルバムでの「春を待つ」とは、涙が出る日を夢見ることなのかなと思いました。

白ゆきの独白

11曲目『白ゆきの独白』の、空想が段々と質量を持って出来上がった一つの世界は、月のことだと思いました。
(空想に浮かぶ世界→空に浮かぶ世界→空に浮かぶ月)
独白=孤独を吐く、とすると、吐いた孤独たちが集まって月(月白)になった、とも取れます。
アルバム名『月を歩いている』は、空想の世界(童話の世界)を歩いているという意味かなと。

セロ弾き群青

12曲目『セロ弾き群青』の「春が咲いている、胸が泣いている」と
『ラプンツェル』の「春を待つ胸が苦しいのだ」は、対応してる気がします。
春を待つ間苦しかった胸が、春が咲いて泣いているのなら、嬉し涙だといいなと思います。

「想い出にこびり付いた雲が青く揺れる」の雲は、
1曲目『モノローグ』で書かれた、癌みたいにこべり付いた「かつての幸せ」の事と思えます。
「かつての幸せ」によって空いた穴から、「日々涙が落ちる」そうです。
「雲が青く揺れる」→雲から青色の雨が降る→涙が落ちる
と連想すれば、
セロ弾き群青は、青い涙を流してセロを弾いている場面と思えます。

「床に散らかったゴミ」=『ラプンツェル』の「空いた灰皿やビールの缶」とすると、
ラプンツェルの「窓のない砂漠」がセロ弾き群青の「部屋」だと思えます。
この2つの曲は、涙というテーマで繋がっているように思いました。



「汽車に乗る僕は往く、何か言う君が見えなくなる」は、『三月と狼少年』の「今汽車に乗り込んださよならの笑顔」以降の詞に対応してそうです。
狼少年が「何か言う君」だったとしたら、聞き取れなかった狼少年の言葉だけは、嘘でない、本当の言葉だったのではないかと感じます。個人的な想像ですが。
狼少年だった自分(子供だった自分)との、決別のシーンにも感じます。

『セロ弾き群青』では「右耳が聞こえなくなったときか」などの、多くの箇所でヘッドホンの右側からだけセロが聞こえます。
「僕」には聞こえずとも、聞こえなくなった右耳のそばに、セロはずっと寄り添っていたのかなと。

それでもいいよ。

13曲目『それでもいいよ。』の「盗んだ財布」は『セロ弾き群青』の財布ではないかと想像しました。『セロ弾き群青』の主人公は、『それでもいいよ。』の二人からスリにあったのでは、と思います。
「毛布の中で読んだ絵本の青空」は『泣いた振りをした』の青空が恋をした話の青空かもしれません。
青空が恋をした話の「アメを降らせた」のアメを飴とすると、お菓子の家が出てくる『それでもいいよ。』の世界観に近いです。
「空の向こうで世界に春が来るんだよ」の空の向こうは、月だと思いました。『かぐや』に「月に春が来た」とあるので。

かぐや

14曲目『かぐや』という姫を省略した曲名は、『白ゆき』もですが、姫が居ない(=君が居ない)という意味に思いました。アルバム内で、今ここにいない誰かを思い出す描写が何度もありますし。

「このまま」と何度も繰り返す歌詞は、子のまま、つまりずっと子供でいられたら、という意味を込めてる気がします。
竹取物語では、月の人は老いることがないので。
童話モチーフのラスト曲なので、童話の世界にずっといられたら、という意味にも思えます。

カエルのはなし

17曲目『カエルのはなし』は、月の異名「玉兎銀蟾」も意識してるのかなと思います。
「蟾」はヒキガエルの事で、中国の伝説に、美女が不老不死の薬を飲み、ヒキガエルに姿を変えて月にのぼったという話があるらしいです。
不老不死の薬は竹取物語を連想しますし、『かぐや』に繋がるのかなと。

『カエルのはなし』のカエルの頭にある花は、空想力、童話を生み出す力だと思いました。
最後にカエルは花を好きになり、枯れた花の種を再び頭に植えます。自分の想像力を肯定できた、という風に感じました。

初回盤についている童話『花の咲いたカエル』は、春の咲いたカエルという意味でもあると想像しました。
カエルが自らの花を好きになれることは、春を好きになれることなのかもしれず、それは2曲目『ルラ』の冒頭部分「春が少し苦手」という詞に対しての、一種のハッピーエンドだと感じます。

『カエルのはなし』の「小さな白い花」からは、
1stアルバム『花と水飴、最終電車』の『始発とカフカ』『夜祭前に』『着火、カウントダウン』に出てくる、手紙に添えられた白花が連想できます。
アルバムを跨いでいますし、意図的だとしても隠し要素的なものと思いますが、『花と水飴、最終電車』と『月を歩いている』が繋がっている感じがして嬉しかったです。


n-bunaさんの歌詞は緻密で、想像するのが楽しいです。
以上です。

※投稿後に何度か加筆しました。