ヨルシカのテレパスについて考えたこと

ヨルシカの楽曲『テレパス』の、主に歌詞についての考察です。

※MVが出たのでリンク貼っておきます。

涙についての曲だと思いました。
雪化粧が地面を隠すように泣き顔(寂しさ)が隠れていて、
「溢れた塩の瓶」=しょっぱい涙 かなと。
雪が解けて水になるように、雪化粧みたいな寂しさが解けて涙になる、という。
一瞬だけでいい歌、メロディーも無く寂しさでもいい歌は、泣き声でも良いって事かなと。

ヨルシカでの涙が花緑青(毒)なのは、
涙の塩が桜(命)を枯らす事にも思えます。
「溢れた塩の瓶」は、花を枯らす毒でもあるのかなと。
花緑青は顔料なので「壁のペンキ」=花緑青(涙) と取れます。
「何度も塗り直した」は、もう居ない人を想い出して何度も泣いたのかなと。
あるいは、雪化粧を塗り直し涙を隠したのかもと思いました。

塩害で季節外れの桜が咲く事があるらしいので、
涙で濡れた瞳に、もう居ない人が見えた、とも取れます。


文字(言葉)の無くなった余白の世界を、雪化粧の白に例えてる気がします。
『左右盲』では「夏に舞う雹」が雪化粧(寂しさ)で、
僕(左右盲)は余白の世界に靴跡(言葉)を残したのかなと。
「その一つを教えられたなら」(左右盲)に対しての「言わなくたっていいの」とも思えます。

雪化粧=余白=言葉が見当たらない とすると、
「どう言えばいいんだろうか 例えば雪化粧みたいな」は、
どう言えばいいか分からない事をどう言えばいいのか、考えてるのかなと。

「僕だけ違うんだ 鞄に何か無いみたいで」は、違いを説明する言葉を探していると思えます。
「もう歩きたくないんだ」は、余白(雪化粧)に言葉(靴跡)を書く事に疲れたのかなと。
違わない相手、似てる相手に出会えたから、「ね?言わなくたっていいの」で終わる気がしました。

寂しさ=静寂 と取れます。
「白く降ってるんだ」は、空白(静寂)が降ってるから「寂しさ」なのかなと。
雪は音を吸収しますし。
「もう一瞬だけ歌って メロディも無くていいから 寂しさでもいいから」は、空白(静寂)でもいい、無音でもいいから歌ってほしいのかなと。
また、寂しさを埋める為でいい、自分自身の為の歌でいい、という意味にも感じました。


自分の気持ちは、何も言わずともテレパシーのように自分自身へ伝わります。
誰もが自分自身に対してテレパスなのかなと。

「貴方を少しでいいから もう一回だけ愛して 何も言わないでいいから」は、貴方自身を愛してほしいと取れます。
言わなくても気持ちが分かる自分自身を愛せたら、他者に愛される為の言葉を無理に費やす必要が無くなる、
だから「言わなくたっていいの」で終わる気がしました。

「想像で世界を変えて」=想像力で世界の受け取り方を変えて
と思えます。
「お願い、一つでいいから」は、貴方の世界だけでいいって意味かなと。
世界自体は同じでも、主観によって見え方が変わるので、
見方を変えて新しい自分自身に触れ、貴方自身を愛してほしいのかなと思いました。

相の心の像と書いて「想像」なので、
想像=テレパシー と取れます。
「想像して、自分に触れて」は、相手の心を読んで自分自身の心に触れた、共感したのかなと。
相手の気持ちに共感できたから、「言わなくたっていいの」で終わる気もします。


テレパスの歌詞中に「想い出」と「思い出」があります。
「想」という漢字は、相対するものの姿を心で思い浮かべる事で
「思」という漢字は、頭(田)と心で考える事らしいです。
なので、想い出には相手が居て、思い出には自分しか居ないと取れます。

「もう一瞬だけ話して 言葉も無くていいから 思い出でもいいから」は、
貴方だけの思い出でいいから、貴方自身と話してほしいのかなと。
自分自身となら何も言わなくても話せるから「言葉も無くていい」という。

記憶は思い出す度上書きされ、美化されるので、
「何度も塗り直した」「剥がれた壁のペンキ」は、何度も上書きした想い出と取れます。
「想像で世界を食べて」は、何度も想い出を反芻して(食べて)、すり減らしてしまったのかなと。
その結果、想い出が思い出になったという。

風を食む事は言葉を発する事でもある(『創作』特設サイトより)ので、
「想像で世界を食べて」=声を発してほしい と取れます。
「もう一瞬だけ話して 言葉も無くていいから 思い出でもいいから」は、
幻(思い出)でもいいから、相手と話したいのかなと。



「一つでいいから」という歌詞は、『夜紛い』『左右盲』の「一つでいい」を連想します。
夜紛いの「君に一つでいい 風穴を開けたい」でエルマの心に穴が空いたと取れるので、
心に穴が空いて無私になったとすると、
テレパスの「無私の共感はテレパシーたり得る」というヨルシカコメントに繋がります。

テレパシー=心の目で見る と取ると、
「この胸の中心に一つ」空いた穴が、心の目になったのかなと。
中心に心の目が開いたから、情報が増え通常の目で見る左右が分かり難くなった、とすると左右盲に繋がります。
左右盲の「心を亡れる」は無私と思えますし。

「心を亡れる」という「忘」に心がない歌詞が左右「盲」にあるのは、
心の目というテレパシー的な単語を意識してるのかなとか。


『チノカテ』とテレパスを関連付けます。
「白く降ってるんだ」は、白い花が降ったのかなと。
チノカテの白い花が散るのは、二人の関係の終わりの比喩、「寂しさ」と取れます。
植物は塩で枯れるので、花瓶の花は「溢れた塩の瓶」で枯れたと。
「言わなくたっていいの」で文字の中の心は頭へ帰り、自分自身とテレパシー(意思疎通)できる状態に戻れたのかなと思いました。


想像と肖像は、語呂が似ています。
「想像して、自分に触れて」=肖像で、自分に触れて
とすると、自分の肖像に触れたと思えて、
幻燈の「第1章 夏の肖像」に繋がります。

「もう歩きたくない」から肖像のように止まった、
肖像のように何も言わなくなったのかなと。
その絵(肖像)から歌を聴き取る行為がテレパシーで、幻燈(音楽画集)で歌を聴く事はテレパシーに似てるのかなと思いました。

テレパスのジャケットの、中心の人の形は肖像のようにも見えます。
ペンキを何度も塗り直す事で、絵(肖像)を描いたのかなと。
夏の想い出を、肖像にしたと。

メロディも言葉も無くていい歌=踊り と取れます。
言葉を無くすことで、何も言わない「踊る動物」になったのかなと思いました。



【追記】
MVが出たので、その後に考えた事を追記します。

寂しいは「さむしい」とも言い、「寒い」に似ています。
基本的に寒いと人恋しくなるので、
「雪化粧」「白く降ってる」で、寂しさを寒さに例えてるのかなと。

寂しさでいいメロディも無い歌は、
凍える雪の中でのSOSのように、誰かを求める声のように思えました。


MVの「あ」は、自分自身と取れます。
「想像して、自分に触れて」は、吾に触れて=溢れて
「溢れた塩の瓶」は吾(自分)に触れた塩、涙が頬を伝ったのかなと。

「例えば」=他問たとえば
他者が問うから、例える気がします。
ラストの「言わなくたっていい」=「い」はなくたっていい
他者(い=二人称)を気にしなくていいって事かなと。

例えばの「例」=人の列 と取ると、MVの人形の列を連想します。
自分を例えたもの(自分の人形)が、人の列になってるのかなと。
「言わなくたっていい」=例えなくていい
=他者に向けて自分を作らなくていい と思いました。

例=人の列=MVラストの『て』に見える人形の列 とすると、
「例えば、 ね?言わなくたっていいの」は、人の列が文字になって見ればわかる(言わなくていい)って事にも取れます。
空から見れば文字として読める、天国から見守っている人には言わなくとも伝わるのかなと思いました。



テレパスMVで落ちていた「あ」「い」は、愛やI(一人称) と思えます。
「貴方を少しでいいからもう一回だけ愛して」とあるので。

「言わなくたっていいの」=「あいして」と言わなくても伝わってる
と取れそうです。
あいして=I(一人称)して とすると
自分の肖像を作らなくても貴方は貴方として存在しているよ
という意味に思いました。

「あい」と言えば藍二乗です。
藍二乗は「書く自分」と「書かれる自分」で二重になってる
I(一人称)二乗 と取れます。
テレパスも「肖像を作る自分」と「作られた肖像の自分」の二重で、
「言わなくたっていいの」で二重から解放されたのかなと。

藍二乗は、涙が滲み藍色が二重に見えた、とも取れます。
テレパスも涙の曲と思えるので、藍二乗とテレパスは繋がってるのかなと。


MV最後に「て」という形の先で立ち止まります。
足跡=言葉 で、
「言わなくたっていい」=歩かなくたっていい
かなと。
雪化粧(余白)に書いた足跡(文字)という。

踏み出す=文出ふみだ
歩かなくたっていい=「言葉も無くていい」 と思うと、
最後の「言わなくたっていい」で立ち止まる事や「もう歩きたくないんだ」に繋がります。


「あ」という形の「石」を「手」にもってるので、
あ石手=あいして と思えます。

「あ」は五十音表最初の平仮名としては難しい形なので、
最初の一言が難しい、という意味もある気がします。
一言目(あ)が難しいなら「言葉も無くていい」
一言も無くていい、という。

MV3分55秒で大量の「あ」を吐くのは、
言葉にしようと何度も喉元まで出かかった最初の一言(あ)が詰まって、苦しかったのかなと。
「言葉も無くていいから」で言葉から解放され、
「あ」が吐き出されて楽になると。

最後の大量の「あ」は、黒い穴のようにも見えます。
無理に言おうとすると言葉の渦に飲み込まれるから「言わなくたっていいの」かなと。

最後の「言わなくたっていいの」=「い」は無くたっていいの とすると、
「あ」の次の「い」が無くていい=二の句が継げなくたっていい
とも取れます。
テレパスMVラストでは「あ」を見つめていますし。


テレパスMV3分40秒の、肖像の目の塗料が剥がれて涙に見えるのを「何度も塗り直した」
涙を隠したと思えます。
(水=涙になる前の)雪化粧で塗るという。
言い繕うことで涙を隠さなくていい=「言わなくたっていい」 かなと。

テレパスMVでは雪が雨に変わります。
文字(言葉)が固体としてMV内に存在する事から、
雪が雨になった=固体が液体になった=言葉が溶けて涙になった
と思いました。
「言葉も無くていいから」は、
無くていい=泣くていい に掛けてる気がします。

肖像に「あ」が埋め込まれるシーンがあるので
肖像=言葉(あ) とすると、
肖像が溶けて泣いてるように見える=言葉が溶けて涙になった
と思えます。

2番「言葉も無くていいから」の直後に雨が降りますし、
最後の「言葉も無くていいから」では、
泣いてるようにも見える肖像の前で大量の「あ」を吐くので。



テレパスMV40秒の■■■■は、
「テレパス」の4文字を隠してると思えます。
テレパシーがあれば「言葉も無くていい」ので。
多分MV中に曲名(テレパス)がないので、曲名代わりの伏字とも取れます。
三つ目の■の右上が欠けてるのは、「パ」の右上の○に合わせてかなと。
曲名も無くていいから歌ってほしい、という。

ヨルシカのロゴがMV内にないっぽい?ので、
■■■■=「ヨルシカ」 とも取れます。
名前(ヨルシカ)も無くていいから、歌ってほしいと。

ヨル=夜(黒)
シ=4個、四角
カ= とすると、
ヨルシカ=■■■■(内1つ欠けてる)
だと思えます。

歌詞の「さびしさ」「おもいで」「あいして」も4文字です。
どう言えばいいか分からない=■■■■(不明な4文字)
なのかなと。
「言わなくたっていい」から■■■■のまま明言されず、
意図的に外部からは確定できないまま終わる
そうだったら素敵だなと感じます。


テレパスMVの「想い出?」の所で耳を捥ごうとするのは、
想い出=おもいで=お捥いで って事かなと。
テレパシーみたいで嫌だから、耳を痛めて会話を遮断しようとしたと。

「想像で世界を変えて」=塑像そぞうで世界を変えて と思えます。
MV内で像作っていますし。
「想像して、自分に触れて」=塑像の自分に触れて とか。
作った塑像への「もう一瞬だけ歌って」だと思うと切ないです。(塑像は基本歌えないので)


テレパスのヨルシカコメント「無私の共感はテレパシーたり得る」は
共感=自分を相手の前世、生まれ変わりだと思う事
かなと。
相手はかつて自分自身だったから、
言葉が無くてもテレパシーみたいに伝わる、という。

テレパシー=意思(心)が超常的に遠くへ届く事
と取ると、テレパシーそれ自体が輪廻転生とも思えそうです。

雪が雨になる=生まれ変わって赤子になって泣く と取れます。
メロディも言葉も無くていい歌=赤子の産声や泣き声 で、
テレパスMVでは生まれ変わる為に自分の身体を作ってるのかなと。
-1の状態から「あいして」=iして で×iされて-iになり、
-1(あの世)から+1(この世)へ行く間の-i(赤子)になって産声を上げる、泣くと思いました。

テレパシー=本心を読む とすると
前世2023キービジュアルの女性は、
本を読むこと(テレパシー)で前世を思い出してるのかなと。


チノカテとテレパスを繋げて考えます。
「言わなくたっていいの」で立ち止まって終わるテレパスと、
「本を捨てよう」で町へ出て(歩き出して)終わるチノカテは、対照的な気がしました。

チノカテの「文字の中」の心が見る風景が、テレパスMV(文字の転がる雪化粧の余白) で、
テレパスMVで立ち止まる事
=文字の世界の外へ出る事
=町へ出る事 かなと。

「全部を読み終わったあと」に目を開けて、
文字の夢(テレパスMV)から覚める、と思いました。
心を読み終えて(テレパシーを終えて)、テレパスMVの外へ出る、町へ出るのかなと。


春吹雪は、俳句では春に降る雪の事なので
テレパスの「雪化粧」「白く降ってる」は、
『春泥棒』の春吹雪でもあるのかなと。
桜(命)が散るから「寂しさ」という。

テレパスMVの最初にある木は、散った桜の木かもと思います。

春泥棒の「言葉如きが語れるものか」を引き継いで、
テレパスでは「どう言えばいいんだろうか」と考えてるのかなと。
「愛を歌えば言葉足らず」だから、
「もう一回だけ愛して 何も言わないでいいから」になると。

以上です。