ヨルシカの左右盲について考えたこと

ヨルシカ『左右盲』の歌詞とMVについて考察したことです。

左右盲MV0:30で出てくるロゴの「左」は、「右」の右側の縦線(1)を引いたものに見えます。
1のない状態(-1)が左
1のある状態(+1)が右なのかなと。
複素数平面でも-1は左、+1は右にありますし。

「一つでいい」という歌詞は、1つ線を足し、左を右にするって事かなと。
左(-1=あの世)を右(+1=この世)にして、君を生かすという。
その後のMVの鉛筆の動きが、「左」へ書き足して「右」にしてるように見えますし。

「右も左もわからぬ」は、
この世とあの世の境界が分からない、生と死の境界に立ってるのかなと。
「心を亡れるほどの幸福」は生まれ変わる幸福、昨日までの自分と別人のようになる事の幸福と思えます。

ブレーメンMVでも、
左へ進む(死へ向かう)人が生者
右へ進む(生へ向かう)人が死者と取れます。


MV内の『左』の「工」は、縦線が左に寄って「C」みたいです。
視力検査で「C」には右と答えますが、字としては「左」なので「右も左もわからぬ」という感じがします。


「左右する」という言葉があり、決定的な影響を与えるという意味です。
僕は、君の人生を左右するような「その一つ」を教えたかったのかなと。

曖昧の「曖」「昧」には暗いという意味があります。
「右も左もわからぬほどに手探りの夜の中」は、左右が曖昧、と取れます。
昧は味に似ているので、「何を食べても味がしない」に繋がるのかなと。

左と右、LeftとRightが曖昧になりLight(光)になったのかなと思いました。
左右盲の僕は「夜の日差し」「小雨が止むための太陽」になると。

左右盲MVの1:30の鉛筆が、0:30の「右」の口を日にしてるように見えます。
夜の日差しや太陽を渡したいと歌ってる(口にしている)ので、口を日にすることで、君の太陽(日)になろうとしたのかなと。


左に一つ足して右
口に一つ足して日
が意図的なら、夜の日差しは目差まなざしに掛けてる気がします。
日に一を足すと目なので。

目を亡くして(盲いて)僕の目差しが日差しになったとすると、MV最後の窓の方を向く女性は、日差しになった僕を見ていたのかなと。


左右盲MVの0:30の左と右が、「工」と「口」を瞳、「ナ」を睫毛とした目の形に見えました。
「工」と「口」から「目」を消す(目を亡くす)と、
「目」のパーツである「二」と「口」が消え、「工」の縦線の「1」が残ります。
1つだけでも君の中に残ればいい、教えられたらいい、だから「一つでいい」のかなと。

残された「1」は、左右の工と口から目を引いた後に残った、一筋の涙のようだと思いました。
「夜の日差しの一つ」はその涙かなと。
『噓月』の「涙が宝石で出来てた」を踏まえると、瞳のサファイアが涙だと思えます。

「涙も忘れるほどの幸福」は、今までの涙(悲しみ)を、夜の日差しやサファイアのように美しく感じられるほどの幸福かなと。
涙を夜の日差しだと思えた時、悲しみは光、雨は日差しとなり、「小雨が止むための太陽」が現れる気がしました。


左右盲の「左」を分解すると「人工」、
「右」を分解すると「人口」になります。
幸福な王子は像で、人工物です。
散らぬ牡丹(人工物)が君(人)の胸を打てるのなら、人工物と人の違いなど無いのかなと。
人工的に自分が作りだした想い出か、本当の想い出かが分からなくなるという意味や、
人工じんこう人口じんこうが(言葉として)どちらか分からなくなる感覚に掛けてある気がしました。


「君」という漢字の形に、「右」が含まれています。
左右盲MV30秒の「左」は右から一つ線を引いた形なので、「左」も「君」に含まれていると取れます。
「右も左もわからぬ」は「君」の細部を忘れていく事なのかなと。
MV説明文に「相手の顔の造作や仕草を少しずつ忘れて、その左右もはっきりとわからなくなっていくような感覚を、左右盲になぞらえる」とありますし。

「貴方」の語源は彼方で、遠くの方を意味する言葉だったようです。
私から見た貴方は遠くの方へ行ってしまったのかなと。
僕から見た君の左右が分からなくなる(=「君」を忘れていく)事に対応する気がしました。


「左右盲」からエと口と目を取ると、
ナナ亡=ななな=777
幸運のスリーセブンになります。
エ(柄)からルビー
口から言葉
目からサファイア
を取って君に渡した僕も幸福(777)だから、「君の幸福は一つじゃない」のかなと。
君の幸福は777個あるのかもしれません。


左右盲は、左右対称になって左右が分からなくなったのかなと。
「散らぬ牡丹」=ずっと咲き続ける
「夜の日差し」=昼と夜が同じ明るさになる と思うと
左右盲=咲く(生)と散る(死)、昼と夜の違いが分からなくなる と取れます。

散らぬ牡丹=永遠の命 で、
「心を亡れるほどの幸福」=心を亡くしても生きていけるほどの延命
夜の日差し=夢の中を照らす光 で、
「心を覗けるほどの感傷」=本来は見えない心(夢の中)を覗けるほどの光
かなと思いました。


左右盲の歌詞には右手と左手の他に、上手も出てきます。
「右も左もわからぬほどに手探りの夜の中」は、
左右だけでなく上下、
上手くできてるか下手かもわからない「手探りの夜の中」なのかなと思いました。

MVの女性は、手探りという歌詞の度に手を動かします。
一度目の「手探り」でページをめくり、
二度目三度目の「手探り」で猫を撫でます。
「右も左もわからぬほどに手探りの夜の中」
は、見た目では分からないから手で触れて確かめてるのかなと。

「君の目は閉じぬことを」は、君の世界は閉ざされない、視覚じゃない手段で開かれているという意味に思いました。
瞳のサファイアを失った幸福な王子が視ていた景色も、「手探りの夜」なのかなと。

「一つでいい」は、五感のうち触覚だけ、手のひらの感覚だけって事かもと思いました。
「一人行くその静けさ」は聴覚、
「君の目は閉じぬこと」は視覚、
「食べても味がしない」は味覚と嗅覚を失ったと。
「右も左もわからぬほどに手探りの夜の中」は、手の触覚を頼りに歩いているように思えます。
手の感覚を頼りに、かつて繋いでいた誰かの手のひらを探しているのかなと想像しました。

MV45秒の鉛筆が、35秒の「左」に線を足し「右」にしたように見えます。
左右両方「右」にし、君を左右が分からない状態(左右盲)にしたのかなと。
君に僕を忘れさせる(僕の左右を曖昧にさせる)、自分が偽物(散らぬ牡丹)になる事で君に前を向かせ、
胸を打って(心臓を動かして)生かしたかったとか。


「左右盲」の左右を反転させて読むと、
「盲右左」=もうゆうさ=もう言うさ になります。
「その一つを教えられたなら」の一つを、もう言うのかもしれません。




「散らぬ牡丹の一つでいい 君の胸を打て」の牡丹は、造花、偽物の花と取れます。
『言って。』に「牡丹は散っても花だ」とあり、散らぬ牡丹は花ではない、と取れるからです。

「幸福な王子」は像なので、人工物である造花に、自分自身を重ねたのかもしれません。
紛い物の自分でいいから君の胸を打ってほしい、という。

『春泥棒』のように命を牡丹(花)に喩えているとすると、
牡丹(僕の命)は散ってしまったけれど、散らぬ牡丹(死後の念)でいいから君の胸を打ってほしい、と取れます。
『言って。』の「牡丹は散っても花だ」は、散った(亡くなった)人を未だに生きている(花である)と思っていたいのかなと。

牡丹色は赤系統なので、剣の柄から取ったルビーと思えます。
また、夕焼けと取ると『夜紛い』を連想します。
「一つでいい 君の胸を打て」と、
『夜紛い』の「君に一つでいい 風穴を開けたい」が似ていますし。


立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花
という言葉があるので、
左右盲の牡丹は、MVの座って読書している女性と思えます。
絵に描かれた花は散らずに咲き続けます。
「散らぬ牡丹」は、MVの視点人物が描いた、その女性の絵なのかなと。


春泥棒MV内の山口青邨の句「めつむりて闇きが中に白牡丹」は、左右盲の「手探りの夜の中」を照らす「牡丹」なのかなと思います。
左右盲MVの「本を読む女性」は、山口青邨句集『雪国』の「牡丹散り終日本を読まざりき」を連想します。
左右盲収録の幻燈には『雪国』がありますし。


「散らぬ牡丹」は、不亡草ほろびんそうという別名がある松葉牡丹とも取れます。
赤い松葉牡丹はルビーみたいで「今日の小雨が止むための太陽」かなと。
「心を亡れるほどの幸福」から 不亡草→不忘草→勿忘草 と連想します。
勿忘草色は青系なので、「この瞳からサファイアを」のサファイア、「涙も忘れるほどの幸福」に繋がる気がしました。

猪肉を牡丹と言うので、
「散らぬ牡丹」は、命が散らされ猪肉になる前の猪と思えます。
「一つでいい」→ちょっとでいい→ちょとつ(猪突)でいい
「右も左もわからぬほどに手探りの夜の中」を、猪突猛進で行くのかなと。


「その静けさを その一つを教えられたなら」についてです。
青と争で、静になります。
サファイアは青色、剣の柄のルビーは争いの象徴と思えるので、
サファイアとルビーを渡す=青と争を渡す=静けさを教える
と思いました。

「星彩」という言葉には星の光という意味と、
ルビーやサファイアに光を当てた時の星形の光像という意味があります。
「夜の日差し」は、剣のルビーや瞳のサファイアの星彩なのかなと。

僕は太陽を渡したいので、
渡したいよう=わたしたいよう=私太陽
と思えます。

身体の漢字の部首に使われる「にくづき」は月の形なので、
身体から剥がした心を君にあげる行動は、月をあげる事に思えました。
月光は日光を反射したもので、「夜の日差し」と取れますし。

サファイア=サンファイアー=sun fire
とすると、夜の日差しや、小雨が止むための太陽に繋がるなと。
「一つでいい」は、伸ばし棒(ー)を付ける、
つまり、サファイアをサファイアーにするって事かもしれません。

「心を覗けるほどの感傷を」の感傷かんしょうは、干渉かんしょう観賞かんしょうという同音語に掛かってる気がします。意味も合いますし。
1番の「幸福」の箇所が2番で「感傷」になるので、
幸福こうふく降伏こうふく
感傷かんしょう完勝かんしょう
としても収まりが良いです。
君に一つでいいから、勝ちたいのかもしれません。


幸福=こーふく=529=23×23=ふみ×ふみ とすると
「君の世界に少しでいい僕の靴跡を」は、
世界を靴でふみふみ(23×23)する事で、幸福(529)を残そうとしたのかな、と思いました。

「心を亡れるほどの幸福を」についてです。
デジタル数字では、5を左右反転させると2に、6を180度回転させると9になります。
君の胸を打つことで556を529に、つまり556幸福529にしたかったのかなと。
心=小頃こころ=小さな頃
子どもの頃を忘れるほどの幸福でもあるのかなと。
「君の胸を打て」とあるので、
「胸」という字の中心にある「凶」を「幸福」にしたと取れます。


「君の世界に少しでいい僕の靴跡を」の靴跡は道しるべ、君が手探りで行く夜の道しるべの一つになれたら、という意味に取れます。
「靴跡」は軌跡きせきであり、同音語の奇跡きせきに繋がります。
1は奇数で、足すという動詞には、足があります。
君の世界に僕の奇跡を足す(奇数(1)の足跡を残す)ことで、「君の幸福は一つじゃない」と教えたかったのかなと思いました。

「僕の靴跡」は、靴跡→くつあーと→92アート と取れます。
君の世界に僕の描いたアートを残したいのかなと。
「わかるだろうか、君の幸福は一つじゃないんだ」と続くので、 君の幸福は92個あるのかもしれません。

「心を少しずつ剥がして君に渡して」は、君には足して、と取れます。
僕の心が足されたから「君の幸福は 一つじゃない」のかなと。


「心を亡れる」を「心を忘れる」と歌っています。
忘れることは、その時の心を亡くすことに近い気がします。
僕が左右を忘れるのは、君に心をあげて亡くしたからで、
「心を亡れるほどの幸福」は、君に心をあげることに幸福を感じている、僕にとっての幸福とも取れます。

心臓は左側にある人が多く、己の鼓動に耳を澄ませばどっちが左か分かります。
「右も左もわからぬほどに手探りの夜の中を一人行くその静けさ」は、
心臓が止まって左右が分からない、己の鼓動も聴こえない、静けさを行く死者視点に思えました。

「心を亡れるほどの幸福」を心臓を忘れると取ると、
鼓動が聴こえなくなるほどの、左右なんてどうでも良くなるほどの幸福に思えます。

MVの視点人物が絵を描いているのは、絵を描くことで脳に焼き付けて忘れないように、あるいは、忘れても構わないように絵を残すのかなと。

心=忄(りっしんべん)とすると 心+亡=忙 です。
「心を亡れるほどの幸福」は、無心で絵を描くという忙しさで、心を忘れてしまうことの幸福にも思えました。

「心を亡れるほどの幸福」は、心を埋めるほどの幸福でもある気がします。
心の存在を意識するのは、心に穴が空いたり、傷付いた時だと思います。
幸福になって穴が埋まると、心を意識しなくなる(忘れる)という。


左右盲MVの説明に「普遍的な恋人の別れをイメージする。」とあります。
変の下部分(攵)は打つという意味らしいので、
「君の胸を打て 心を亡れるほどの幸福を」では「恋」の心を亡れ、打つ(攵)ことで「変」になる気がしました。
「普遍的な恋人」が変人(普遍的じゃない人)に、
 不変的から可変的になって別れが来るのかなと。

「別」の字源は冎と刀で、骨と肉とを分けることらしいです。
「僕の身体から心を少しずつ剥がして」「身体が消えてしまったようだ」は、別れを字源的にも表していると思いました。

「心を亡れるほどの幸福」は、変人になる事の幸福にも思えます。
別れた(わかれた)後に変われた(かわれた)のかなと。
右も左もわからぬ事は、
恋と変が変わらぬ事でもある気がしました。
振り返ってみれば、恋心は変なものなんでしょう。




左右盲=白湯さゆ羽毛うもう とすると、
白湯や羽毛布団のような、穏やかな気持ちを歌った曲と思えます。
「温いマグカップ」には白湯が入っているのかもしれません。
MVで「朝がこんなにも降った」の時、猫は寝ています。
朝の心地よさが、猫の毛布になったのかなと。
朝がこんなに毛布もふった、という。

左右盲MVの三毛猫は生まれ変わった僕かもと思います。
(泣きたい私は猫をかぶる的な)
「僕にはわからないみたい」は、猫になったから分からなくなったと。
オスの三毛猫が希少だからこそ、ありそうな気がしました。

左と右がわからないように、『猫』と『描』がわからなくなったのかなと。
絵描きの僕は、
『ずっと君を描いてたい』と思ったけれど、
『ずっと君の猫でいたい』と取り違えてしまい、猫に生まれ変わったという。
猫も描もわからぬほどに手探りの夜だったのかもしれません。

「君の世界に少しでいい 僕の靴跡を」を、転生した猫が言ってると思うと切ないです。
猫は靴跡ではなく、肉球の跡しか残せないので。


リングワンダリングは、吹雪や霧、闇夜などに人が方向感覚を失い、無意識のうちに円を描くように同一地点を彷徨い歩く事です。
円=輪廻転生 と思うとヨルシカの物語内の生まれ変わりを連想します。
「右も左もわからぬほどに手探りの夜の中」で、円を描くように、
生まれ変わりの円環の中で君を探すのかなと。


「君の目は閉じぬことを」は、少し前に「夜の日差し」とあるので
夜でも目が見えるように、という意味かなと。
「夏に舞う雹」という変わった天気の中でも、君が前を行けるように、諦めずにいられるように、
大切なものを見失いませんように、という風に取れます。

夏の夜に月光で大地が霜を置いたように見える事を「夏の霜」と言うので、
「夏に舞う雹」は月光とも取れます。



「君の目は閉じぬことを」を、目が開いたまま動かないとすると
君が亡くなりかけているとも取れます。
「鉛の心臓はただ傍に置いて」は、君の傍に心臓を置く、つまり僕の心臓を移植したのかなと。
「夜の日差し」は手術台の光、「心を覗けるほどの感傷」の感傷は、手術するために開いた傷と取れます。
「心を亡れるほどの幸福」は心臓を代償に君を生かせる事の幸福で、
「君の幸福は一つじゃないんだ」は、君が幸福だと僕も幸福で、二倍の幸せになるって事かなと。
「貴方の心と私の心がずっと一つだと思ってた」は、貴方を代償にした生を望んでなかったのかなと。
心臓ではなく、貴方の心と一緒に生きたかったと。


また、
「一つでいい」を、君と僕が同一個体になればいいという意味に取ると、
「心を亡れるほどの幸福」は、自我を失う幸福に思えます。
考えることを辞めて君の一部になれたらそれも幸せだろう、という。
君に僕の全部をあげたら同一化しそうですし。
右と左が分からなくなる左右盲は、僕と君の区別がつかなくなる事でもある気がします。
貴方の心の願いに反して、私は貴方と同じにはならなかったから、
「ずっと一つだと思ってたんだ」という終わりなのかなと。


鉛筆の芯=鉛の心臓 とすると、
書く度に鉛筆の減る事が、心臓の鼓動の残りが日々減っていく事に思えます。
「心を亡れるほどの幸福」は、気付けば鉛筆の芯が亡くなっているほどに絵に熱中できた幸福、
あるいは、気付けば自分の残り寿命が亡くなっていたほどに、熱中できた幸福なのかなと。
MVの僕は、君の絵を描いているうちに寿命が尽きたのかもしれません。
「朝がこんなにも降った」は、気付けばたくさんの日々が過ぎ去ったって事かなと。



左右盲の歌詞から『嘘月』を連想します。
味がしないという歌詞が両方の曲にあり、
「涙が宝石で出来てた」は瞳のサファイアと取れるので。
宝石で出来てた涙と「バケツ一杯の月光」は同じ物で、夜の日差しであり、サファイアでもあるのかなと。
それを対応させると、「愛を、底が抜けた柄杓で呑んでる」の愛は、夕陽やルビーと思えます。
「飲めば飲むほど喉が乾いて」しまうのは、それが熱い太陽だからかなと。


『雨とカプチーノ』と左右盲を関連付けます。
「褪せないような花一つ どうか 胸の内側に挿して」=「散らぬ牡丹の一つでいい 君の胸を打て」
「生き方一つ教えてほしいだけ」=「その一つを教えられたなら」
「灰色に白んだ心はカプチーノみたいな色してる」=(ルビーやサファイアを無くした後の)鉛の心臓
という類似を感じました。
「温いマグカップ」も雨とカプチーノっぽさがあります。
雨流れ、嵐す花に溺れている時に、褪せない花(散らぬ牡丹,造花)が「小雨が止むための太陽」になったのかなと。

どうか=同化とすると、
「どうか 君が溢れないように」
→同化して君が溢れないようにする
→貴方と私の心が一つだと思いたい
と取れます。
君が溢れてしまったから「貴方の心と私の心が一つだと思ってた」、過去形なのかなと思いました。


映画(今夜、世界からこの恋が消えても)の主題歌として考えると、忘れてしまう(心を亡くす)彼女に僕の心をあげることで、彼女の健忘症を治そうとしたのかなとか。


幸福な王子に一つ足すと、幸福な玉子になります。
僕は幸福な玉子を君にふるまったのかなと。
美味しい料理で、君の胸を打ちたかったと。
「何を食べても味がしないんだ」は貴方のどの料理も薄味だったからで、
貴方の心と私の心の、味の好みが違ったのかなと。
右も左もわからぬほどに手探りの料理だったのかもしれません。

「一つでいい」を、僕が全ての料理に一味をかけた、と取ると
「何を食べても味がしないんだ」は一味が辛すぎて味分かんないのかなと。


結合双生児を連想しました。
「僕の身体から心を少しずつ剥がして」「心がずっと一つだと思ってた」から、僕と君が身体を共有していて、分離手術をしたのかなと。
心臓は最初から君と僕で共有してたから「鉛の心臓はただ傍に置いて」で、瞳と手は共有していなくて(二人分あって)、サファイアとルビーを渡すと。
結合双生児で、君と僕の顔が似ていてどっちか分かりにくい事を「右も左もわからぬ」と言っているのかもと思いました。
分離手術で僕は亡くなったのかもしれません。
身体を共有していた貴方がもう居ないから、「身体が消えてしまった」ように感じるのかなと思いました。
個人的に、萩尾望都さんの『半神』の妹視点と思って左右盲を聴くとしっくりきます。
結合双生児について詳しくないので、何か失礼な事だったり、間違った事を書いていたらすみません。



心を忘れるが「心を亡れる」なら、
空の絵(エ)は、穴のエと書けそうです。
左右盲MVの絵描きは絵で君の胸を打った(穴を空けた)のかなと。
牡丹が散らぬのは絵の牡丹だからという。
夜の日差しは、夜空に空いた光の穴と取れます。
右も左もわからぬ夜は、声(口)も聞こえず絵(エ)も見えない闇夜かなと。

『心に穴が空いた』は、
「忘れたい脳裏を埋め切った青空に君を描き出す」から、空にエ(絵)を描いたと取れます。
夜を纏った目の奥の月明かりも、闇に空いた光の穴なのかなと。

絵の中の牡丹は散らない(変化しない)ので、
『チノカテ』の「散った。それでも綺麗だね」は、絵の外の散る牡丹も綺麗ってことかなと。
本を捨て町へ出るのは、絵の中から抜け出すとも取れます。


「一つでいい」=火凸ひとつでいい で、火を突撃させる事、
「君の胸を打て」「心を亡れるほどの幸福」は、魂が燃える事(451)にも思えました。
左右盲と451は、歌詞に「太陽」が出て来る事が共通しています。
「心を覗けるほどの感傷」=「胸の窓を開けて」(451)なのかなと。

「君の世界に少しでいい僕の靴跡」
=君の世界に過ごしていい僕の靴跡 で、
左右盲MVの猫のように、君の世界には僕が住んでいる気がします。
「君の幸福は一つじゃない」のは、君に住む僕(君に渡した僕の心)の幸福でもあるからかなと。

左右盲の画集の絵の鳥は、サファイアを盗んでいく瞬間にも見えます。
「この瞳からサファイアを」とあるので、サファイア=涙 とすると、
涙(サファイア)を盗み、涙を亡くす事で「涙も忘れるほどの幸福」をくれたのかもと思いました。


左右盲の「心を亡れるほどの幸福」を、忘我の境地や、言葉を失うほどの感動とすると、
他の文学モチーフ曲と同様、言葉(思考)から抜け出すことを歌っているように思えます。

他の文学モチーフ曲に
又三郎「言葉も飛ばしてしまえ」
老人と海「想像力という重力の向こうへ」
月に吠える「一切合切放り出したいの」
ブレーメン「考えなくてもいいよ」
チノカテ「本も捨てよう」
とあります。
文学作品(言葉の作品)モチーフで、言葉を捨てる事を歌うのが面白いです。

以上です。
お読みいただきありがとうございました。