ヨルシカのチノカテについて考えたこと

ヨルシカさんのチノカテの歌詞について考察したことです。
MVが出たら追記するかもしれません。
(MV公開されたので、貼っておきます)

夕陽=ゆうひ=言う日 とすると
「あ、夕陽。本当に綺麗だね」は、
「本当に綺麗だね」と相手に言えた日なのかもと思いました。

「本当に大事だったのは花を変える人なのに」とあり
花が散った事と、二人が散り散りになった事、
離れ離れになった事を掛けている気がします。
「あ、散った。それでも綺麗だね」は、
二人は散り散りになっても、それでも相手を綺麗だと、大事だと思えるって事かなと。

待って=舞って とすると
「あ、待って。本当に行くんだね」は、
花が舞ってしまうように、貴方との生活が終わってしまったと想像しました。
「町へ出よう」で終わるので、新しい生活の始まりを肯定できている気がします。


迷=まよ=真夜 とすれば
「先のもっと先を描いた地図」があれば迷わない
「夜をずっと照らす大きな光」があれば真夜(=闇)はない
と繋がります。

間違えた=町変えた とすると
「頭にあった」心が、町を変えて「文字の中」へ引っ越したと思えます。
そのあと本やペンを捨て、文字の外、本当の町へ出ると。

「思い出す」と「町へ出よう」の漢字には、
 田と出があり、心と丁だけ違います。
「今じゃ文字の中」の心は、本から町へ出ていきます。
 本が落丁したと取ると、
「思」から心が落丁して「町」になった
 つまり思い出から町へ出た、と想像しました。

枯という字は古本に似ていて、
枯れる=古い本になる=思い出になる と連想できます。

枯れた花や捨てた本から、新たな芽が出るのでしょう。
「読み終わったあとはどうか目を開けて」は、
目を開けて=芽を開けて
つまり新しく生まれ変わろうって事かなと思います。

「先を描いた地図」は、
先=さき=咲き
とすると、咲き方、生き方を描いた本と取れます。

本通り(手本通り)に生きるのを辞めて、
本当を探しに行くのかなと。



「白い花」は、話に花が咲くことにも思えます。
花が枯れる=話す声が枯れる という。

声は、文字じゃ伝えきれない余白を埋めてくれます。
「白い花」は、文字じゃ語れないもの、余白の象徴かなと思いました。

n-bunaさんのボカロ曲『着火、カウントダウン』の手紙に白い花が添えられているのも、文字じゃ語りきれない気持ちを伝えたかったのかなと。
『始発とカフカ』で、伝えたい事しかないのに声が出ないから白花を添えたと。

「白い花」は月下美人とも取れる気がしました。
月下美人は一夜しか花を咲かさないと言われているらしいので、
「夜をずっと照らす大きな光」にはなれず、「目を開けて」夜が明けたら町へ出ると。

チノカテを逆にすると、テカノチです。
空がテカテカ晴れたノチに町へ出よう、って事でもある気がします。


「花を変える人」は、枯れた花を次のものへ繋げる人と思えます。
花を変える=変化させる という。
ヨルシカがよく題材にする、輪廻転生に繋がりそうです。


カプチーノとチノカテは、字面が似てます。
『雨とカプチーノ』の「花の白さ」は、「白い花」に通じそうです。
「夕陽を呑み込んだコップ」にカプチーノ入ってたのかなとか。


花と夕陽から、『花人局』を連想します。
チノカテの主人公は、盗作おじさんかもと感じます。

「白い花」は、一輪草か、あるいは妻が一輪草と呼んだ白い花(『盗作』の小説140ページ)かなと。
花瓶の白い花を捨てる=花を持たせたもうこの世にいない妻を待つこと、花に亡霊を見ることを辞める
つまり過去に区切りをつけ、前を向きはじめるのかなと。

『花人局』が「夕焼けをじっと待っている」で終わる事を踏まえると、
「あ、夕陽。」は、夕陽に出会い、夕焼けや妻を待つ必要がなくなるって事に思えました。
『花人局』での「言葉だけをずっと待っている」ことも辞めるから本も捨てるのかなと。

ソファは『強盗と花束』のソファで、
ソファを捨てることは盗みを辞めることの象徴に思います。


「花を変える人」は、花を大事なものに変えてくれた人と思えます。
花を変える=花の認識を変える とすると
『盗作』小説の白い花を一輪草だと言う妻を連想します。
盗作おじさんは変に納得して暫く勘違いしていたので、妻はその白い花への認識を暫く変えたと言えそうです。


二番サビの「叶えたかった夢が貴方を縛っていないだろうか?」から、
『又三郎』の「悲しみも夢も全て飛ばしてゆけ」
『老人と海』の「想像力という縛りを抜け出して」
を連想しました。

三番サビの「貴方の夜を照らす大きな光~どうか目を開けて」から、
『左右盲』の「夜の日差しの一つでいい~君の目は閉じぬことを」
を連想します。

文学モチーフの曲同士、繋がっているかもと思いました。
以上です。



【追記】
MVの場所が、左右盲MVと似ています。
コップがルビーみたいなら、絵がサファイアなのかなと。
左右盲MVのキャンバスの周辺に、青色が付いていますし。
「この瞳からサファイアを」(左右盲)は、瞳に映るものを絵にした、と取れます。

チノカテの「白い花」=白いキャンバス とすると
「花を変える人」が、絵に色彩をくれたのかなと思います。
「文字の中」の無彩色な心を色付け、華やかにしてくれたと。

チノカテMVの花とカーテンが白色で、
左右盲MVの花が赤、カーテンが青なのは、
ルビーとサファイアで染めてくれたのかもと思います。

チノカテMVの花瓶はコップみたいな形なので、
「夕陽を呑み込んだコップがルビーみたい」は、白い花が夕陽でルビーに染まったと取れます。

左右盲の「夜の日差し」は青色のカーテンでもあるかなと。
青色(夜色)越しの日差し、という。
「この瞳からサファイアを」なので、目差しが日差しに変わったと。



今年のMVが公開された曜日は
ブレーメン月 7/4
左右盲  月 7/25
チノカテ 木 9/8
なので、月と月と木で棚になります。
本棚の棚ってことかなと。
カレンダーの曜日とは、暮らしを入れる棚なのかもしれません。


MVの説明文に「過程。」とあります。
(花が)散る過程→散の過程 でチノカテとか、
町へ出るのを散歩として、 散(歩)の過程 でチノカテかもと思います。

イ→人偏→人 とすると
自分(人)を捨てたから、カテイ(過程)がカテになったと取れます。
命の過程(イノチのカテイ)の中に、チノカテがあります。
命の過程(イノチのカテイ)で、イとイ、つまり人と人との間にあるのがチノカテだと思うと
MVで二人の間にある花が、チノカテだったのかもしれません。


白い花が散って、花びらは町へ出たと取れます。
捨てられたソファや本も、町へ出て散歩しているのかもしれません。



「今じゃ文字の中」=地の文の中 と取れます。
「頭にあった」心が地に落ちて、
夢が地面(地の文)に根を張り、貴方を縛っているのかなと。
(夢を)諦めていい=秋にしていい=枯らして次に進んでいい と思いました。

今じゃ文字の中=今じゃもう地の中 と思えます。
「曜」には光り輝くという意味があるので、
「土曜の生活感」は、夕陽に光る土の生活感でもあるのかなと。
そのままでいい=素のままでいい=地のままでいい で、
地の文(地図)ではなく地面そのものに触れて迷えばいい、という意味に感じました。


諦めるの語源は明らむらしいです。
「ずっと叶えたかった夢」「それを諦めていいと言える勇気」は、「貴方の夜をずっと照らす大きな光」に繋がる気がしました。
夕陽、日が沈む前の明かりが「諦め」なのかなと。


チノカテは、仮定された家庭の過程、とも取れる気がします。
町へ出る=家庭の外へ行く
本を捨てる=教科書や親の教えから抜け出す
とすると、子が親から離れる過程の曲かなと。
教科書や親の言葉に心が従ってるから「今じゃ文字の中」という。
「ずっと叶えたかった夢」は、親や家庭や学校が押しつけたものかもしれず、人を縛ってしまうこともあるでしょう。
「貴方の欲しがった自分を捨ててしまった」は、親(貴方)の望んだ通りの子であることを辞めたのかなと。
「あ、待って。本当に行くんだね」は、旅立つ子を見る親視点にも、老い衰えてあの世へ行きそうな親を想う子視点にも思えました。


チノカテは、知の過程とも取れます。
百聞は一見に如かずで、本では知として不完全だから町へ出ると。
ある分野に通じている事を、〜に明るいと言うので、「貴方の夜をずっと照らす大きな光」は知の光でもある気がします。
花が枯れる=知識が古くなる、とすると
「花を変える人」は知識を更新しあえる、一緒に人生を学んできた相手なのかなと。



チノカテの歌詞に本当が10回出てくるのは、
本当→本とう→本10 ってことかもと。

本当と十回歌う=本当と十かい口にする と思うと「叶」という漢字に通じます。
ずっと叶えたかった夢を捨てること=十かい口にした本当を捨てること かなと。

「ずっと叶えたかった夢」は古い夢、枯れた白い花とも思えます。
「叶」を横に倒せば「古」なので、「枯」には「叶」が含まれています。
叶えたかった夢が実らず(現実にならず)、枯れてしまったと。

本を捨て「本当」が「当」になったとし、当=とう とすると
とう! と勢いをつけて町へ出たと思いました。
本当かどうかを気にせず、今ここにいる自分の衝動に身を任せたと。


「本当」の対義語は嘘なので、フィクション、物語(本)も対極だと取れます。
昔の自分を他人だと感じるように、
本当に大事だった気持ちは、今じゃ物語(文字の中)になってしまったのかなと。

「あ、夕陽。」は、昔の自分という物語を燃やす炎を、夕陽に喩えているのかなとか。

貴方=昔の僕 とすると、
「貴方の欲しがった自分を捨ててしまった」は「ずっと叶えたかった夢」を捨てたと取れます。

「本当に大事だった」のは、思い出(物語)ではなく思い出をともに作る相手だから「大事だったのは花を変える人」かなと。


社会も一種のフィクションと思うと、
「この本を捨てよう」は、自分が縛られている世界(既成概念)を捨てよう、と取れます。
自分を縛る社会(物語)から抜け出す為に、他の物語の中に入る、文学をモチーフにするのかなと思いました。


花が枯れると、実がなったり、実がならなかったりします。
植物は基本その場から動けないので、一度咲くと能動的には町へ出れません。
「貴方の欲しがった自分を捨ててしまった」は、実った夢、実った恋を捨てたのかなと。
叶えた夢や結婚の先には、ある種の束縛もあるでしょうし。

実=真実 とすると
本当に大事だったものが枯れて、真実になったり、真実になれずフィクションになったりしたのかなと。

白い花が散る過程、実になったりならなかったりする過程は
夢や恋が、実ったり実らなかったりする過程の比喩に思えました。


「心は頭にあった」は、
心が先頭にあった、心が動機として一番最初にあったとも取れます。
「今じゃ文字の中」は、先立つものが自分の心ではなくなり、他人の書いた言葉に埋もれてしまったのかなと。
本を捨て町へ出る=文字の外へ出て、心を先頭にして歩く
ってことかなと思いました。
ほんとう(本当)から本を捨て、とう(頭)だけになると。

「〜だろうか」という言い回しの歌詞は、廊下(ろうか)を連想します。
町へ出る=屋外へ出る とすると
建物内の廊下から外へ出ることを、
「〜だろうか」という推量から抜け出すことに喩えてる気がしました。


「花瓶の白い花いつの間にか枯れたみたいだ」は、平家物語の「沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」に対応してる気がしました。
『都落ち』の説明でも平家への言及がありますし。


チノカテのモチーフ元『地の糧』の跋に「模倣を辞めてくれ」みたいなことが書いてあって、エイミーがエルマに言ってるみたいだと感じました。
地の糧のナタナエルに語りかける視点人物は、エルマに手紙で語りかけるエイミーと似てる気がします。

チノカテを「模倣を辞めていいよ」という曲と取ると、ノーチラスと同じ立ち位置の曲に思えます。
「目を開けて」「目を覚まして」という歌詞が似てますし。

地の糧の一九二七年版の序(今日出海さん訳)に
「文学を再び地に触れさせ、単に素足で大地を踏ませることが緊急の務めだと思われたころに書いた。」とあり、
ノーチラスの「靴を捨てたんだっけ」「裸足のままなんて度胸もある訳がないや」に繋がりそうです。
本を捨てる=本への依存を辞め元の自分になる とすると
チノカテは、裸足で(元の自分で)町へ出ようと歌ってるのかなと。


左右盲MVの視点人物は、読書中の人を絵に描いています。
チノカテ「読み終わったあとはどうか目を開けて」から
読書中=睡眠中 と取れるので、
ノーチラス「目を覚まして。見て。寝ぼけまなこの君を何度だって描いているから」に繋がると思いました。
チノカテMVの絵描きは、「寝ぼけまなこの君」を何度も描いていたのかもしれません。

ルビー=夕陽
サファイア=夜の日差し=海底の月明かり
とすると、ノーチラスMVの最後の情景に合います。

海中に月光のような日光が差したように、
ノーチラスMVの最後でエルマは、朝陽のような夕陽を見たのかなと。
エイミーの遺したノーチラスの詩を見て、心の中の夜が明けたと。

ノーチラスの「さよならの速さで顔を上げて」はエイミーとのさよならで、エイミーを模倣するのを辞めたってことだと思います。

右も左もわからぬ(左右盲)≒月光か日光かわからぬ≒朝陽か夕陽かわからぬ と取れそうです。

本を捨てよう=手本を捨てよう とすると
(夜を照らす大きな光がなくとも)手本を捨てて町へ出る=右も左もわからぬ手探りの夜を行く
と思えてしっくり来ました。
手本がないから手探り、という。

ノーチラスという曲名はノーチラス号からで、文学モチーフでもあるから、他の文学モチーフ曲と繋がっているのかなと思いました。

ノーチラスの対の曲『だから僕は音楽を辞めた』は音楽を辞めることについての音楽で、
本を捨てよと書かれた本である地の糧に似てる気がします。



チノカテMVの白いカーテンは『雨晴るる』の「白いカーテン」と関係ある気がします。
左右盲MVでのカーテンは青色で、『雨晴るる』には「青」という歌詞が多いですし。
散らぬ牡丹、ルビー  =ずっと消えない愛の色 (雨晴るる)
夜の日差し、サファイア=この目を覆った淡い群青の色 (雨晴るる)
なのかなとか。

幽霊の正体見たり枯れ尾花 という言葉と、
(白いカーテンの)揺れ→ゆれ→ゆうれい という連想を繋げると
チノカテの枯れた白い花に繋がります。
雨晴るるの「思い出すように揺れた」から、白いカーテンは君との思い出のことに取れますし。

花に亡霊を見ていたけれど、その白い花が枯れていた事に、ある時気付いたのかなと思いました。


風を食むとチノカテは「書を捨てよ町へ出よう」を意識していて、アルバムで4曲目なのが共通しています。

以上です。
お読みいただきありがとうございました。