本能寺の変1582 その一因 一、光秀の年齢 そ第78話⑥ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 一、光秀の年齢 そ第78話⑥
2光秀の年齢 6人格形成
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そ第78話⑥ 「足蹴事件」
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【参照】その一因 一、光秀の年齢 2光秀の年齢 6人格形成
そ第78話① ←そ第78話② ←そ第78話③ ←そ第78話④
←そ第78話⑤
ここで、「足蹴事件」が起きた。
「準備について」、とある。
おそらく、家康の到着よりも、前のことなのだろう。
また、「密室において」、とある。
二人だけの、内々の話だった。
ところで、信長は、奇妙なばかりに親しく彼(光秀)を用いたが、
このたびは、その権力と地位をいっそう誇示すべく、
三河の国主(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことを
決め、
その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。
これらの催し事の準備について、
信長は、ある密室において、明智と語っていたが、
信長は、誇り高い男。
プライドを傷つけられれば、逆上する。
信長は、絶対専制君主。
きわめて、誇り高い男。
そのことを、他の、誰よりも、よく、知っていたのが光秀だった。
佐久間信盛を見よ!!
「朝倉破軍の刻」
信盛は、それを軽んじたが故、粛清された◎第12話 (『信長公記』) 。
元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪
えられない性質であったので、
フロイスは、イエズス会の宣教師【 人物 】◎第7話。
信長の身近に、同会の関係者がいたということだろう。
黒奴「弥助」、なのかもしれない・・・・・。
彼は、「本能寺の変」を生き延びている
(「イエズス会日本年報」「松平家忠日記」) 。
人々が語るところによれば、
だが、光秀は、甘かった。
否、そうする他、道はなかった。
これまでの、御奉公に免じて、・・・・・。
否、それが、「油断」。
と、いうことなのだろう。
光秀の一言が、信長の逆鱗に触れた。
信長の命令・決定事項・意志等に、逆らうような発言だったのだろう。
彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、
信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたとい
うことである。
【 重史 041】(『日本史』)
となれば、発言内容は、タイミング的に、次のようなことだったのだろう
か・・・・・。
一、四国問題について。
一、家康に関すること。
この時点で、中国出陣は、まだ、発令されていない。
闇の中である。
しかし、このことが、世間に知られることは、なかった。
だが、それは密かになされたことであり、二人だけの間の出来事であっ
たので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、
フロイスの見解 (①~③) 。
この事件を、次のように見ていた 。
①この事件が、「本能寺の変」のきっかけになった。
あるいはこのことから、
明智は、何らかの根拠フンダメントを作ろうと欲したかも知れぬし、
②光秀は、天下の主になることを欲していた。
欲深い野心家だった、と言っている。
あるいは〔おそらくこの方がより確実だと思われるが〕、
その過度の利欲と野心が募りに募り、ついには、それが天下の主になる
ことを、彼に望ませるまでになったのかもしれない。
③光秀は、計画的だった。
誰にも、胸中を明かさず。
ベストタイミングを窺っていた。
ともかく、彼はそれを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果たす適当な
時期を、ひたすら窺っていたのである。
【 重史 041】(『日本史』)
⇒ 次へつづく
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