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本能寺の変1582 その一因 一、光秀の年齢 そ第78話④ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、光秀の年齢 そ第78話④ 

2光秀の年齢 6人格形成 

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 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
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【 重要史料 】 【 人物 】  
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 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 240728 240801 240809 

そ第78話④ 事態急変 五月七日

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 【参照】その一因 一、光秀の年齢 2光秀の年齢 6人格形成
     そ第78話① ←そ第78話② ←そ第78話③ ←

ここで、事態が急変した。
 
信長は、絶対専制君主。
 その命に従わぬ者など、いない。
 
場面は、一転。
 東から、西へ。
 「武田効果」
 絶大な自信。
 信長は、再び、動き出した。

 ここから、である。
 時代の流れが、急激に、加速し始めた。
 光秀は、これに、翻弄される。

五月七日
 信長は、四国出陣命令を発した。
 総大将は、三男信孝。
 二十五歳。

 以下は、その時の書状である。

  今度、四国に至って差し下すに就きての条々、

  一、讃岐国の儀、
    一円、其方に申し付くべき事、
  一、阿波国の儀、
    一円、三好山城守 (康長) に申し付くべき事、
  一、其外両国の儀、
    信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事

  右の条々、聊(いささ)かも相違なく相守り、
  国人等の忠否を相糺(ただ)し、
  立置くべき輩は立置き、追却すべき族は追却し、
  政道以下堅く申し付くべし、
  万端、山城守に対し、君臣父母の思いをなし、馳走すべきの事、
  忠節たるべく候、
  能々(よくよく)、其意を成すべく候也

     天正十年五月七日       (朱印)
       三七郎殿 
                【 重史 012 】(「寺尾菊子氏所蔵文書」)

 この中に、「信長、淡州に至って出馬の刻」とある。
 ここが、キーポイント!!

 すなわち、
 信長は、淡路島に、本陣を置いて、自ら、陣頭指揮をとるつもりだった。
  一、中国攻め
  一、四国攻め 
 二方面作戦である。
 何とも、壮大な作戦ではないか。
 
 おそらく、
 信長は、織田水軍を率いて、淡路島から、瀬戸内を、西へ向かうつもり
 だった・・・・・。
 その先にあるのが、安芸の宮島 厳島神社。
 信長は、平氏。
 同社は、その氏神。
 平清盛との因縁、等々。
 歴史に残ったであろう、一大デモンストレーション。
 華々しい大船団の様子が、目に見えるようである。



 ⇒ 次へつづく

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