本能寺の変1852 その一因 一、光秀の年齢 そ第78話 240801 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 一、光秀の年齢 そ第78話
2光秀の年齢 6人格形成 240801
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*加筆修正 240728 240801
そ第78話
「本能寺の変」は、起こるべくして起きた事件である。
時は、戦国時代。
ところは、美濃。
守護は、土岐氏。
頼武~頼芸の代。
美濃は、争乱の時代であった。
戦いに、明け暮れる日々。
光秀は、この様な時代に生まれた。
そして、道三の下剋上が始まった。
光秀の性格・人格・人間性は、争乱と下剋上の中で形成された。
一、そのような時代だった。
一、そのような人物だった。
史実を直視すべし。
これまでの認識を改めるべきである。
光秀は、高齢だった。
己の「老い」を自覚していた。
残された時間は、短い。
このことが、光秀に、先を急がせた。
五月十七日
中国出陣命令が出た。
光秀は、安土から坂本へ。
五月十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、
何れも々々々(他の面々も)、同事に本国へ罷り帰り侯て、
御陣用意侯なり。
【 重史 029】(『信長公記』)
同、二十一日
土佐、長宗我部元親が承諾した。
光秀は、これを知らず。
石谷頼辰が帰国の途についた 。
光秀は、これも知らず。
同、二十六日
光秀は、亀山城に入った 。
五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣のため、坂本を打ち立ち、
丹波亀山の居城に至り参着。
【 重史 030】(『信長公記』)
【参照】そ第74話④
光秀には、先が見えた。
中国攻め → 国替え → 「さらなる夢」→戦いは、終わらず。
すなわち、国替えは、明智の危機。
明智は、存続の危機に瀕していた。
光秀には、「守るべき者」たちがいた。
明智の命運は、中国出陣によって定まる。
これを阻止するためには、中国攻めを取り止めにする他ない。
【参照】そ第75話
頼辰が、「間に合わぬ時は」、・・・・・。
光秀は、心を決めた。
【参照】そ第76話
同、二十七日
愛宕山へ。
「本能寺」
山上より、見下ろす。
信長は、無警戒だった。
「上洛」
京都所司代 村井貞勝へ、連絡したものと思う。
光秀は、信長の上洛情報を入手した。
光秀は、聡い男。
万事につき、抜かりはない。
京にも、坂本にも、安土にも、・・・・・。
万全な情報網を構築していた。
おそらく、同じ頃。
光秀は、このことを知った。
信忠は、京で、信長の上洛を待っていた。
信忠の情報源は、貞勝だったのではないか。
以下は、京の信忠が、安土の森成利(乱丸)に送った書状である。
使者のルートは、わからない。
最短は、京→坂本→安土 である。
尚々、家康は、明日大坂・堺に罷り下られ候
中国表、近々、御馬出さるべきの由候条、
我々、堺見物の儀、先ず、遠慮致し候、
一両日中に、御上洛の旨候間、是に、相待ち申し候、
此旨、早々、御諚を得られ、申し越さるべく、
委曲の様躰、使に申し含め候条、口上に申すべく候、
謹言、
五月廿七日 信忠(花押)
森乱殿
【 重史 028】(「小畠文書」)
同、二十八日
「愛宕百韻」
発句 時は今、あめか下なる五月哉、 光秀
結句 国々は、猶、長閑なる時、 光慶
【 重史 005 】(「続群書類従」)
石谷頼辰、未だ、帰還せず。
「万事休す」
ついに、間に合わなかった。
同二十九日。
信長が、上洛した。
信忠は、京に居た。
父子二人が、・・・・・。
供廻りは、僅かばかり、・・・・・。
これすなわち、信長の「油断」。
光秀は、それを見逃さなかった。
六月一日。
中国出陣の日。
これが最後のチャンス!!
同、二日未明。
「本能寺の変」
【参照】そ第77話
⇒ 次へつづく
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