はじまりの門前で:はじめてのバタイユ②
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バタイユに理論体系はあるのか(一般経済学を例として)
バタイユ的な思想を体系立った理論に落とし込むことは可能であろうか。私が最も影響を受けた「一般経済学[l’économie générale]」という概念を例にとって考えてみよう。まず、バタイユはエネルギーから経済を考えていく、以下のように。「本質的に富はエネルギーであり、エネルギーは生産の基礎であり尺度である。」つまりは、はじめに太陽ありき、なのである。太陽は計算も見返りもなく、自らを失う非生産的な消費活動を行い続けている。つまり、こうも言える:
エネルギーは不足しているのではない、逆に有り余っているのだ!
地球/土地(の表面)はその成長の限界(エネルギーの余剰を受け取る能力)に達してしまっている。そこで、(未完の傷口が開き)主体は太陽のように燃え尽きなければならない!富の非生産的な使用、すなわち蕩尽。
地球の表面は過剰に満ちている。私たちはそれを、犠牲、笑い、愛、エクスタシーといった、戦争とは異なる形で解放しなければならない。バタイユにとって戦争とは、資本主義のもとでの絶え間ないエネルギーの蓄積がいかに圧力を生み出し、それがついに人類史上最大の破壊の乱舞となって爆発したかを示す一例である。
そこで、生物の歴史から彼が何を言わんとしているのかを紐解いていこう。無機物から有機物、そして動植物への進化というのは、過剰なエネルギー消費の促進の過程であり(植物がいかにエネルギーを捕捉するのが下手か、Francis Halléの'In Praise of Plants'を思い出してほしい)、その中で人類は過剰なエネルギーを消費する最も知的な種である。(石油や石炭の採掘など。バーティンスキーの写真を思い出して欲しい。それらは、死んだ動植物から長い時間をかけて変異した資源である!)つまり、進化とは、太陽からの過剰なエネルギーをいかに効率的に捕捉するかという無理難題への成長史なのである。
生命の起源:一方で、無性生殖における成長の瞬時の連続性→単一性から二つの単一性への瞬時の分裂。もう一方で、有性生殖における精子と卵子の結合→連続性と非連続性、あるいは分裂と融合の繰り返し
「あらゆる動物は、水の中に水があるように世界に存在する」[Tout animal est dans le monde comme de l'eau à l'intérieur de l'eau] (Bataille, La Théorie de la Religion)
人間性:(過剰なエネルギーをより消費するために)道具を使う労働→未来への期待が生まれる→未来への期待(ハイデガーの「死」とサルトルの投企[projet](主体的な選択に基づく実践を通じて世界の偶然性や不条理を克服しようとすること))vs バタイユの至高性[La Souveraineté]の瞬間(→時間化という意味において、デリダの差延[Différance]による脱構築への影響が見て取れる。)
ここでいう至高性[La Souveraineté]とは、未来の時間の優越性に従って獲得された過剰な生産分(「呪われた部分」)を、現在の時間の優越性に返還する、といった意味ぐらいで捉えてて欲しい。つまり、これはどういうことか。
「水の中に水があるような世界への再回帰の試み」である。
→個性の消滅、恐怖と憧れの曖昧さ: 聖なるもの(サクレ)への接近、抵触。
至高性[La Souveraineté]とは語ることはできないが、経験することはできるもの。つまり、バタイユの言う至高性[La Souveraineté]とは、意味の喪失そのものではなく、「意味の喪失(意味の全体性なしに回復不可能な消失)との関係」、のことであることがわかる。
仕事、有用性、利益の世界から奇跡が逸脱する瞬間=プロジェクト(投企[projet])に基づく期待が、無[rien]に溶解する瞬間。
鍵となるバタイユ的な諸概念
バタイユ的な思想を体系立った理論に落とし込むことは可能なのかを検証している途中だが、いくつかの諸概念をここで導入することが役立ちそうだ。以下のそれぞれの概念と定義を簡単に説明したい。
蕩尽(消費、浪費、消尽、放蕩、無駄)(consummation, consumption, exhaustion, dissipation(物理学で散逸とは、エネルギーが有用なものから無用なものへと変換する過程を意味する), waste):効用に回収されない生命の充実と燃焼を解放する社会のエコノミー
エロティシズム:死におけるまでの生を称えること(称揚)[lʼapprobation de la vie jusque dans la mort ]; あるいは、死ぬまで共に生きることを贈り続けること。
コミュニカシオン:聖なる至高の連続性の経験(マルクスのVerkehr(物理的/精神的交通)を参照せよ)、その条件は、裸、他者への開放性、無限に繰り返される「起源の不在」のようなもの。哲学が消え、哲学が哲学の外に開かれ、そして消える、非-知の夜(まばゆい光の夜)。限界点における意識と連続性(コミュニカシオン)の接近。笑い、世界の深み、実体のない形のない「無」(Rien)。
至高性[La Souveraineté]:「私の言う至高性[La Souveraineté]は、国際法で定義された国家の主権[La Souveraineté]とはほとんど関係がなく」(La Souveraineté p.247)、権威に従属しない至高のものであり、蕩尽の力、あるいは単にRien(無)に由来するものである。
至高性[La Souveraineté]とは、何よりも権力と自己主張への欲望である。 この欲望は、政治的な行動や異質な社会集団の攻撃的な性質に現れることもあるが、執筆の過程にも現れる。欲望は、現実には達成不可能なもの、すなわち至高性[La Souveraineté]に向けられている。
至高性[La Souveraineté]は、生産的労働に含意される隷属性と合理性の正反対であり、それゆえ、生産と再生産の客観的論理における主観的断絶として、例外としてのみ可能である。バタイユがスターリンの共産主義思想の分析で明確に強調しているように、至高性[La Souveraineté]は決して歴史の目標にはなりえない。至高性[La Souveraineté]は無である。神の顕現でも、超越的価値の対象でも、努力すべき条件でもない。むしろ、そのような活動から抜け落ちた、目的のないものなのだ。
至高的主体性:「外」に開かれた主体性(不可能性、不可能なもの)。「主体性」としてのアイデンティティを保持できないほど、徹底して深い主体性。
→主観的経験と対象認識の基盤
→「一体化」という「統一」は単なる融合ではなく、対立と共存する統一である。したがって、自覚と無自覚、客観と主観といった対立要因は、対立すると同時に統合される。それゆえ、認識と無認識、客観性と主観性といった対立する要素は、互いに対立しながらも、一体となって共存する。無の体験は、そうした形而上学的な対立を超越している。
異質性[heterogenéité]:言語の秩序を否定する現象の不可能な表現を表す何か;奇怪な写真やイラストの使用を通して、観念論には回収されない異質性[heterogenéité]としての「物質性」。
陽気さ[cheerfulness]:死の恐怖に直面した陽気さは、陽気な不安と不安な陽気さのバタイユ的な弁証法を動かす。
バタイユ的なエディプス・コンプレックス:母の独占ではなく、父からの罰を望むために父の死を願う子。母親とは、生命が生まれる血まみれの裂け目=堕落を繰り返す欲望の倒錯した象徴
「沈黙」という言葉:ダブル・バインド、脱構築、至高性[La Souveraineté]
否定的共同体[communauté négative]:共同体を持たない人々の共同体
引き裂けとコミュニカシオン[La lacération et la communication]:権威、コミュニティ、無/力、価値[Autorité, communauté, impuissance, valeur]
その他:奢侈[le luxe]、遊び[le jeu]、地球/大地[La Terr]、ドン[un don](見返りのない贈与)
では、単純な二元論に落とし込んでみよう!
さて、戻ろう。バタイユ的な思想を単純な二元論に落とし込んだ時に、どうそれが二元論的なピン留めから逃れるかを実際に見てもらうために、パフォーマティブにそうしてみよう。こういうことになりそうだ:
未来のための生産 <-contra-> 現在のための奢侈(有用な労働の破壊や放棄)
(投資としての)生産のための消費 <-contra-> ドン(見返りのない贈与、贈り物、与えること)
雇用、利用、使用[Employmet] <-contra-> 失業、無駄、遊休[Unemploymet]
資本[Capital] <-contra-> 祝祭[Festival]
合理性、自己制御 <-contra-> 笑い、めまい
計算 <-contra-> 躓きの石
投企[projet] <-contra-> 遊び=賭け[jeu]
ヘーゲル的な知[knowledge] <-contra-> サド的な欲[desire]
禁止 <-contra-> 侵犯
非連続性(世俗的世界、有用性、合理性、自己意識の個性) <-contra-> 連続性(死、使い道のない否定性、至高性[La Souveraineté]、個性の喪失)
語ることのできる合理的隷属性 <-contra-> 語れはしないが経験することはできる至高性[La Souveraineté]
→至高性[La Souveraineté]的なものの一覧(上記でいう右側、つまりいつも正しい方が利用するものだ):笑い、涙、詩、悲劇と喜劇、陶酔、エクスタシー、ダンス、音楽、闘争、死への恐怖、子供時代特有の夢のような魅惑的な状態、放蕩、浪費、破壊的行為(祭り、犠牲、供物、オルギア(狂宴[Orgy])、戦争など)、聖なるもの(その最も強烈な側面が儀式によって開示される神聖さ)、神的なものと魔法的なもの、そして、エロティシズム。
バタイユがこうしたロマンチックでヤバいものを戦争とは異なる形(例えば、犠牲、笑い、愛、エクスタシー)で解放しなければならない、と考えた。しかし、戦争とそれ以外の境界線はあまりにもぼやけている[blur]。
非-チ(血、地、知)的コミュニカシオン
プラトンの肉屋のアナロジーを持ち出すまでもなく、分析とは分割、切断、切ること(キル/Kill)である。私はまだ下手な肉屋なので、「自然本来のつなぎ目」に従って切り分けることはできないが、できるだけ注意深く、と同時に大胆に各部位に切り分けていきたいと思う。(ライムスターとTHA BLUE HERBにケツメイシを混ぜて般若という陽の光を当てるとラッパーのR-指定が誕生するように、)フランスの伝統的社会学とマルクス主義にフロイトを混ぜてニーチェという光を当てるとバタイユが誕生する。
伝統的なフランス社会学:デュルケーム→モース→レヴィ=ストロース(現代的なフランス人類学)
「これが、一族、部族、民族が知っていた方法であり、これが、明日、いわゆる文明化された世界において、階級や国家、そして個人が、互いを殺戮することなく対立し、互いを犠牲にすることなく与え合う方法を知らなければならないのだ。 (中略)道徳も、経済も、社会慣習も、これ以外にはない。 」(モース『贈与論』結論)
1925年、バタイユが初めて社会学に触れたのは、アルフレッド・メトローに誘われてマルセル・モースの講義を聴講したことがきっかけだった。(ちなみに、『国家に抗する社会』で有名なピエール・クラストルの指導教官はこのメトローとレヴィ=ストロースである。)
フランスのマルクス主義:マルクス主義的な史的唯物論とサルトル的な実存主義の限界を同時に超克
→生産様式(生産力+生産関係)と生きた経験の優位性の克服
生産様式から交換様式へ(例えば、モースの贈与交換、カール・ポランニーの実体経済、柄谷行人の交換様式Dなどと比較できる。)
「社会は常に、その存在に必要な以上のものを生産する。社会がこの余剰をどのように使うかが、まさに社会のあり方を決定する」(『呪われた部分』)という一文はバタイユの生産ではなく、浪費/消費の再評価を端的に表している。
フロイト:失われた連続性を求めるノスタルジア
性的衝動と死の欲動の起源(フロイト『快楽原則の彼岸』)と以前の状態に戻りたいという欲望(プラトン『饗宴』)このフロイトとバタイユの関係は私もまだ勉強中の身で、今回の討論者のUに色々と教えていただきたいと思います。(注:Uは博士課程の先輩で、修士課程でフロイト-バタイユ-ドゥルーズのラインをマゾ論でまとめた卒論を書いたので討論者というより解説者に近い立場で招待した。)
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