至高性

可能性の「その可能性の中心」は、特定の現実性が現実そのものを拘束しえないことを開示するところにある。--人間の学校化について[6]--『脱学校的人間』第六章

人は「ある結果を実証するため」に、また、「その結果を再現するため」に、「実験」をする。アレント曰く、「…実験とは、観察さるべき現象を作り出すこと…」(※1)であり、そこではつまり「何を観察するべきかを、人はすでに知っている」のであって、要するに「実験の結果を、人はすでに知っている」のだ、ということになる。
「…知識を得るために実験を用いるということは、すでに、人間は自分自身が作るものだけを知ること

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期待していたような自分になれなかった者にとって、自分自身は負債であるのにすぎない。--人間の学校化について[3]--『脱学校的人間』第六章

「…期待とは、人間によって計画され統制される結果に頼ることを意味する…」(※1)ものであり、また、「…自分の権利として要求することのできるものをつくり出す予測可能な過程からくる満足を待ち望むことである…」(※2)とイリッチは言う。「計画され統制された結果」とはつまり、「予測可能な過程にもとづく結果」すなわち、「そうなることがわかりきった結果」ということであり、それを「自分の権利として要求することが

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未来に「あるべき自分」を思い描く者にとって、現在の自分は欠如にすぎない。--人間の学校化について[2]--『脱学校的人間』第六章

歌のフレーズにあるように、もし本当に「僕が僕であるために勝ち続けなければならない」のだとしたら、それはむしろ明らかに不幸なことであろうし、しかもこの不幸は、彼の死をもってでなければ終わらないようなものであろう。もし本当に「生きている限りは勝ち続けていなければならない」のだとしたら。
 「生きている限りは勝ち続けていなければならない彼」は、「この勝ちを確保すること」よりもまず、「さらにその先の勝ちを

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