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日記5月30日 「説明」ではなく「運動」のうちに至高のものは住まっている。

なぜなら、「説明」ではなく「運動」のうちに至高のものは住まっているからである。
P.57 内田樹 レヴィナスと愛の現象学 せりか書房 2001

説明のための説明、というものは次元が低い行動となるリスクがある。

説明しようとする主体と、説明する相手がある。説得するには相手の知性や性格を想定し、「これぐらいであれば理解しよう」などと考える要素も出てくる。

これが「雑味」となる。

説明などしなくていい、というのが真実であろう。ただ、真実がそこに現出すれば、それだけでいい。

もっと言えば、現出せずともいい。

そのためには説明しようとしてはならない。真実をあくまで希求し、肉薄する姿勢を保ち、自分を透明にしてただただ対象と同化しようとする。

そのような姿を「運動」と呼ぶのであれば、それは確かに唯一真実に到達しうる行動であると思う。

到達、するのだろうか。逃げ水のように仮にその真実がいつも半歩先にするりと身をかわすのであれば、それはむしろいらだちではなく、喜びを呼ぶだろう。

私は常に求め続けることができる。

その先の真実は、人によっては美、でもあろう。

あくなき美を求める。

決してゴールがないものとして。


その時に自身は無限軌道に乗った、無限機械となる。その運動の中で不死にもなりうる、その意識として。

これである。

(求める、という姿勢自体が、楽しいですね)





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