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バタイユの非-知、その在り処

書棚の奥に、バタイユの著作が何冊かある。
「消尽」という言葉を知って以来、ときどき発作的に手に入れていた本だ。

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もともと宗教に関心がつよかった私は、寄り道が高じて、専攻でもないのに論文のテーマに取り込もうとしていた。
そしてフロイトやユングをきっかけに、西欧には宗教関連の思想が多いことを知る(というか西洋哲学は、まるごとキリスト教のなかで熟成されてきたのだが、それを知るのはもっと後のこと)。

テーマが固まらないなか、同期の中間報告を眺めていると、現代思想の有名どころが時々あがる。ラカン、フーコー、レヴィナス、ドゥルーズ、バタイユ、ニーチェ、サルトル、フッサール……。横文字の名前がやたらかっこよく見えて、手ぶらで図書館に向かい、ちらちらとつまみ読みに時間を費やしだした。これが現代思想との出会いだった。

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なかでもバタイユは、はじめの印象から異様だった。
宗教性を語っているはずなのに、そのキーワードは、苦痛、欲望、肉体、涙、笑い、犯罪、と妙に生々しい。

彼のいう消尽とは「蕩尽」とも訳される。古代祝祭で生贄を捧げるような、何も生み出すことのない浪費のことをいう。この消尽こそが「至高性」につながるといい、非生産的な行為の意義にスポットライトをあてた。
ここでいう至高性は、どうもイエス・キリストのことではないようだ。

至高性を際立たせるのは、富を蕩尽するということだ。つまりもろもろの富を生産するにもかかわらず、それを蕩尽することのない労働とか隷従性とは正反対の富の蕩尽である。至高者は蕩尽し、労働しない。

『至高性』湯浅博雄訳、人文書院、9-10頁

理性を重視する西洋哲学に抗うように、バタイユは非合理的なものを追究したという。
彼は、生産性を評価するようなやり方では、人間の根本問題は捉えることができないと考えていた。つねに過剰にあふれるエネルギーを、人間は「消尽」というやり方で扱ってきた、と。

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私はいつの頃からか、宗教的なものはその核心に近づくほど言葉にならない、と考えていた。いや、そもそも核心や本質というものは、言葉では言い表せない。その言葉にならないものこそを扱いたかった。

しかし、調べれば調べるほど、なぜか居心地のわるさが増していく。自分がほしいのはこんな分かった感じではない。もっと知りたいところがあるはずなのに、それが何なのかわからない。

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調べる以外に、学生の頃の私が知っていた方法は、あとは直感に頼るくらいだった。言葉にならない部分に、うまい言い方をあてようとする。それだけだ。

そんな感じだから、どんなひらめきでも、参考資料ひとつ挙げるのに苦労する。文章構成の段になると、途端に心もとなくなる。

バタイユに際しても同じだった。「消尽」や「至高性」という言葉を分かったつもりになりながら、それをきっかけに興味が失われていく。多くのことを見過ごしているような、言いようのない不安のうちに、なす術もなかった。

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宗教では、言葉にならない神の尊さを守り、伝えるために様々な方法が取られてきた。
神秘体験をする人を大変重視したり、キリスト教では「神は○○ではない」としてしか神を言い表せない、とする否定神学という方法を取ることもあった。

とりわけ一神教は、アジアの多神教と比べて聖なる部分の「密度」が高かったはずだ。そこで人は反動のように、神の名のもとで、みしるしである理性、普遍性を徹底して追究する。

これに対してバタイユは、知り得ないこと(不可知、非-知)を強調して取り上げた。分かったことと分からないことの判別もつかない領域――彼の講演の原稿をあつめた「<非-知> 閉じざる思考」では、このあたりを人々に説明しようとした工夫がある。

彼の粗削りの遺稿を繰り返したどっていると、当時の迷いを思い出す。

かつて、自分の違和感を、社会性から取り戻そうと文章を書いていた。そして今また、当時の迷いとつまづきを拾いながら書いている。
今度は、自分の知りたいことが何か分かるだろうか。バタイユが非-知を直視しようとしたように。

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