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「エクソシスト映画」が大好物。

大本家、ウィリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』については別稿でも語っているが、私は「エクソシスト映画」が大好物である。

今回は、『ヴァチカンのエクソシスト』と『エクソシスト 信じる者』について語りたい。

基本的に「エクソシスト映画」のフォーマットは全て同じである。

つまり「寅さん映画」や「ジェイソン・ステイサム映画」と同じ構造だと思ってもらえば結構である。

そして我々「エクソシスト映画ファン」は、
毎回その「期待通り」のストーリーと、悪魔さんのハイテンションっぷりを堪能するのである。

悪魔さんのパターンはブレることなく、

「幼気な少年、少女を標的にする」

「親の過去のトラウマに漬け込む」

「ついでに、エクソシスト(悪魔祓い師)の過去のトラウマにも漬け込む」

というのが基本フォーマットである。

そして重要なことは「エクソシスト映画は全く怖くない」ということである。

それは本家本元のフリードキンのソレですら、全く怖くない。

その理由は、まず第一に。
「キリスト教徒以外には悪魔さんの言説は余り刺さらない」のと、

「そもそも悪魔さんはキリスト教に邪教として抑圧され滅ぼされたローカル宗教の神様である」
という点が挙げられる。

テンションMAXの悪魔さんが司祭に向かって、
「オマエは売春婦とマグわい、そしてその女を捨てただろ~!わははは~!」と脅すのだが、

我々キリスト教徒では無い日本人は、
「まあね、それが人間の「業」ってものでして、その「業」の発露が落語ってえものでして」
と立川談志師匠の言葉を引用しながら悪魔さんに返事するだろう。

「悪魔さん、あっしもキリスト教徒じゃござんせんで、あんたの気持ちはよ~く分かりますよ」

と、そのまま近所の居酒屋に場所を移すのも良いだろう。

つまり、
エクソシスト映画の醍醐味は「ホラー映画」ではなく、
「キリスト教の歴史と構造を堪能する」ものなのである。

「懺悔」とか「罪の告白」というシステムがどのように機能しているか?

そこに心理的に攻撃をする悪魔さんの「非キリスト教的道徳観」とは?

そんな「プロレス的なやり取り」の中から、この宗教の構造を見出すのである。

それが「プロレス的」であるのは、
悪魔さんは「いきなり大統領の娘とか」に憑りついたりしないのだ。

それほど「本気」ではない。

悪魔さんは「どこにでもいる」市井の人々をターゲットにして、
彼らの「生きていたら起こりうる日常的な失敗」の揚げ足を取るだけだ。

私が推測するに「キリスト教に弾圧された恨み」を少々暴れて解消しているのではなかろうか。

そして、最終的にエクソシスト映画の「システム」からはみ出ることなく終わる。

それでいいのである。

いきなり地球滅亡とかには決してならない。

口からゲロ吐いたり変な生き物吐いてお部屋の中で浮いたりする程度だ。

要するに、悪魔さんが居た紀元前の世界は狭く小さく、そんな地球規模という概念すらかった。

そんな牧歌的な時代の「元・神様」が「定番のヒール役」として毎回登場するだけである。

『ヴァチカンのエクソシスト』と『エクソシスト 信じる者』も、
安心して観てられるエクソシスト映画である。

そして私はその「可憐な世界観」を愛してやまないのだ。

ラッセル・クロウ『ヴァチカンのエクソシスト』








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