遠い記憶・海からの贈り物・夢
ずいぶんと幼いころから、わたしは、「日の出」よりも「日の入り」のほうが、ずっと、好きだった。
「日の出」のお日さまは、とても元気一杯で、嬉しそうに、昇ってくるように、感じられる。
ーーさぁ。みんな、お日さまが来ましたよー。
なんだか、あまりにも「前向き」で、強そうな感じがするから、わたしは、どうにも、圧倒されて、なんにも、考えられなくなってしまう。。
からだが、とても弱かったから、かもしれない。
けれども「日の入り」のお日さまは、おだやかで、優しい。なんでも、赦してくれそうな気さえ、する。
だから、その「ひかり」のなかで、わたしは、いろんなことを、「思うこと」が出来るのだった。
今日一日のこと。
過ぎた日々のこと。
日が暮れてからはじまる、朝までの、長い夜のこと。
そうして、また、「明日が来るんだ」ということ。
ただ「お日さま」が、沈んでゆくのを見ているだけで、優しい「ひかり」に包まれて、これまでの、さまざまな「時間」や「おもい」が、自分のなかで、「交錯してゆく」のを、感じることが、出来る。
「日の入り」は、「人生」の、複雑な「時の流れ」を、そっと、わたしに、差し出してくれるのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
一九七三年 七月。
わたしは、高校二年生だった。
その年の夏休み、そのころ仲良しだった、同じクラスの友達数人で、住んでいた県の隣りの県の、とある海岸まで、「遊びに」行ったことがあった。
夏だったはず、なのだけれど、「泳ぎに」行ったのではなくて、どうしてか、みんなで、「海」を「眺めに」行ったのだ。
着いた場所は、観光客もいない、とても静かな海岸だった。
私たちは、みんなで、裸足になって、「海」を眺めながら、波と戯れたり、お弁当を食べたりして、昼ごろから夕方近くまで、ただただ、無邪気に、遊んだ。
ーーもう、そろそろ、帰ろうかぁ。
ーーそうだねー。
ーー楽しかったねー。
ーーまた、みんなで来れたらいいねー。
そのころには、みんな、結構、一人、二人ずつに離れて、それぞれ好きなことをしていたので、声をかけ合いながら、帰り支度をした。
わたしも、身支度をしたのだけれど、まだ、なんとなく、立ち去り難い感じがしていて、帰ろうとしている友達たちを横目に、
ーーもう、ちょっと、「海」を見ていたいな。
なんて、つぶやきながら、海岸線を、ひとり、そぞろ歩きしていた。
すると、波のまにまに、ほぼ同じ大きさの「巻き貝」がふたつ、並んで、少しずつ、こちらに向かって、流れて来るのが、見えた。
ーーなんだろ、あれ。
そう思いながら、見ていたら、その「巻き貝たち」は、あっという間に、わたしの足元にまで流れ着いて、そうして、砂に埋れてしまったのか、そのまま、わたしの目の前で、ピタリと、止まったのだ。
ーーえ?
まるで、自分に向かって流れて来てくれたような心地がして、わたしは、その「巻き貝たち」を、迷うことなく、拾い上げた。
手のひらに乗せて、よくよく見比べてみたら、その「ふたつ」は、まるで「双子」のように、そっくり「同じ形」をしているのだった。
それでも、片方が、ほんの少し、小さめなさまは、なんだか、「つがい」のようにも、見えた。
どちらも、似たように、薄い茶色で、三層くらいに巻かれていて、欠けたりなどもしていない。それぞれに、きれいな形をしていた。
ただ、砂にまみれていて、なかのほうまで、砂が詰まっていたので、わたしは、海水で、丁寧に、洗ってあげた。
そうして、日の光にあてて、透かしてみたら、その「ふたつ」は、わたしの手のひらの上で、キラキラと、光った。
ーーありがとう。拾ってくれて。そうして、きれいに、洗ってくれて。
そう、言われているような、感覚が、した。
きれいになった巻き貝の穴に、耳をあててみると、「ふたつ」ともから、
「こぉ〜〜。」
という、潮騒のような音がした。
その「音」は、耳のなか全体に、渦巻くように響いて、わたしは、まるで、「異世界」に飛ばされてしまったかのような、不思議な心地になったのだった。
沖のほうから、わたしだけに見えるように、流れて来た「ふたつの巻き貝」。
なんだか、少し「秘密の香り」が、した。
ーーこの巻き貝たちは、きっと、「海」からわたしへの「秘密」の「贈り物」なんだ。。
わたしは、そんなふうに感じてしまって、ふたつとも、そのまま、そっと、リュックに仕舞った。
そうして、家に着いてからも、家族の誰にも、見せたりなどせずに、すぐに自分の部屋に引っ込んで、机の抽斗のなかに、そうっと、ふたつ並べて、しまい込んだのだった。
ーーこの「ふたつの巻き貝」を、わたしは、ずっとずっと、「たいせつ」にしよう。
ーーだって、「海」からの「贈り物」なんだもの。
ーーひとつは、わたしのために。そうして、もうひとつは。。
ーー将来、「わたしをしあわせにしてくれるひと」に巡り逢ったとき、そのひとに、「片割れのひとつ」を、あげるんだ。
ーー絶対に、そうする。
わたしは、「ふたつの巻き貝」を見つめながら、こころに、そう、誓った。
十月に誕生日を迎えると、十七歳になる年の夏。。
まだ、十六歳だった。
もう、五十年以上も、昔のことだ。
むかしのことだから、高校生のわたしたちは、誰もカメラなんて持っていなくて、「写真」の一枚も、残っていない。
記憶しているのは、「セピア色の夏の海岸」と、沖から流れて来た「ふたつの巻き貝」のことだけで、一緒に行った友達が誰だったのかも、もう、思い出せもしないのだ。。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
一九七五年 四月。
わたしは、十八歳になっていた。
大学に通うために上京したところで、「西荻窪」での「下宿暮し」が、はじまったばかりだった。
「どこまでも歩くこと」が、大好きだったわたしは、ちょっとした時間を見つけては、よく、ひとりで、散歩をした。
大学の講義が、早めに終わって、お天気が良ければ、大学から「吉祥寺駅周辺」くらいまでは、たいてい、歩いた。
時間が許すときは、「井の頭公園」まで足を延ばすのが、自分への「お約束」だった。
着くころに、ちょうど、日が暮れるからだ。
日暮れ前に着いてしまったときは、公園のベンチに、腰をかけて、お日さまがすっかり傾くまで、持っている本を読んで、時間を、潰した。
読む本は、たいてい、大学の講義に関係したものか、文庫本の「日本文学」か「詩集」で、その日の「気分」によって、決めるのだった。
井の頭公園の夕暮れは、「とても素敵」だったから、そのころのわたしは、そこに、自分の身を置くことに、「贅沢な時間」を、感じていたのだ。
空に、夕焼け雲が現れるころ、公園のまんなかに長々と横たわる、大きな井の頭池のまわりを囲む木々たちが、夕日に映えて、キラキラと、光りはじめる。
時間の経過とともに、池の水面も、さらには、水面に映る木々たちも、全てが、キラキラに、輝いて来る。
やがて、ほんのいっときだけれど、あたり全部が、黄金色に、染まるのだ。
夕焼けのなか、景色の移り変わりを堪能していると、わたしは、十四歳のころから、何度となく見ている「夢」のことを、いつも、なんとなく、思い出すのだった。
それは、必ず、「同じ景色」が出てくる「夢」だった。
夢のなかで、わたしは、全然、知らない、見たこともない公園のベンチに座っている。
遠くには、山の端が見えていて、お日さまが、少しずつ、降りはじめている。
日の入りだ。
やがて、まばゆいほどの夕日が、あたりを、「黄金」に染めてゆく。
山の端が、燃えるように、際立って、黄金過ぎて、あたりが、真っ白になってゆくのだ。
ーーまるで、「ハイジ」が、「アルムの山」で見ていた「夕暮れ」みたい。。
「ひかり」に、全身覆われたわたしは、思わず、そう、つぶやく。
すると、同じベンチの、少し離れたとなりに、もうひとり、「誰か」が、座っていることに、急に、気が付くのだ。
そのひとは、ずうっと前から、となりに居た感じなのだけど、あまりにも自然に、同じ空気感のなかに、溶け合っていたために、わたしは、それまで、全く、気が付かなかったのだ。
ーー誰なんだろう。。
目をこらして見ても、「ひかり」が眩しすぎて、全く、「顔」が、見えない。
ーー眩しすぎる。。
「誰?」
おそるおそる「声」をかけてみる。
ずっと一緒に夕日を見ていたはずのそのひとは、わたしの「声」に気づいて、こちらを向いてくれているのだけれど、あたりが、眩しすぎて、真っ白なままなので、やっぱり、ぼんやりとした、「ひとのかたち」しか、わからない。
そうして、振り返ったそのひとが、わたしに向かって語り出す直前に、決まって、目が、醒めてしまうのだ。
ーーまた、あの夢だ。。
ーーあのひとは、いったい、誰なんだろうか。。
わからずじまいである。
とても、「夢らしい夢」なのだった。
何度、同じ夢を見せられても、最後は同じで、そのひとが誰なのか、結局のところ、わからないまま、何年も、過ぎていた。
井の頭公園の「素敵な夕日」のなか、ベンチに、ひとりで座っているわたしは、よく、この「夢」のことを、考えた。
誰なのかわからないそのひとは、まるで、「空気」のように、いつだって、わたしと居る空間のなかに溶け込んでいる。
とても自然な、安心出来る「存在」なのだ。
ーーあの「夢のなかのひと」こそが、わたしが、「海」からもらった「ふたつの巻き貝」のうちの「ひとつ」を手渡すべきひとなんだろう。。
いつの間にか、わたしは、そう、思うように、なっていた。
ーー「夢の続き」が、いつかしら、わたしにその「答え」をくれるはず。。
そう、強く、信じていたのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
見知らぬ公園の夕暮れのベンチに、誰かと座っている夢は、それからも、何度か、繰り返して、見せられ続けた。
眩しい「ひかり」のなかに居るそのひとが、いつかは、夢のなかで、その「正体」を、現してくれるだろうと、ずうっと期待して、過ごして来たけれど、そのひとが誰なのかは、結局、わからないままに、時は、過ぎていった。
そのひとが「声」を発する直前に、わたしは、どうしても、夢から、醒めてしまう。。
だから。。
「海」からの「贈り物」の「ふたつの巻き貝」は、わたしの部屋の、ガラス戸付きの書棚のなかに、今も、「ふたつ」並んで、飾られたまま、なのである。
「巻き貝」の「片割れ」は、誰にも、渡されないままに、五十年もの月日が、過ぎ去ってしまっていた。
ーーどうして、誰にも、渡さなかったんだろう。。
いくつか、「真剣な恋愛」もした。
運命的な出逢いの末の「結婚」だってした、というのに。。
どうしてか、わたしは、誰にも、「片割れ」をあげずに、ずうっと、「夢の続き」が、わたしに「答え」を教えてくれることを、待ち望んだまま、「人生」を、過ごして来たのだ。
ーーベンチのとなりに座っているひとの「正体」が明かされる「夢の続き」を、いつまでも見ることが出来ないのは、それこそが、「夢」からの「メッセージ」だったりするから、なのではないだろうか。。
ある日、ふと、そんな考えが、わたしの脳裏に、浮かんだ。
そうして、長年の「謎」が解けてゆきそうな、そんな、「予感」が、なんとなく、して来たのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
五十年前のことは、いくらでも語れるけれど、五十年後の世界に、わたしは、もう、絶対に、居ない。
人生は、無情にも、足早に、過ぎてゆく。。
時間は、有限なのだった。
五十年も前のあの日、「海」から「秘密」の「贈り物」をもらった「十六歳のわたし」は、想像した以上に、盛りだくさんな、いろいろなことを、経験させられながら、ここまで、「人生の有限な時間」を過ごして来た。
「手抜き」なぞ、する「ゆとり」は、どこにも、無かった。
いつだって、「精一杯」で、そうして「全力」で、わたしは、生きて来た。
「何か」に「負けたくない」と思いながら、「何か」に「抗い」続けながら、わたしは、ここまで、生きて来たのだ。
おそらくは、「人生」に対する、そんな「向き合いかた」こそが、わたしの「生きる理由」だったのかもしれない。
ーー自分から見つめるものは、ひたすらに、「ピュア」で「うつくしいもの」であって欲しい。。
わたしは、いつだって、そう「願いながら」生きて来たのだった。
つまり、わたしが「生きる理由」は、「願い」だったのだ。
長く生きて来たから、「穢(きたな)いもの」は、現実的には、たくさんたくさん見て来た。
「理想」は「理想」でしかないことも、いろいろに、「経験」させられて来た。
多くのひとは、自分勝手で、小狡いし、簡単に、ひとを裏切る。
全体を見通して、愛に溢れた判断をするようなひとは、なかなか見当たらないから、結果として、信頼出来る人に出会えるチャンスは、限りなく、少なかったりする。
「きれいに真面目に生きよう」とするたびに、さんざん、嫌な目に遭って来たし、傷つけられても来た。
それでも、わたしは、やっぱり、負けたくはなかったのだ。
たとえ、現実的には、「世間」の「汚濁」のなかに、ハメられているとしても、「汚濁」のなかにまみれて、「そんなものさ」とうそぶくような「おとな」の列に、自分を、紛れさせたくはない。
「世間」から、見せられ続けるものが、「穢いもの」でしかないのだとしたら、自分から選んで「見るもの」だけは、「ピュアなるもの」や「うつくしいもの」で、あって欲しい。。
それは、「切実な願い」であった。
わたしは、自分が、信じられる「ピュアなるもの」や「うつくしいもの」を、一生懸命に、探し続けて、そうして、それらを、愛して、見つめて、「穢い世間」には、常に「抗い」ながら、残りの、「有限な人生」を生きて行きたいのだ。
「世間知らずだね。」
と、何かと長女には、からかわれるけれど、わたしは、もう、ずうっと、若いころから、「世間」なんか、ほんとうは、知りたくもなかったのだった。
だから、もう、
ーー世間知らずで上等だ。
と、開き直ることにした。
「おかあさんは、たましいだけで生きてるひとだからね。」
長女には、すっかり、見透かされている。
これからも、わたしは、自分の「たましい」が喜ぶものだけを、見つめて、生きて行ければ、もう、それでいいと思っている。
時間は、もう、そんなにも、無いのだから。。
そんなことを、考えるようになってから、夢のなかの、夕暮れのベンチの、となりにすわる「存在」についての「答え」が、こころのなかに、はっきりと、見えて来たことに、わたしは、あるとき、気が付いて、少し、嬉しくなった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ふたつの巻き貝」は、ガラス戸付きのわたしの「書棚」から、今日も、わたしを、見守ってくれている。
五十年以上の「とき」を、わたしは、「ふたつの巻き貝」と共に、生きてきたことになるのだ。
十六歳の夏に、「海」からもらった「秘密」の「贈り物」。。
その「ひとつ」をあげるべきだと思っていた、「夢」のなかの、夕暮れの公園のベンチに座っている「空気」のように自然な「存在」。。
うつくしい夕暮れの「ひかり」が眩しすぎて、真っ白に輝きすぎて、「見えない」ほどの「存在」。。
そうなのだ。
「見えないこと」が、実は、「答え」だったのだ。
何故なら、それは、「ひとではない」からだ。
「答え」は。。
「ひかり」が溢れて、輝き、見えなくなるほどに、眩しくうつくしい「ピュアなるもの」だったのである。
ーーあなたは、「ピュアなるもの」を探し続けて、「ピュアなるもの」と共に、生きてゆくのですよ。
それが、「夢」からの「メッセージ」だったのだと、五十年も経って、わたしは、ようやく、「理解」が出来たのだった。
何度見ても、「夢」のなかの眩しい「存在」の正体は、見えるはずもない。
だって、「正体」は、「ひかり輝く眩しさ」と共に、もう、最初から、明かされていたのだから。
わたしが、勝手に、「ひと」だと思い込んでいただけ、だったのだ。。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ーーわたしを、「しあわせにしてくれるひと」に「片割れ」をあげよう。
なんて、少女らしく、無邪気に考えたけれど、だいたい、「しあわせ」は、「誰か」に、「してもらう」ものなんかではない。
しあわせは、「努力」して、「苦労」して、「工夫」して、少しずつ、「実感」出来るように、創り上げてゆくものだ。
成功するとも、限らない。
ただ、「こうありたい」と、見つめ続けてゆくものなのだ、と思う。
それでも、「ふたつの巻き貝」は、どんなときも、わたしを、見守っていてくれたし、その「存在」は、いつも、わたしを、励まし続けていてくれた。
これは、わたしの「人生」の「お守り」だったのだ。。
あの日、「セピア色の海」から、わたしに向かって、流れて来た、わたしの「人生」への「エール」だったのだろう。
だから、「ふたつの巻き貝」は、もう、誰にも、あげたりは、しない。
ずうっと、わたしのたいせつな本たちが仕舞ってある、大好きな白いガラス戸付きの書棚に、並べて、飾って置くことにしようと思っている。
わたしの、たましいの「世界」が、終わりを告げる「その日」まで。。
そのあとは、どうしようか。。
欲しいひとがいたら、あげようかな。
きっと、そのひとのことも、「守ってくれる」と、思うから。
だって、遠い「海」から流れて来た「秘密」の「贈り物」なんだもの。。
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