マガジンのカバー画像

日記

40
運営しているクリエイター

記事一覧

逢瀬のすべて

逢瀬のすべて

 水を飲む。
 飲み口に少し残されたなまぬるい温度が、少し天国だった。名前に果てはないように、わたしに命がよりかかる。たわんで、すべてがおじゃんになる。

 ふるい雨が降っている。腕の内側にすっかり細い蛍光灯のような骨がある。それをきゅっと引き寄せるみたいに雨を見あげる。傘は忘れてしまった。白いひかりがわたしから駆け上がって空へ飛びついていった。それは涙ともいえるものだった。
 わたしの黒いトート

もっとみる
春の住処

春の住処

 たとえばわたしが鳥だったとしてあの顔ができるだろうか。愛され方しかわかっていないあの鳥の、くるりと一周まわった水鏡のような瞳。水浴びをする白文鳥をじっと見つめる。春の午後。

 わたしが100%わたしであった時代を思い返す。それはフライ返しみたいにへにゃんとしていて、輪郭がやわらかくひしゃげている。わからない、とは言えないが、スフレにフォークを押し付けるみたいに少し痛む。結局全て忘れてしまうから

もっとみる
白白パンダ、白黒パンダ

白白パンダ、白黒パンダ

せとかを剥く。
柑橘の匂いが指にからまりつく。春の朝のひかりは気温は低いのにとても柔らかく差し込んでくる。それはもう既にまどろみに近い。半分にわって、それから皮を剥がす。一気に果実から果物へと変貌を遂げたようなそれと、あたりにきらきらひかるジューシーな香り。ひとつぶ、口に運ぶと思った以上に甘い、あまい味が広がって、おいしい、に結びつく感じ。
一人でこれらをやっている朝の、お供として音楽をかける。

もっとみる
吹き込まれる、幻

吹き込まれる、幻

 裾野からふんわりピンク色に溶け出していく空の、茜の極まるところの、その先から生まれる風を吸い込んだ。足の先はとっくに靴の形にまるくかためられていて、タイツと靴のさわりが悪い。人が通り過ぎる。色硝子を透かして見たような音色がイヤホンから流れ込む。それはゆったりとした静寂で、そのなかに限りなく薄い破裂が混ざっている。

 共犯が、愛より上だと思っていたころ、小さなソーサーカップをいくつも集めるような

もっとみる
息のつづく限りのおやすみなさいを

息のつづく限りのおやすみなさいを

 感じる速度ってなんだろう。
 水餃子の、つやんとひかるひだを見つめながらそう、思った。感じる速度が高まって、涙があふれるときの、あの解像度はなんなのだろう。まるっこい水餃子はスープの海で寝そべっている。つぶらな瞳が輪っかになってわたしを惑う。窓をきっかりしまっていて、午後の音が満ちている。近くにおいた冷水から雫が薄くのびている。わたしの頬に、わたしの手から、わたしの作った味が入っていく。おそるお

もっとみる
牛のしっぽには星がある

牛のしっぽには星がある

 年が明けました。
 一年を、暮れるとか明けるとかで表現するたびに、ひとひもひとよも変わらないのかもなと思ったりします。

 時間の感覚ってほんとうにさまざまで、自分のなかでもさまざまで、それなのに一番はっきりしているものみたく扱われていて、その落差にたまにうっとりしてしまう。それは生きているに近いから。

 まばたきの回数で空とべたならわたし今星空にいる、とか

みたいな短歌を詠んだことがあるけ

もっとみる
わたしもひかる輪っかがほしい

わたしもひかる輪っかがほしい

 街灯すら眩しくて手を翳したあとに、果たして生き物としてどうなのだろうと思う。月はまだやや低く、か細い線がつるんとひかっている。光を弾いた夜の水面は油絵みたいで、その横をひかる犬を連れたひかる人間が漂ってくる。
 わたしの左肩に重みをのせるトートバッグは彼からもらったもので、毎日使っているからかあまり彼の気配は感じない。わたしと君として出会ったはずがいつからか私たちになってしまうように、曖昧にわた

もっとみる
屋台はほぼ匂いだし

屋台はほぼ匂いだし

 小説というものは自分とはかけ離れたものと思っていた。たとえばそれは歪んだ並行世界のようなもので、決して交わらない。ふわふわと浮かんだり鋭く横切ったりするものであって、息を吸うとふくまれている冬の匂いのようなものでは決してない。そう思っていた。

 それがさっき揺らいだ。いつものように帰り道のルーティンとして駅前の本屋に寄り、(最近リフォームしたばかりで薄暗くなってしまった)肉を剥いだり溶かしたり

もっとみる
冬の始まりには魚を焼く

冬の始まりには魚を焼く

 魚の匂いがする。
 一人暮らしのちいさな部屋の中で焼き魚をすると、すべてのものが魚の匂いに染まる。
 先日行った彼氏の家を思い出す。ナチュラルに整頓されていて居心地の良さそうな、生真面目な性格があらわれているようなリビングと寝室。観葉植物とテレビをかけるボード。全体的にベージュトーンで統一された部屋。
 そして今のわたしの魚部屋。

 隅には白い鳥がいて、グレーのラグに白い家具。静かで、わたしひ

もっとみる
美人な母親

美人な母親

 最近、親が筋トレにハマっている。
 母親と会うたびに若返っているのがわかる。内側からハリのある肌、ほんのり血色のよい頬、しなやかな手足。母はいつだって、今がいちばん美しい。

 いや、そうではなかった。わたしが小学生の頃、シングルマザーの母は国家資格を取るために日々勉強に追われていた。わたしはあまりかまってもらえないことを寂しく思いながら、周りの荷花ちゃんのためにお母さんがんばってるね、応援して

もっとみる
均一なうすきいろ、又は卵

均一なうすきいろ、又は卵

 たまごを割るたびに、この中身がすべてこの小さな殻の中に入っていたことが信じられない気持ちになる。透明なつるんの中にぽっかりうかぶ黄身がまだこちらをみているので、あわてて箸でときほぐす。あたためたフライパンに注ぎ込めばでろんとひろがった生卵がやや遅れて均一なうすきいろにそまる。そうして初めて、安心できる。

 明日はバイトが休みになるらしい。彼氏のお休みと被るのでほんとうなら休みになったことを伝え

もっとみる
生活の生命活動らしさとか

生活の生命活動らしさとか

 寒い。
 痛いまではいかないけれど寒い。寒いがすぎると痛いに変わるけれど、暑いがすぎるとどうなるんだっけ。漠然と、砂漠にある熱い砂と砂の間の熱のことを思って、そのへんに夏があるような気がして、でも夜はすごく寒いんだってね、そのあたりなんだかアンティークな風格。

 強めの風がふく。
 夕方なのにもう暗くなった道でシルエットだけのコーギーを見かけて、そのあまりの足の短さに衝撃を受けたりする。たぶん

もっとみる
やさしい傷口

やさしい傷口

 どこかで気球が破れている。
 ぱん、ぱん、と小気味よく、カラフルな膨らみを爆ぜている。それは遠い彼方のことで、たとえるならば昔話のようなやさしさで、今もこだましている。十月がいつの間にか終わり、霜月に入ってもまた低迷する気持ちのままだった。そんなことをいまだにやっている私が、幼くて痛い。

 このところ、過去の凄惨な事件や、刑務所内の生活、ヤングケアラーやきょうだい児、虐待に介護、それらを追うニ

もっとみる
魚の瞼を感じる日には

魚の瞼を感じる日には

こんな苦しい日はどうしてたんだっけ、時間もお金ももうわからなくなってて、夜が冷たく刺してきて、それに急かされるみたいにかえる、かえる道でスタバが煌々と在って吸い込まれて最後尾につく、喉に落ち着いたチャイの温もりと、赤くなる頬、それから中也の詩集をひらけば慌てて飛び出る涙の厚みのある感じ、踏んでいた絨毯が大きな犬の毛足のようで思わず蹲りたくなる、冬の夜のことがまっすぐ愛されていてその文字を追ったあと

もっとみる