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わたしもひかる輪っかがほしい

 街灯すら眩しくて手を翳したあとに、果たして生き物としてどうなのだろうと思う。月はまだやや低く、か細い線がつるんとひかっている。光を弾いた夜の水面は油絵みたいで、その横をひかる犬を連れたひかる人間が漂ってくる。
 わたしの左肩に重みをのせるトートバッグは彼からもらったもので、毎日使っているからかあまり彼の気配は感じない。わたしと君として出会ったはずがいつからか私たちになってしまうように、曖昧にわたしに染めてしまった。中には詰め放題のあとのように野菜がわんさかっと入っていてその中にはみかんもあって嬉しくなる。自分が買ったものであたりまえの幅の喜びを感じられることの、日常感。いいことだ。
 最近はかかとから歩くことを意識しているのできっと犬みたいだ。犬がスタンダードな歩き方として二本足を選んだならばきっとこんなふうだ、と思う。だからわたしもひかる輪っかが欲しい。

 この前友達とガレット屋さんに入って、ガレットを食べていた時に、食べ方の正解がわからないね、難しいね、なんて言っていたら、でもガレットがよく食べられる地域ではこれが一番気取らなくて食べられるものなんだろうね、なんて返ってきて、食べ物から人、人から食べ物への連想って面白いなと思ったりした。そう言いながら友達は器用にくるくるナイフを扱っていて、その地方の人なのかもしれないと思ったりした。そうやっていろんなものが細い糸で繋がっているのが今の社会で、それがわからないままわたしは過ごしているんだけれどたまにそうやって気づかせてもらえるとなんだか心地よくなる。物事の表には裏があって、裏にもまた別の表があって、そうやって連綿と続くなにかの先にかろうじてひっかかることが私たちの生活なんだろう。そんなこと話したりはしないけれど、月を見てたまに思うくらいのこと。

 最近はよく人に会っている。人に会うのはエネルギーを使う。使うけれどもらう時もある。人に会いたくなるときってどういう感情なんだろうって思う時がある。会いたいですの熱量がそのまま好きには置き換わらないし、それよりもっとなにか違う感情のような気がする。
 つらつらと考えるには夜は長くて、カフェラテをじっくりくるくるかき混ぜるみたいにして今日も眠りに落ちる。いつか思考の先に世界があるようになれば、それはそれで美しいのだろう。そういう夜は1人でいいかもしれない。



23.1215

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