生活の生命活動らしさとか
寒い。
痛いまではいかないけれど寒い。寒いがすぎると痛いに変わるけれど、暑いがすぎるとどうなるんだっけ。漠然と、砂漠にある熱い砂と砂の間の熱のことを思って、そのへんに夏があるような気がして、でも夜はすごく寒いんだってね、そのあたりなんだかアンティークな風格。
強めの風がふく。
夕方なのにもう暗くなった道でシルエットだけのコーギーを見かけて、そのあまりの足の短さに衝撃を受けたりする。たぶん、コーギー。だってもっちりしていた。その子を連れて歩く人もダウンを着込んでふくらんでいた。冬だね。
母に買ってもらったインスタントのお味噌汁をぎゅっと抱いて帰路に着く。赤字でおおきく24食と書かれている。その面を胸の辺りにくっつけるようにして歩けばかさかさとした温かさが溶けてきた。コンビニに寄りたくなるけれどぐっと我慢する。いまほしいもの、はきゅうりだろう。見事な一本漬けのきゅうりをかじりたい。それからこのお味噌汁を啜りたい。そう思いながら早足で街を抜き去っていく。
家はあたたかい。それから鳥がいる。その意味でもあたたかい。帰宅したら、おかえりというように、ぴぴっと囀ってくれるけれど、すぐにヒーターの上でまるく溶けだす。そのペットらしさと動物らしさの融合が愛おしい。
最近は短歌も詠めず、小説もあまり書けない。詩と呼べるのかわからない言葉の羅列をつよめにからだから押し出してみたり、それらを眺めてやっぱり水に流したり、そういう繰り返しで月の満ち欠けよりも不甲斐ない有様だ。
だけど、まあいいかとも思う。
生活の中でからっぽになれる自分ならば、それはそれで一種の人間らしさなんじゃないかとも思う。いつのまにかすっかり色づいた葉を、そのなかにいくつか潜む赤い実を眺めていたことを思い出しながら、わたしは夕飯の準備を始めた。
23.1119
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