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歴史あれこれ

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歴史ウラ話集。表の歴史に隠れたような歴史のこぼれ話が大好物です。 妄想や独自の見解話などの収集帳。
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2022年8月の記事一覧

瀬戸内海の要衝を抑える「今治城」をご紹介

瀬戸内海の要衝を抑える「今治城」をご紹介

瀬戸内海に浮かぶようにも見える、白亜の天守が美しい今治城。

瀬戸内の海上交通の要衝につくられたこの城は、「日本三大水城」のひとつにも数えられています。

堀には海水がひかれ、その幅は港のように広大につくられていました。
当時としては国内最大の船入を備えた、日本屈指の海城だったそうです。

また、現在の天守は模擬天守であるものの、藤堂高虎によって築かれた天守は、当時としては最新鋭の層塔型天守だった

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■【より道‐96】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「嫡子断続」

■【より道‐96】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「嫡子断続」

■四代将軍と五代将軍

第三代将軍・足利義満(よしみつ)は、有力大名であった土岐氏、山名氏、そして南朝勢力を衰退させることで南北朝合一を果たしました。その後、「応永の乱」で西国の有力大名・大内氏まで弱体化させると、足利義満(よしみつ)は自身に「太上天皇」の尊号が贈られないかと、朝廷に対して働きかけを行ったそうです。現代でいうと、明仁上皇と同じ位ですね。

1408年(応永十五年)足利義満(よしみつ

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Spin Off~母成峠からの退却~黒田傳太氏回顧記録抄より

Spin Off~母成峠からの退却~黒田傳太氏回顧記録抄より

八月二十一日早朝。二本松の軍監、黒田傳太のところへ敵が押し寄せてきたとの知らせがあった。傳太は、このとき大谷鳴海、大谷与兵衛の両隊の軍監を務めていた。前日夕刻に山入村で西軍と遭遇し、夜半に母成峠に引き揚げてきたばかりであった。
(まだ朝食を取ってもいないというのに……)
 朝食を取れなかった恨めしさは残るが、止むを得ない。
 傳太は各隊の兵糧の手配をして、後から運搬する手筈になっていたので後方に残

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白虎隊の横顔

白虎隊の横顔

 本日は、「白虎隊の日」。あの、飯盛山の悲劇があった日です。
 ただ、悲劇ゆえに「白虎隊は全員討死」なんていう誤解をしている人も多いのではないでしょうか。

「白虎隊士」はもっといる白虎隊が誕生したのは、慶応4年正月、鳥羽・伏見の戦いで会津藩が薩長に破れてからです。会津藩主松平容保は、鳥羽・伏見の戦いの責任を徳川慶喜から押し付けられる形になり、それに反対の意を込めて、御用部屋の出仕を拒否。藩主の座

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■【より道‐95】戦乱の世に至るまでの日本史_義満の謀事「応永の乱」

■【より道‐95】戦乱の世に至るまでの日本史_義満の謀事「応永の乱」

周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊などの守護大名であった大内義弘は、足利義満の2歳年上で、いちばんの家臣でした。

全国行脚するために安芸の厳島神社へ参拝にも随行していますし、九州探題の今川了俊と共に九州平定のために挙兵しました。また、1391年(明徳二年)に起きた「明徳の乱」で活躍した翌年には、南北朝合一の仲介役までしています。

そのような忠義を尽くした大内義弘を足利義満は追い込み「応永の乱」

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小泉八雲とセツが描いた日本の民話(島根・松江)

小泉八雲とセツが描いた日本の民話(島根・松江)

第1章 小泉セツの生き方に触れる武家屋敷が軒を連ねる松江の塩見縄手には、セツと八雲が暮らした家、2人の貴重な展示品が並ぶ館があります。セツとはどんな人だったのでしょうか。

 鬱蒼とした森の中、薄紙で作った舟に硬貨を一枚載せ、鏡のように澄み切った池の水面に、静かに浮かべる。若き小泉セツと2人の女友達は、その舟の様子をじっと見守っていた。池に浮かべた舟が早く沈めば早く縁に恵まれる。近くで沈めば近くに

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素敵なプロジェクトと悲惨なプロジェクトとチェリーパイ(2/3)

素敵なプロジェクトと悲惨なプロジェクトとチェリーパイ(2/3)

㊃金物またの名を震洋と呼ばれるそれは、大戦末期に日本海軍が開発した特攻兵器です。

ベニヤ板で作られた小型のモーターボートで、トラックのガソリンエンジンで動きます。
震洋の舳先には250kgの爆薬が積まれており、敵の艦船に体当たりするのです。
自動車のエンジンとは言え、当時の日本の技術で作られたエンジンは性能も低く、燃料も質の悪いガソリンしか用意できなかったため、予定速度が40km/hぐらいのとこ

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■【より道‐94】戦乱の世に至るまでの日本史_義満の謀事「南北朝合一」

■【より道‐94】戦乱の世に至るまでの日本史_義満の謀事「南北朝合一」

南北朝問題は、1272年(文永九年)に後嵯峨天皇が、治天の君(ちてんのきみ)を定めずに崩御したことで、持明院統(北朝)の血脈と大覚寺統(南朝)の血脈の間に確執が生まれたことがそもそもの原因でした。

その後、後醍醐天皇が1333年(元弘三年)に「元弘の乱」を起こしたことで、京都に北の朝廷が、奈良吉野に南の朝廷が誕生しました。

その後、南北朝の争いは、それぞれを支持する公家や武家たちの争いが続き、

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村上海賊の城「能島城」をご紹介

村上海賊の城「能島城」をご紹介

こんにちは、ゆうさいです。

過去に一度近くまで訪問したものの、台風による影響により上陸を阻まれた城「能島城」。

ついにこの度、初上陸を成し遂げましたので、この機会にご紹介したいと思います。

能島城は、戦国時代に村上水軍と呼ばれた能島村上氏が瀬戸内海の交通の要衝を抑えるために要塞化した島です。
この村上氏は、ここを通行する船を安全に送り届けるための保障を主にビジネスとして栄えていました。

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北条政子の大切なもの

北条政子の大切なもの

今回の「鎌倉殿…」ではとうとう「比企能員の変」が起こり、比企一族が滅亡に追い込まれました。

観ていると、ふと違う角度から突き詰めて妄想してしまい、考察した事をまとめてみたいと思います。

比企能員を演じた佐藤二郎さんの演技が上手くて、あまりの憎たらしさに、思わず「殺ってやれ~」と北条の見方になってしまうほどでした。

しかし、そもそも、これは北条氏編纂の「吾妻鏡」を基本にしたストーリー仕立てで、

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■【より道‐93】戦乱の世に至るまでの日本史_義満の謀事「明徳の乱」

■【より道‐93】戦乱の世に至るまでの日本史_義満の謀事「明徳の乱」

以前の記事でも触れましたが、六分の一殿と呼ばれた山名一族が衰退した「明徳の乱」について、再度、記しておこうと思います。それは、ご先祖様の情報をネットで検索していると以下の文章をみつたことがキッカケです。

他にも伯耆国長氏を調べると以下のような文章を発見しました。

断片的な情報ですが、奉公衆ということは、征夷大将軍・足利義満の直属軍だったということになります。すると、我々のご先祖様は、「明徳の乱

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いわきの旅①

いわきの旅①

※タイトル画像のハワイアンズは出てきません。

お盆休み、毎年東日本大震災の被災地に行ってます。
いつもは仙台から南三陸町に行ったり、数年前は思いきり岩手の遠野や平泉まで行きましたが。
今年はお盆休みが4日しかなく、2011年の8月以来三回(うち二回は仙台までの経由地として)行った、福島のいわきまでにしました。
2011年以来の、いわきだけめぐる旅です。

いわき市は、福島県で人口最大の都市(ただ

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梶原景時はなぜ戦ったのか

梶原景時はなぜ戦ったのか

前回の「鎌倉殿…」では首桶が並ぶシーンから始まってカットされてしまった「梶原景時の変」。

私としてはもう少し丁寧に描いて欲しかったと、残念に思ってしまいました。

今回演じた中村獅童さんの景時は、それまでの印象を変えてしまうほどの紳士ぶりで、頼朝への忠誠心に溢れた名士ぶりだったのに、さぞかし潔い散り方をするだろうと、内心では楽しみにしていたからです。

始まった当初は景時の最期のシーンを楽しみに

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■【より道‐90】戦乱の世に至るまでの日本史_足利義満へ継がれるまで

■【より道‐90】戦乱の世に至るまでの日本史_足利義満へ継がれるまで

足利尊氏が亡くなると息子の足利義詮は、父の時代から続く南北朝のイザコザをなんとか治めるために、足利一門の結束を促して南朝側に属していた大名たちを幕府側に帰参させることに成功しました。

ただ、歴史をみると足利義詮はあまり注目されておらず、どちらかというと三代将軍・足利義満の方が評価されているように思えます。実際に南北朝問題を解決し、明との貿易で莫大な財を得て、日本の文化である金閣寺を建立したからで

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