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Spin Off~母成峠からの退却~黒田傳太氏回顧記録抄より

八月二十一日早朝。二本松の軍監、黒田傳太でんたのところへ敵が押し寄せてきたとの知らせがあった。傳太は、このとき大谷鳴海おおやなるみ、大谷与兵衛よへえの両隊の軍監を務めていた。前日夕刻に山入やまのいり村で西軍と遭遇し、夜半に母成ぼなり峠に引き揚げてきたばかりであった。
(まだ朝食を取ってもいないというのに……)
 朝食を取れなかった恨めしさは残るが、止むを得ない。
 傳太は各隊の兵糧の手配をして、後から運搬する手筈になっていたので後方に残っていて、糧食の手配が済んで持ち場、即ち猿岩に戻ろうとしたところで、二本松兵が引き揚げてくるのに出逢ったのである。聞けば、第一台場の胸壁は破れたという。持ち場である猿岩の者たちに兵糧を配布する間もなく、居合わせた二本松兵十二、三名が居合わせたのでこれを引き連れ、母成峠右手の高山に上り、ここで一防ぎしようと眼下の戦場を見下ろした。
 そのとき、俄に霧が吹き付けてきた。五、六間先も見えない有様である。それまで聞こえていた砲声も、一瞬止んだ。霧の向こうには西軍が大挙しているはずだが、そちらの方面から猿岩の二本松兵の方へ霧が流れていく。だが、次第に霧が晴れてくると、西軍はこの霧を利用して第二胸壁に迫り、銃眼より激しく東軍に銃撃してくる。守る東軍は八〇〇名、それに対して西軍は三〇〇〇名だった。
 東軍はたちまち利を失い、一同は止むなく引き上げる運命に至った。このとき、母成峠には多くの陣小屋が建てられていたが、その陣小屋に西軍が忍び寄ってきて、火を放つ。火焔は天を焦がし、付近は焔の赤と黒煙に覆われた。傳太らは進退極まり、止むを得ず、山を下った。
 谷間の細道は、同じように下っていく東軍の姿があった。その中に、傳太は見知った顔を見つけた。
「山口殿」
 呼びかけると、男が振り向いた。六尺近くもある、すっと鼻梁の通った総髪の美丈夫。新選組の山口次郎である。猿岩では、二本松隊の隣で新選組の指揮を取っていた男だ。
「これからどうなされる」
傳太の問いに、山口はあっさりと答えた。
「共に会津に行くべきであろう」
 確かに、兵力に差がありすぎる。ここで粘っても犬死するだけであろう。話は簡単にまとまった。
 一行が凡そ二丁程も進んだ。石筵村より滝沢村に通じる道路があるという。だが、その道に出るまでは左右とも森林であり、敵がどのような策謀をめぐらしているか分からず、神経を張り詰めていた。
 目的の道に達したと思われるところで、山口は隊旗を振って左右を確認した。凡そ一五間先に、一小隊程の人数がいる。一行のいるところからは、敵味方の区別がつけられない。そのため、山口が旗を一振りすると、たちまち彼方より小銃が連発された。
(やはり敵だったか)
 思わず、歯を食いしばる。この道を通過することは出来ないい。やむをえず、元の道を引き返そうとすると、敵は俄に距離を詰めて追撃してくる。その距離、十二、三間ほど。一同は逃れるほかなかった。眼の前には、深い谷間を流れる川がある。幅は十間ほど、深さは三、四尺程もあるだろうか。対岸は岩石が切り立っている。あの崖は猿でもなければ、よじ登れないだろう。傳太の胸を、絶望が覆った。
 これを渡らなければ、命はない。咄嗟に、傳太は家僕の兵介へいすけに命じた。
「私の首を切って、この場を逃れよ。この有様を、家族に物語ってほしい」
 すると、兵介は首を横に振った。
「逃げるだけは逃げてみようじゃありませんか。仰せの言葉には、納得いたしかねます」
 その言葉に励まされ、傳太は川を渡り、目の前の葛に取り付いた。後ろでは、西軍が狙い撃ちにして、発砲してくる。敵の弾に当たった者は、岩の上から十五、六間の崖をごろごろと転げ、ざんぶという音が聞こえるのみである。だが、目の前には切り立った崖。振り返る暇もなく、葛に取り付いて上り切るしか、生き残る術はなかった。
 ようやく山頂に達したところで、空腹を覚えた。そういえば、朝飯を食べていなかった。ふと見ると、食べ頃を迎えた山梨の実がある。これを口に入れると、その甘さが腹に染みた。
 林を出て道の様子を伺うと、眼前に敵の大軍が西を目指して進んでいるのが見える。このままでは到底目的地である会津に達することはできない。どうしたらよいか。思慮しながら林の中を進んでいくと、三人の兵士と出逢った。肩章に「會」の文字が見える。会津兵だ。
「丁度良いところで出逢った。会津への道案内を頼めまいか」
 傳太の頼みに対して、会津兵は快く頷いた。
「会津方面には拙者共がご案内いたします。だが、日暮れの後でなければ、この山を出ることが出来ない。しばらくこの場所で潜伏し、時宜を待ちましょう。」
 一同は便宜を得ることが出来たのを喜び、林の中に横臥し、または芝生に腰掛け、日が暮れるのを待った。だが、日没後に密かに彼らを訪ねると、その人影はなかった。彼らは密かに脱出したものとみえる。
「自分達さえ良ければ良いのでしょうか」
 憤懣やるかたない様子で、兵介が愚痴をこぼした。
「詮無いことをあれこれ言っても仕方あるまい。日も暮れたし、西軍が現れないことを祈るのみだな」
 部下の手前、愚痴はこぼせない。傳太は、兵介と他二、三名を連れて西南と思しき方向を目指し、萱が生い茂る中をかき分けながら、この地を脱出しようとした。だが、萱はわさわさと生い茂り、行く手を阻み、思うように前進できない。
 ようやく緩やかな小川を発見し、その流れの中を進む。凡そ半道程も行くと、とある村落に出た。農家が五、六戸ほどもあったが、人影はない。戦火を恐れて、いずれかに避難したのであろう。この村の南には、一本の道路があり、一行はその道を進んだ。西に行くこと一里、次の村に入ろうとすると、入り口に篝火を焚いている番兵らしき者がいるのが見えた。
 そっと近づき様子を窺ってみると、味方ではなく、敵兵である。
(もうこんなところまで来ているのか)
 西軍の行軍の速さには、驚くほかはない。この道も進むことは出来ない。左折して、元の萱野に戻るしかなかった。方向を変えて十間ほど進むと、三名の歩兵が潜伏しているのに出会った。
「助けてくだせえ」
「命ばかりは」
 首を地につけ、しきりに頭を下げる。その様子は、哀れであった。尋ねるまでもなく、会津兵に違いない。
「ご安心なされ。我々は二本松の者です」
「まことか」 
 相手方は、どっと息を吐いた。傳太の言葉に力を得たのか、しきりに同行を乞い願う。
 会津兵ならば、地の利があるに違いない。哀れみを感じたこともあり、傳太らはこの者を一行に加えた。
 二十歩も進むと、山からの流れに出た。その深浅を知る術もなく、どの兵士も呆然している。また空腹のため、歩みを進めることが出来なかった。
 傳太はふと、食べ物の事を思い出した。腰には二個の握り飯、背には十個のパンを糸に通したものを背負っていたのを、思い出したのである。どの兵も、朝早くに敵に攻め込まれ、腹が減っているに違いない。
「食べるか」
「はい」
 まず、真っ先に兵介の手が伸びた。この人数で分ければ、腹を満たすには十分とは言い難い量である。だが、ようやく食べ物を口にしたところで、どの兵も幾分か力を得たようであった。
「腹もくちくなったであろう。そろそろこの川を渡ろうではないか」
 傳太の言葉に、皆がうなずいた。そこで渡河に踏み切ると、川の中には大石があり、また、深さは腰にまで達した。辛うじて南岸に上陸し、尚も十歩ほども行くと、一本の道が見える。
「あれは、どの方向へ伸びている」
 傳太は、傍らにいた会津の歩兵に尋ねた。
「須川野村です」
「なるほど」
「ちょっくら、様子を見てきます」 
 会津兵三名のうち、二名が駆け出した。
「待て!」
 傳太が引き止めたが、二人は一刻も早く若松城下へと気が逸っているのか、村の方向へ駈けていく。果たして、二人が村の入り口の入り口に至ったと思う頃、小銃二、三発の音がして、二名はとうとう戻ってこなかった。恐らく、落命したのであろう。
 尚もこの道より左折し、前方の萱を押し分けていくと、目の前に高々とそびえる山があった。残った会津兵にたずねると、名倉山であるという。この高山を越えなければ、他に道がない。
 傳太は一同を励まして蔦に捕まり、辛うじて山頂に達した。さすがに、皆の疲労も限界に達している。傳太自身も、とろとろと、知らず知らずのうちに眠りに落ちていった。

ふと目を覚ますと、二十一夜の月が中天に昇っており、夜が明けようとしていた。辺りは静寂が支配している。どうやら、この辺りには西軍は潜んでいないようだった。西軍が起き出さないうちにと、傳太は一同を起こして急いで山を南西に下ると、木樵が往来しているらしい細道があった。この道を下ると、ようやく里道らしいものに出た。更に進むと、前方に十五、六名の集団がいる。
(すわ、敵兵か)
 血気に逸る背後を視線で押さえ、踏みとどまった。
「そなたらは」
 相手も、やや殺気立っている。無理もない。
「二本松藩軍監、黒田傳太と申す」
 傳太の名乗りに、相手はほっと息をついた。
「二本松の方でしたか。我々は、会津藩の者です」
 友軍との出会いに、お互いに安堵の空気が漂った。ちらりと背後を見ると、伝介の表情も和らいでいた。
 彼らに会津への道を問うと、親切に教えてくれた。その案内に従っていくこと、一つの村落に達した。ここも人影がなく、皆逃走したようであった。
(気の毒に……)
 そう思わなくもなかった。もっとも、感傷に浸っていたのは一瞬のことで、見ると、何故か畑の傍らに一升ほどの飯が棄てられている。見ると生唾が湧いてきた。だが。
「毒が入っているのではないか」
 そんな傳太の懸念を、兵介は一笑に付した。
「傳太様。そんなに言うならば、私が毒見いたしますよ」
「馬鹿。止せ」
 傳太の制止も虚しく、兵介は一掴みを口に運んだ。しばらくむしゃむしゃと咀嚼していたが、ようやく「毒はない」と断言した。
 皆、余程腹が減っていたのだろう。一斉にこれに貪りついた。
 腹が満たされたところで、ようやく猪苗代の街を目指した。先程食べた飯だけでは足りなかったと見え、まずは兵糧方に立ち寄ろうということになり、そこで大きな握り飯を二個ずつ分け与えられた。今度は毒が入っている心配もない。傳太もその握り飯を大いに頬張った。
「ところで、丹波様はどうされたのでしょう」
 兵介が、指についた米粒をねぶりながら傳太に尋ねた。
 丹羽にわ丹波たんばは、家老座上かつ軍事総裁である。母成峠では、萩岡で指揮を取っていたはずだが、ここにはその姿はなかった。
「ふむ。宿を訪ねてみるか」
 一行が丹波の宿を訪ねると、慌てて逃げたらしい有様であり、飲食物の他、諸道具を取り散らかしたる様子は、実に名状しがたかった
 傳太は二階に登ってみたが、これまた酒肴菓子等の残物があった。丹波らは先に来て、酒や菓子を食らっていたのかと思うと、少々腹がたつ。だが、今は自分も腹を満たしたい。
 残された酒肴や菓子を、傳太は飽きるまで腹に収めた。
 そこへ、伝介が上がってきた。先程まではうって変わって、立派な出立ちをしている。
「お前、その格好はどうした」
 思わず、詰問口調になる。
「へえ。丹波様らが残していってくださったようで」
 聞くと、丹波らが残したものか、衣類も残されていた。その中からめぼしい筒袖や義経袴を取り出し、小具足も頂戴してきたという。
(まったく、こいつは目敏い)
 半ば呆れながらも、この家僕を守ってやらねばと思う。
 窓の外に目をやると、猪苗代城は会津兵自ら火を放ったものと見えて、火の手が上がっていた。この日は西風が激しく、火は一気に広がっていた。その火の粉は傳太らがいる丹波方の宿にまで飛んできている。
 その火事の様子を傍観しながら、二本松軍の宿舎を出発し、猪苗代湖に沿っている道を進んで若松を目指していくと、途中、一軒の小さな茶屋らしきものがあった。中に入ってみると、これも例のごとく人影はない。囲炉裏に一個の鍋がかかっており、火が燃えている。蓋を取ってみると、畑の芋がよく煮えており、正に食べ頃だった。
 一行は大いにこれを食した。ふと見ると、傍らになお、生の芋があるのを発見したので、たった今食した鍋へ投入。幸い、醤油もあったのでこれを加え、火を炊いて後から来る者の空腹に供えようと考え、同所を出立した――。
 


 元ネタとなった黒田傳太氏は、二本松藩の中では350石拝領、大目付という重要な役割を任されていた人物です。優秀な方だったらしく、明治時代に入り、明治三年には新生二本松藩で権大属、明治八年には学区取締兼戸長を務めています。
 母成峠の戦いの後も、会津若松城下に入って、先に若松に避難していた麗性院(丹羽長国公のご母堂)一行に付き従ってその身の安全確保や米沢への流転などを手助けしました。

 母成峠の戦いについて、何か書きたいと思っていたところ、以前に読んだ「黒田傳太氏回顧記録抄」を思い出し、同文の中から母成峠の戦いに関する場面を、小説チックに仕立ててみたものです。
 逃避行中、やたら物を食べていたのが印象的です(苦笑)。 もっとも、黒田氏の記録からすると、朝ごはんすらろくすっぽ食べられない状況で西軍が攻めてきたようで、「二本松戊辰少年隊記」の著者、水野進氏も(十四歳で従軍)、皆で農家の葡萄棚の葡萄を拝借した様子を描かれています。
 母成峠の戦いは、現代の暦で言えば、10月5日。川の中に飛び込むのも、命がけだったでしょうね。
 ちなみに母成峠の戦いは、二本松藩にとって最後の戊辰戦争の戦いでもあります。

©k.maru027.2022

#日本史が好き
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