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【長編小説】 チュニジアより愛をこめて 8

 そうやって調べていく内に私は、ムスリムの世界に肯定的なイメージを抱くようになっていった。書物やインターネット、テレビなどの媒体で触れた人々の多くは、「イスラムは平和を愛する教えだ」と発言していた。この教えが全て上手く機能したら、それこそ理想的な世の中になるのではないだろうか……? 私はそこまで考えた。そして、自分がベールをまとい、モスクの内部へ入ることを許される者として、その世界へ入っていく姿を想像してみさえしたのだった。
 ――実際、観念的な意味において、私はイスラム世界のすぐ入口にいた。オリーブのモスクの真ん前に立っている今のように。モスクの扉が開きさえすれば、進んで中に入るであろうところまで、私は来ていたのだった。象徴的な意味でではあるにせよ、その時彼はモスクの扉を開けてくれるはずの人だった。羊飼いのごとく、迷える羊を本来の道へと導いて、以前彼が熱心に説いた、最も正しいとされる人の在り方に私を引き上げたがっていた彼は、けれど思わぬ逆接を見せてくれた。
 彼は、まず祈りを怠っていた。「朝はどうしても起きることができない」「悪魔が誘惑するんだ」と言って、早朝の祈りを行っていない言い訳をした。昼と夜の祈りは行っていると言っていたが、……思い出してみれば、モントリオールで一緒に過ごした間、彼がお祈りする姿を見たことは一度もなかった。そして、彼には謎の女友達が多かった。カナダにいた時は、その内の何人かの顔と名前を教えてくれたこともあった。彼のフェイスブックには、男女を問わず常時沢山の“友達”がひしめいていた。私が日本へと去り、彼がチュニジアに帰った後、彼のフェイスブックを覗くたびに、新しい女友達が増えていた。それはもう、三日に一度ぐらいのハイペースで。
 そして、その“女友達”達は、ヒジャブを被っていなかった。それどころか、露出度の高い服を着て、カナダやアメリカ、ヨーロッパの娘達に引けを取らぬセクシーなポーズで、その美しい姿を存分にアピールしていた。

 ……チュニジアという国は、長くフランスの植民地だったこともあり、地中海性気候の温暖な風土も手伝ってか、割と大らかな国民性で、イスラムの戒律も他のアラブ諸国に比べてさほど厳しくは守られていないということは知っていた。髪を隠すも肌を見せるも、その家々の躾によって様々らしいことも。実際、彼のお姉さんという人が、タンクトップ姿で胸も露わに恋人と抱き合いながらパーティーに打ち興じている姿を、私は彼女のフェイスブックで目撃した。

 “謎の女友達”達について私が質問した時、彼は明らかな不快感を示した。「やめろ。そういう話は、俺は大嫌いだ」彼の返答は、これだけだった。納得しない中、チュニジアという国と、彼という人に対して、私はどんどんわからなくなっていった。――意思疎通の欠如、不透明な未来についての、恐ろしい不安感……。よくそんな状態で、二人の間に“一緒になろう”という話が出てきたものだなと、今更ながら不思議に思う。そう、どうしてあんな話になっていったのだろう。予定では、私がチュニジアに赴き、チュニスかどこかで二人でアパートを借りて暮らすことになっていた。――その為に、お金を貯めなきゃね、と私が言うと、“勿論”と言って、その翌日から彼は消えた、、、。――本当に、突然、音信不通になってしまったのだ。(それは初めてのことではなかった。出会ったばかりの頃、モントリオールと日本で交流していた時も、彼は突然消息を絶ち、二週間ほど行方不明になった。……そして後にわかったことだが、彼はその間、警察に拘留されていたのだった)私は半分諦めの気持ちで、半分イライラを募らせながら一日一日を過ごした。
 そして、とうとう八日が過ぎた。その日ようやく、彼から連絡が入った。「Hi,」何ごともなかったかのように、普段通りの会話をしようとする彼に、私はもう半分切れかけていたのかもしれなかった。「八日も連絡なしで、何をしていたの?」と私は聞いた。……しばらく間があって、「Olive oil.」と彼は言った。「親戚の家にオリーブ農園があって、そこにオリーブの収穫の手伝いに行ってたんだ。幾らかお金を稼ぐ為にね」そこはインターネットの繋がらない場所だ、と彼は言った。……結婚をすら考えている相手に、八日間も留守にすること、ましてやインターネットが通じなくて連絡が取れないということを、どうして事前に知らせないのだろうか……? 私はその時女の影を疑っていたわけではなかったけれど、確かにこう思っていた。 
 ――ああ。彼との未来は考えられないほど難しい。こんな繋がりの程度で、どうして夫婦になどなれるだろう? と。

 ――モスクの扉は、急激に遠ざかっていった。チャットの中で、彼は言った、……いや、彼自身が言ったことなのか、それとも私のイスラム探訪の調査の中で、他の誰かが言っていたことなのか、もう記憶も曖昧ではっきりしないことなのだが……男が家を出て行く時、どこに行くとかいつ帰るかなんて、言う必要はないんだ。この国ではみんなそうだ。俺を信じろ。……あなたを信じようにも、信じられるだけの根拠がない。心の中で、私は言った。それから彼は、人生について宗教を論じ、また説教めいたことを語った。

 ――この人は行動と言っていることが伴っていない――。それが、彼を見限った瞬間だった。
「神様が、私をあなたの側に置かれなかったことを感謝するわ。よい人生を。さようなら」
 私はそう言って、彼との全てに幕を下ろしたのだった。彼が激昂した様子が文面から伝わってきたが、それはストレスではち切れんばかりに膨らんでいた私の堪忍袋を引き裂いただけだった。
 
 
 ――今になって思うのだけれど、彼には彼なりの常識、思考回路、行動パターンがあって、単に私がそれを理解出来なかっただけなのかもしれない。逆もしかりで、彼は彼で、言いたいこと、伝えたいことや察してほしいと思うことがあったのかもしれない。だとしたら、私が理解しないことや、響かないと思った時に、さぞかし歯がゆい思いをしたことだろう。文化的にも民族的にも、慣習的にも宗教的にも、あまりにもかけ離れた二人だからこそ、お互いがお互いの話をきちんと聞いて、理解し合う努力をしなければならなかったのだ。…私はそれを怠ったような気がするし、彼に至っては――そうしようというそぶり、、、さえも見せなかった。
 
 
 ――長い回想から戻って来た時、目の前にあるモスクは、厳然と扉を閉ざしていた。観光客は中庭までなら入って見て回ることが可能なはずだったが、私はモスクに背を向けると、元来た道を帰って行った。これまでの色々な出来事を鮮明に思い出したことによって、これからやろうとしていることに焦点を絞り、より決意を固めることができたような気がした。私は、今度は迷うことなく、スークの中の薄暗い小路を逆に辿って、宿泊しているホテルの前まで戻ることができた。彼と約束をした時間まで、あと十五分というところだった。

 ――私は深呼吸をして、身なりを整えた。……もう少し。彼が姿を現したら、私の計画の歯車は回り始める。……
そして、ようやく全てが終わるのだ。

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