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“普通”の呪縛と同調圧力を考える〜生きづらさの根っこにあるもの。

こんにちは! ツナです。前回記事↓からの続きです。

以下はあくまでも ”息子の視点から私が考えたこと” です。個人的かつ偏った考えもあるかと思いますので、そこはさらっとスルーしていただければ幸いです。
(以下は2023年6月に書いたLEE100人隊ブログを加筆修正したものです。)

学校に行かせる意味がわからない。

息子が就学して以来、親の私が「学校に行かせたくない!」と思ったことは何度もあります。

でも当の息子は「学校にいるとイライラする」と言いながらも学校が好き(なぜに?)。トラブルが頻発する時期は特に、息子の意向を尊重しながら苦い思いで学校に送り出す…なんてことも多いです。

そんな息子、小3に進級した昨年度は4月から荒れた状態が続いていました。実際に「学校行かない!」と行き渋りをしたのも昨年度初頭だし、結局大荒れ状態は丸々1年間続いたのです。
(このことについては ”特別支援学級の当たりハズレ問題” として改めて書きたいと思います。)

学校の外に出れば瞬時に表情が和らぐさまを見ていると、どうしても二次障害の不安が募ります。

親である私が何より恐れている二次障害。
なのに、今の息子にとっては学校こそが最も二次障害を引き起こす可能性が高い場なんですよね…。(あくまでも私感です)

そんなリスクを負ってまで、学校に通わせる必要はあるの?
そもそも学校がはたす役割って何だっけ?
息子の視点から眺めてみると、なんだか学校って不合理だと感じることが多い気がする…!

もちろん学校は社会性を身につける上で重要な役割を担っています。私自身も多くのことを学んできた大切な場だし、それ自体を否定する気はまったくありません。

でももしかしたら。
場合によっては一人ひとりの個性や能力、時には心すらも削り取っている可能性もあるのかもしれない…。
そんなことをぐるぐると考えてしまいました。

「普通」の呪縛って案外怖い。

そんな中、手に取ったのがこちらの本。
医学者であり精神療法を専門とする泉谷閑示さんの著書・『「普通がいい」という病』です。

「○○するのが普通でしょ」「△△しないといけない」といった言葉って、日常の中で何の気なしに発してしまいますよね。
でもそういった "なんでもない言葉" が他者、さらには自分自身をも縛ってしまうのではないか? そんな問題提起をし、気づきを与えてくれる一冊です。

個人的には序文p.5~6、p.205~「第9講 小径を行く~マイノリティを生きる~」が特に刺さった! 子どもの特性(発達障害/発達凸凹)の有無にかかわらず一読の価値があるように感じました。

これも私感ですが…。
日本は同調圧力が強いように思います。
和を大切にする精神は素晴らしいけれど、息苦しさを感じることもしばしば。一長一短だとは思いますが「人は人、自分は自分」という割り切った考え方に憧れたりもします。
基本的には和を重んじるタイプの私ですらこうなんだから、息子にしてみたらなおさらだろうなぁ。

思えば、日本の学校教育にも少なからず同調圧力があるような。
大部分の子どもは特に違和感をおぼえず「学校とはこういうもの」と捉えていくのだろうけど(私もそうでした)、よく考えてみたらちょっと変かも!?

同調圧力について考えてみた。

例えば、物語文を読ませて「あなたはどう感じましたか?」と先生が子どもに問う。国語の授業では定番の流れですよね。
感じ方は人それぞれ、そこにいい/悪いはないはずなのに、自然と ”期待されている答え” を返してしまう不思議。

最近は変わってきたと思いますが、昔は期待外れな回答に対して先生が否定するケースも少なくなかったような…。
でも、個人の感じ方に対して正解/不正解なんてある?

益田ミリさんの『おとな小学生』にもそんな文章があったと記憶しています。

実は、前回記事で「息子を ”普通” に寄せることに違和感をおぼえた」と書いたのもまさにこのケース。保育園の先生が読んだ絵本に対して、息子だけみんなと違う感想を口にしたことを伝えられたんです。
「みんなが□×という感想を口にする中、息子くんだけ○△と言ったんです」と深刻な口調で伝えられたのが今でも忘れられない。。

先生が息子の言葉に違和感を抱いたのは理解できます。
でも息子の話を聞けばそこには彼なりの思考があるのだし、”こうあるべき” に寄せるために物の見方や考え方までどうこう言われたくない…。そんなの自分の意見が言えなくなっちゃうじゃん!
(もちろん倫理に反することなら別ですが。)

考え始めるとますますよく分からなくなる〜。
こういうことって一個人が考えてもどうにかなるものでもないし、むしろモヤっと感は強まる一方。あれこれ考えないのが得策ですかね。。
でも似たようなくやしい思い、やりきれない思いをされている方って、案外多いのではないかな…と想像しています。

ちなみにこちら↓、言わずと知れた名作・田村由美さんによる『ミステリと言う勿れ』。

この8・9巻で主人公の整くんが読書感想文、意見交換について教えるシーンが秀逸なのです。
学校でもこういう教え方をしていたら個々の意識、ひいては世の考え方もかなり変わるんじゃないかなぁ。

「ギフテッド」について学ぶ。

ギフテッド(Gifted)」という言葉、最近は広く知られるようになってきましたよね。
明確な基準がなく判断が難しいそうですが、WISC検査結果から息子も若干近いものがあるのかな…と感じています。
(発達凸凹が併存するギフテッド2Eの方です。)

IQが突出していたり天才的な能力があったりするわけではまったくありません。でも確かに言語理解力は高いし、好きな分野の吸収力はすごい。

少しでも参考になればと思い、ギフテッドに関する本も読んでいます。
話題になった本、『ギフテッドの光と影  知能が高すぎて生きづらい人たち』は読みごたえがありました。共感ポイントも多く、今後起こり得るリスクについて知ることができたのもよかったです。

いちばん印象的だったのは、とある方の「才能があるからといって、それを伸ばそうと親にあれこれされたくなかった。放っておいてほしかった」という言葉。しっかりと心に刻み、今でもくり返し思い起こす箇所です。


『才能はみだしっ子の育て方』は国内外いろいろなケースが紹介されているのが興味深い。


『ギフテッドの個性を知り、伸ばす方法』はヒントとなる部分が多く、何度も読み返しています。分かりやすくておすすめです。


ギフテッドの話はさておき、教育の分野でも多様性を重視する動きが進むといいなぁ。一朝一夕にはできないだろうけど、そう願わずにはいられません。

息子がぶつかる壁は成長するにつれてどんどん増えていくはず。手探りではありますが、この先も息子の気持ちに寄り添ってベターな道を模索していきたいと思います◎

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