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「週刊キャプロア出版(第26号): カオスを取り戻す」が発売されたぞ。

ルールは退屈である。ルールが多い社会は面倒である。そう思いつつ無数の「ルール」に絡め取られ、現代社会を生きているのが私たちだ。 <br> <br>本来、すべての出来事は「よい」も「悪い」もなく「自由」なはずだ。自然を見よ。そこに善悪もなくそれぞれが己の使命を全うしようとするダイナミックさがある。そこには生きしものの自由の讃歌がある。 <br> <br>翻って人間といえば、己を小さくするかのように「決まり事」「ルール」を自由と引き替えに構築していく。なぜか。自由は難しいからだ。自由な状態、善悪がない状態・先が見通せない状態・カオスな状態は怖いからだ。だから「カオス」に前もって形を作るためにルールを作るのだ。 <br> <br>もちろん、それが悪いことではない。人間はルールを作ることで生き延びてきた生物といえる。人間ほど弱い生物はいない。しかし、その弱さを「将来をねじ伏せること」で生きながらえてきた。だから、ルールを作りカオスを減らすのは決して間違った行いではないのだ。 <br> <br>しかし、たまには「自由」を謳歌したいこともある。ルールに疲れてカオスの波に身を任せてなるようになれ!と束縛から解放されたいこともある。 <br> <br>キャプロア出版ももう26

週刊キャプロア出版(第26号): カオスを取り戻す
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トリプロデューサー は、今回も「ここが変だよ、キャプロア出版」のコーナーを執筆しています。

なんと、今回が最終回!ということで、ちょっと長めです。

いつも通り、全文をnoteにて掲載します。
それではどうぞ。


何も無い意味でのカオスってどういう意味?

今号の原稿は凄まじく悩んだ。まさに脳内カオスだ。

カオスの意味を調べると、混沌や混乱といった言葉が出てくる。
しかし、自分の中での近いニュアンスは、「情報過多」である。情報が錯綜しているイメージが、カオスだと捉えている。

実のところ、週刊キャプロア出版にて、カオスについて触れている作品を以前に書いていたりする。
週キャプ第5号のテーマ「水」で、「二子新地から二子玉川を見た多摩川を挟んだカオスな構図」というコラムを執筆している。
このコラムは最後に、「二子新地から二子玉川を見たカオスな構図が、自分は大好きだ。」と締めている。

そう、自分はカオスなものが好きなんだと、いままでずっと思ってた。
でも、それはちょっとした勘違いを孕んでいた。
あくまでも、カオスの外からカオスを眺めることが好きだったのだと。当事者でないから楽しめていたのだ。もう、まさに野次馬。

自分が当事者として関わるカオスは、鬱である。
自分は鬱も「情報過多」な状態を指していると認識している。
そうか、カオスと鬱は同じものを指してるけれども、立ち位置が違うだけだったのか。これを書くにあたって得た気付きだ。

さて、自分の認識のカオスについて書けと言われたら、おそらくサラっと書けたのだと思う。
でも、今号のリーダーであるくらげさんのカオスの認識が、「何も無いという意味でのカオス」とのこと。
これはどういうことだろう。「情報過多」と「虚無」が全くの別物すぎて、混乱をきたしているのだ。
まさに、冒頭に書いた「脳内カオス」だ。

そして、ここで見えたのが今回の趣旨「キャプロア出版のルールを一度取り払おう」。
なるほど。自分もここで、ルールを一度取り払ってみたくなった。
自分ができることはただ1つ、「ここが変だよ、キャプロア出版」のコーナー終了だ。

よくよく考えると、キャプロア出版は存在そのものがカオスだ。
これを楽しむためには、自分は傍観者になる必要がある。
自分の鬱状態からの脱却を図るために、一度キャプロア出版から逃げてみよう。
果たして、二子新地から二子玉川を眺めたように、キャプロア出版は見えるのか。試してみたくなった。

ということで、「ここが変だよ、キャプロア出版」のコーナーは、今号で終了です。ありがとうございました。

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