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脱学校的人間(新編集版)〈69〉

 人間にとって、あらためて「学校」とは一体何だったのだろうか?
 たとえば、「脱学校」という考えがある。しかし、もしそれがただ単に「学校などなくしてしまえばいいのだ」というように考えられているものだとするならば、どうにもあまりに短絡的で、安直な話ではないのかというように思わずにはいられない。
 ところでそういった、「脱学校」に対して一般に抱かれているような、ある種の表層的なイメージについては、以下のような俗っぽい謎解きをすることもできるだろう。
 まず「学校などなくなってしまえばいいのに」などという願望の裏側においては、「学校とは違うものが何かあったらいいのに」という期待が覗いているだろう、あるいは「学校とは違うところに、学校のようなことをやらせることができたらいいのに」という欲求も暗黙のうちに隠されていることだろう、さらには「学校とは違うところに学校とは違うことをやらせて、学校から得られる以上のものが得られたらいいのに」という思惑もそこに潜んでいるところだろう。
 そしてそれらとやや似たような言い方にはなるのだが、そこにもう少し付け加えてみれば、「もはや学校など必要ない、学校で勉強するのは無駄だ」などといったような、巷によくある「進歩的な」考え方のその背後には、「学校でなされているものとは別の、何か無駄にならないような有用で意味のある勉強」を志向する、一種の功利主義的な欲望が忍ばされていることだろうし、あるいは「有用な教育を学校以外で得よう」という思惑が、そこには含まれてもいるのだろう。さらに重ねてみれば、そういった功利的感性にもとづいて、「真に有用な教育への一元化」といった大それた野望が、そこでは密かに、あるいは公然と企まれてさえいるのだろう。
 しかし、もしそうであるのならば、それこそ「現にある学校」が、あなたのその期待や思惑や野望などに対して、十二分に応えてくれるはずだ。そのようにあなたが求めているものを、最も効率よく最も確実に与えてくれるところはどこかと探し回ってみれば、結局のところそれは「学校」に行き着くことになるはずだろう。なぜなら学校とはまさしく、「そもそもそのために作られている」はずのものなのだから。

 経済的にも社会的にも有用有益で合理的な結果を求める、そのような「功利への意欲」というものは、とどのつまり自己自身の感性・経験に由来する欲求の、一般化・合理化・正当化だということなのであり、およびそれに対する自己自身の固執であるのに他ならない。たとえば人がもし、自分自身の「社会的な観点」といったようなものを、自己自身の感性的・経験的な根拠にもとづかせている限りは、そこから出てくる「社会的な判断」なるものもまた同様に、自分自身がそこへ至るまでに獲得してきた、さまざまな感性的・経験的な認識の蓄積を、慣習的にその基準とせざるをえないだろう。しかし、何よりそのような「感性・経験」といったものは、自己を主体とすることによってでしか成立しえないものだというのは、ここであらためて言うまでもないことである。
 だがこの種の功利心に固執する者らにおいては、自分自身の志向する功利への意志=欲望が、まさしく自己自身を出発点としているものに他ならないのだということを、事実として自分自身に認めさせようなどとは、けっして自ら進んでしようと思わないものだろうし、実際そうはしないのだろう。たとえばそれがもし、教育に対して向けられた功利的な欲望の固執者であれば、それはきっとなおさらのこととなるのではないか。

 感性的原理にもとづくところの、彼ら教育的功利心の固執者たちは、おそらくまずは第一に「そもそも学校が、私たちにとって有用有益な教育を提供しないことがいけないのだ」というようにして、既存の学校教育の不当性を告発するところから議論をはじめるものであろう。曰く、そもそも全て問題の原因は、学校の機能的不全性にあるのだ、というわけである。そのようにしてまずは「他者の不当性」を前提とすることで、彼らはようやく自己自身の志向する、有益・有用にして「十全な教育」の正当性について、思う存分主張しはじめることができるようになる。
 しかしかえってそれゆえに、彼らが下す自分自身の正当性についての判断は、むしろ彼ら自身が否定しているはずだった「学校教育」のありように、その前提を全面的に依存していなければならないものとなるのだ。要するに、ここに生じている対立とは、その見かけとはむしろ逆に、結局のところは「他への依存」の様相を明らかに呈するものとならざるをえないわけなのである。
 ところが彼ら「進歩的で改革的な教育論者たち」は、そのように「学校に依存しながら学校を否定する、自らの倒錯した意識」を、自分たち自身では何一つ認めることもなく全く無視してしまう、あるいは全く棚上げにしてしまう。ゆえに彼らの主張は何よりもまず、彼ら自身の主体性を放棄するところから始まっているということになるのだ。

 既存の教育とは別の、たとえばオルタナティブな学びといったようなものを志向する改革的教育者たちはたしかに、学校とは別なところから学校とはまた別の方法で、彼らなりに彼ら自身の求める「真の教育」を捉えようとしてはいるのであろう。しかし彼らが捉えようとし、また実際に得られているものとは、実際のところは結果として「学校から得られるのと全く同じもの」であるのに他ならないのである。
 では、それは一体何であるというのか?
 それは言うまでもなく、教育の「結果=成果」に他ならないわけである。
 ゆえに彼ら進歩的教育者たちは、学校とその利害を互いに一致共有させているのだということは、全く疑いえない事実なのであり、その意味で彼らは学校と、全くの共犯関係にあるわけなのだ。その上で彼らは、さらにこの関係を維持するためにも、むしろ学校の存在を温存させてさえいるのである。
 こういった自己自身の思惑を巧妙に隠蔽しながら、自らの正当性を臆面もなく主張するような欺瞞をはたらくのが、いわゆる脱学校論者やらオルタナティブ教育支持者などといった「改革的教育者」だというのであれば、むしろ真っ正面から「既存の学校教育の価値」を信じ、それを擁護しつつ自らも実践しているような、熱心で純粋な「一般的もしくは保守的」な教育者たちの方が、その正直さで言えばまだしもいくらか信用できるくらいのものなのではないだろうか?

〈つづく〉


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