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脱学校的人間(新編集版)〈64〉

 社会のいかなる生産活動においても通用するような「一般的な労働の活動力」として、「社会的に一定の有用性を持った生産機能主体であるべし」という統一された基準の下で、誰もがだいたい同じように作り上げられているのが、現代における「一般的=社会的人間」である。そのような人たちが集合して作り上げられているこの社会において、それぞれ個々の人間の、それぞれ個々の生き方とは、しかし「それぞれ個々の」とは言いながらも、おおよそ誰でも予想がつくように「誰もがだいたい同じようなもの」となっていくことになる。
 そしてそのように、だいたい同じように生きている人たちの個々の生き方は「結局は誰もがだいたい同じように生きているのだろう」と、実際そのように生きている者同士の間であればあるほど、当然のごとく互いにだいたい予想がつくものになっている。ならば、そのように誰もが予想する通りの生き方で、実際それぞれ個々の人間が生きることを、それぞれ個々の人々に対して期待し求めていくというようなこともまた、だいたいどこの誰に対してでも、何ら無理筋でもなく可能なこととなるだろう。そして実際、社会という大集団の中で必要とされている人間とはまさに、そのような「予想のつく」者なのである(※1)。
 彼らは互いにそれぞれが個々に何を考えているのか、それぞれ個々に何を欲し、それぞれ何をしようとしているのか、それぞれ互いにたやすく予想し合うことができる。なぜなら自分も同じように考え、同じように欲し、そして同じように行動しているからである。だから彼らは互い同士で何を期待し合ってよいのかも、あらかじめだいたいわかっている。そしてそういった、あらかじめ互いにだいたいわかり合っているような他の者たちの期待に応え、互いの予想に従って自ら行動することを、彼らは自らにも期待し求めることになる。
 他の者たちの予想と期待を自分自身が受け入れるのは、逆に自分自身が他の者たちのだいたい予想するその通りのものとして、他の者たちの誰もが受け入れてくれるだろうと期待できるからである。そしてそのことはさらに、自分自身が他の人々の誰とも違っていないのだということを、当の他の者たちに向かって証明することにもなるだろうということも、同時に期待できるからである。なおかつ自分自身としてそれができているというのならば、そんな自分自身が社会に受け入れられていることを「自分自身の確信として感じられる」ことにもなるだろうと、そこに併せて期待できるはずだからである。それらのことをパッケージして獲得できれば、社会に生きる自分自身の大きな安心感も得られるはずだということは、何より大きな期待として誰しもが抱かずにはいられないところだろう(※2)。

 しかしその反面で、「全ての者がだいたい同じことをしている」ような一元的な生活環境・状況において、「本当に自分たち全ての者が同じことをしている」ように見て取れるときには、むしろ逆に自分自身として、「われわれは本当にみな同じことをしているのだ」という実感を、誰もが実は心底の確信として持つことなどできていないものであるのかもしれない。つまり、「あまりにもみんなが同じでありすぎるので、逆に自分たちがみな同じであるということを、自分たち自身で実感できない」というわけだ。
 そんなとき、人は一体どうするのか?
 人はそこで今度は自分たちの集合体の「中にあるもの内」にありながら、しかしそんな自分たちとは必ずしも同じではなさそうな何ものかを、まさにその自分たち「の中から」探し出し、見つけ出し、つまみ出そうとするだろう。そしてそのような自分たちの内部にありながら、しかし必ずしも自分たちとは全て同じとは思われないその何ものかを、他でもない自分たち自身の手によって見つけ出しつまみ出すことによって、逆にその何ものかを除いた他の者ら、すなわち「われわれ自身」は、結果としてやはり誰もが皆同じだったのだということを、その何ものかを除く自分たち自身の間で確認し合い、実感し合おうとするだろう。そしてそのとき「われわれ」において何より必要なのは、そのように「われわれの中」にありながら、しかし「われわれ全体」と同じ在り方をしようとはしていない、その何ものかに対して、その何ものかを除いたその他の「われわれ」誰もが、「より完全な形の、同じ在り方」をもって、互いに一致結束して対応にあたることなのだと、その決意をあらためて固め合うのであろう。

 「われわれは誰もが皆同じなのだ」ということを「われわれ同士」で互いに確認し合い受け入れ合うことが可能となるためには、「われわれ全体」の行動様態をより一致させていくように、より「われわれ自身」において仕向けていくようにしていかなければならない。なぜなら「われわれ」が集合し一致結束して活動しているこの「場」は、他でもない「社会」と呼ぶべきものなのであり、そして社会とは「あえて意識して」でなければ維持していくことのできないものであるとするならば、そこに集合し一致結束して活動していくこともまた、「われわれ自身が意識して仕向けていく」のでなければ少しもできないようなことなのだから。
 全体の中にある異質なものの発見と排除、それが何より「われわれ」の同質性を証拠立てる。なかんずく「われわれ」とは同じものではない異物を、「われわれの中から」発見し排除することが、その他の「われわれ」の誰もが皆同じであることを、他の誰でもない「われわれ自身」に実感させる。のみならず、「われわれ自身」と「われわれのその中」を、より強く固く同期させるものとなる。そのためにも、「われわれの中にある異物」は「われわれ自身」にとって、「常にあることが必要」といってよいくらいのものなのである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 フロム「正気の社会」
※2 フロム「正気の社会」


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