【小説】会社の近くに住む 2-23
もう身体も頭も疲れているのになと思う。どうして仕事が嫌にならないのだろう。また遅くまで働いてしまって、今すぐ切り上げたとしても、帰ったらさっさとシャワーを浴びて寝るしかない時間になっている。
けれど、人が減って誰に気を遣う必要もなくなっていくほどに集中できるようになって、仕事にうんざりしていくきっかけもなくなってしまう。定時の間は、こんなふうに、何もかもどうでもいいからとりあえず仕事をしようというような気分になることはほとんどないのだ。むしろ、たまにだるいなという気持ちと、つまらないなという気持ちが混ざり合ってどんどん膨らんでいくみたいになって、何でもいいからこの場所から出たいと思ったりすることもある。けれど、遅くなって疲れていくほどに、むしろそういう気持ちはなくなっていってしまう。
何か月か前は、定時の間にどうしようもなく嫌になって、定時が過ぎたらさっさと帰っていたりもしていた。あのときはすごかったなと思う。まったく手が動かなくて、呆然としているうちに何時間も過ぎていっていた。彼女と別れてからの、どうしようもなく自己嫌悪が強かった時期で、何をしていても嫌な気持ちになっていて、ここにいることに嫌になって、とにかくここから離れたいというような、そういう思考パターンをひたすらぐるぐるしていた。
気持ちが沈んでいて、パニックみたいなものが浮かんでくるのを押さえつけるのに頭のリソースを使ってしまっているせいで、そこまで仕事に集中できなくなったからというのは大きいのだろう。仕事に没頭することで心を空っぽにして、空っぽになったことである意味気持ちが落ち着くというふうになっていたところがあったのだろうし、自分の生活上のストレスや仕事含めの人間関係のストレスみたいなものがあったとしても、仕事にどっぷり集中できることでそのストレスを解消できていたようなところもあったのだろう。それまで自分でわかっていなかったけれど、自分にとって仕事に集中できないことはとんでもないストレスだったのだ。
そんなふうな、よくないスパイラルに入っていたということなのだ。そもそも週末もどっぷりへこんで過ごして、そして職場に来ても集中しきれないことにイライラして、それが自己嫌悪と混ざり合って胸の中で膨らんでどんどん居心地が悪くなってくる。そもそも前から職場鬱っぽい感じで職場内にいると身体の機能が低下しがちで息苦しいところに、彼女と別れたことによるずっしりとした気持ちの重さがあって、ずっと喉が詰まっているような感じだった。うまく声が出ない気がして電話をとるのをそれまでより控えたりしていた。そうすると、声を出す機会もない。そうやって黙っていて、周りもあまり喋っていなくて、自分の気分もふさいでいると、黙らされているような気分になってくる。居心地が悪いまま、ここから離れたいという気持ちでずっと何時間も過ごして、やっと定時になったとぐったりした状態で帰っていたのだろう。そして、そこにいたくなかっただけで、帰って何をしたいわけでもなかったのだ。とにかく会社でじっとしているのが苦痛だっただけで、家でしたいこともなくて、家でじっとしているのも苦痛で、とにかくどこかに出ていこうとした。そして、外である程度時間を過ごせるとなると、あの頃の自分には映画館だった。きっと最初の頃は街をぶらぶらしたり、いろんな店を見たりしていたのだろうけれど、欲しいものがあるわけでもなく、そんなに何時間も毎日見ていられるほど見たいものもなかった。映画なら始まって九十分なり二時間の間、それなりに画面の中の出来事に集中できて、自分のことを忘れた時間を過ごせた。悲しい映画や苦しい映画ばかりを選んでいたのだと思うけれど、そうやって職場にいても触れられないシリアスな感情に触れられて、何か心から同意できたり同情できたりすることに、少しほっとしたり、なんとなく力づけてもらえたりしたのだろう。
一番うんざりしていた時期の中で、映画が多少はましな時間になっていたのだ。東京に出てからテレビを見る習慣がほとんどなくなっていたし、どっちにしろテレビではそんなふうに自分のことを忘れる時間にはならなかっただろうと思う。テレビは散漫過ぎるのだ。そもそも、ガイドラインとして、わき見しながらでも見ていられるように製作されているのだから仕方がない。忘れたいことを忘れていられるほどのテンションや情報量を詰め込むのはよしとされていないメディアなのだ。映画は、そういう映画を選びさえすれば、たいてい張り詰めたものがあって、強いエネルギーが詰め込まれている。そういうものだから、ただ受け身に画面に食らいついているだけで、その強い印象が流れ込み続けて、頭に自分のことを考えてしまう隙間ができてしまわないままで時間が過ごせたのだ。
そういう意味では、今仕事をしているのも同じなのだろう。仕事で自分の頭を埋め尽くして、考えたくないことを考えないようにしているのだ。そして、いつくらいからそうだったんだろうかと思うけれど、あんなに呆然として仕事が手につかなかったのに、また仕事はいくらでもできる状態に戻りはしたのだ。
かといって、別に何が変わったわけでもない気もする。空っぽに戻っただけなのかもしれない。
何か月か前と今とで変わったのは、職場にいてじっとしているのが嫌で仕方ないというような精神状態ではなくなったということと、後は、映画を観まくったとしても、観ている間は集中できるし、いろいろ感じたり考えたりして有意義な時間にはなるけれど、だからといって気持ちが晴れたりするわけではないとわかったことだろう。後は、さすがにまったく残業をしないと貯金が減ってしまうくらいの給料になってしまうから、多少は残業しておかないといけないと思ったとか、それくらいなのだと思う。
ましにはなっているのだろうけれど、ましなだけで、ちっともまともじゃないのだ。映画を観ない代わりに貯金が増えて、かといって、仕事が終わってアパートに戻るたびに、仕事だけで一日が終わってしまったけれど自分は何をしていたんだろうと思っている。
けれど、そんなことを考えるたびに思うけれど、さっさと帰って何をすればいいんだろうと思う。みんな、こっぴどい失恋をしただとか、親しい友人が自殺してしまったとか、何であれひどい後悔とか無力感でまったく気持ちが一瞬も晴れないまま何週間も経ってしまうような精神状態になったときには、どういうふうに過ごしているのだろう。俺のように仕事に逃げられるひとばかりではないだろう。
最初に付き合った彼女は、俺と別れてから一年くらい経ってから、パニック状態になってそのままどっぷりとへこんで大学まで休学してしまった。そのときには北海道の友達のアパートに居候させてもらいながらひきこもったりしていたらしい。その後、復学して卒業して働き出してから鬱状態になった頃は、仲のいい友達に週に何回も会ってもらって、話を聞いてもらって、それで何とか気持ちを落ち着かせる時間を作ってやり過ごしていたと言っていた。その仲のいい友達には俺も含まれていて、一時期は週に二回ずつくらい、仕事帰りに飲みに付き合っていた。
そうやって話に付き合っていたからというのがあったからだろうけれど、俺もその元彼女には、話を聞いてもらったりしていた。まだ前の彼女と別れて少ししたくらいで、まだまだどっぷりと気持ちが沈んでいた頃にも、連絡して、飲みながら話を聞いてもらった。そのひとと一緒にいるだけで、自分の今の気分とは別に、今までそのひとと過ごしていたときの穏やかな気持ちが自分の中に浮かんできたし、相手も俺をかわいそうに思ってくれていて、少しは気が楽になった気がした。
けれど、誰かと話せると少しは楽になるんだなと思っても、他の人を飲みに誘うことはできなかった。昔からそうだったけれど、ひどくへこんでいるときに友人に頼るということが俺には難しかった。悩みごと系の話で飲みに誘われることはあっても、辛いときに飲みに誘われることが今までほとんどなかったから、以前頼られたのを頼り返すというふうに思える相手が、最初の彼女以外にはいなかったというのはあるのかもしれない。
そういうふうに落ち込んだときに友達にいろいろ話を聞いてもらうというのは女の人の文化で、男の多くは辛いときに友達に話を聞いてもらったりはしないのだろうとも思う。全般的に男同士というのは、そういう自己嫌悪や無力感のようなものを晒し合えるような間合いでの関りではないことが多いのだと思う。ひとによってはそういう相手がいたりするのだろうけれど、俺は男友達からそんな話をされたことはないし、落ち込んだときにあいつが毎日のように話に付き合ってくれたのがすごく助かったというような話を男から聞いた記憶もない。よほど優しくて甘えられるし頼りにもできるという感じがする男にしか、男はそういう話はしないのだろう。俺は男から甘えられた経験はなかった。
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